おまけ・牧師のぐち(続日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。8月13日~20日
おまけ・牧師のぐち(続日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。
土)台風の通過の後の点検をするが、近所に迷惑をかけなくて、ホッとしている。主日の最終チェック。心の余裕をもって。
日)教会学校は、夏休みだが開いていると分けん分からないことをしている。ただ今、蝋燭作り。2名と保護者1名。平和主日の礼拝。諦めずに平和を作ることが教会の幸い。コロナ感染状況で礼拝出席を控えていただいているので、盆と重なり出席者は少ない。夕礼拝も久しぶりに家内と二人。静かな主日であった。
月)敗戦記念日、朝、早く起きて、NCCの「平和祈祷会・千鳥ヶ淵戦没」に出席しようと思ったが、集会が政治的過ぎて、出席をためらう。またコロナ感染状況が厳しいこともあり出席せず、家で平和を願い祈る。日を変えて静かな千鳥ヶ淵戦没者墓苑に行こう。庭の掃除をして、ふと上を見ると白い可愛い金柑の花が咲いている。やっと、「宗教と科学の接点」を読み終わる。私の知力ではおよばないが参考になった。
火)私がお世話になった方を看取った娘さんを慰労するために会食をする。コロナ禍、びくびく注意をしながら。
水)H教会、幼稚園に行く1時間半の電車の中で宮本輝の随筆を読む。魂に響き、心がわくわく。教会の掃除のとき焦り過ぎて躓きこける。内出血、こんなことで寝たきりの老人になるのだろうと自戒。焦らず、確実に。
木)主日の準備を終えたいので早朝から始める。「私は、なぜ人間はうまれながら差がついているかという命題に、深くかかわっていこうと思う・・・・宗教を信じるわけにはいかない。そうした説得に応じるには、少々すれっからしになってしまったし、いささか残酷な現実につきあいすぎたからである」という昨日の随筆の一文がひかかる。どこか同じような体験をし、残酷な現実は彼ほどなかたが共感でき。しかし、私は深みがたりないで、キリスト教に出会い、受け入れ、人生でどこに帰りたいと言われれば神学校時代と言えるし、ファースト先生の「伝道の書」の講義で、「うまれながら差」を受け入れた。牧師として深みがないのはあっさり「うまれながら差」を受け入れたからかと反省している。
九州学院(ルーテル教会設立母体)と聖光学院(カトリック教会が設立母体)の試合で、カトリックに勝てるはずがないと変な思いがあって苦笑していた。1回で大量点を入れられ惨敗と見る前から思っていたら案の定であった。予感があたったとがっかりし、ここも泣いていた。神学校の同級生、同じ時に牧師になった方が今は九州学院長である。彼のことだからきっと、選手を労り、慰めているだろうと想像できる。彼のものとでの学生は幸せである。
躓く、躓くと思っていたら見事に躓き、内出血。そんな時に河合隼雄先生の「宗教と科学の接点」という本を読んでいてなんとなく納得したのは偶然でしょうか。
金)今日も休み時間にカラオケに行く。30分99円、声を出すのは健康に良いかも。神学校時代の1973年からの歌を歌う。「式文」、「週報」、「風のように」を印刷し、ホームページを更新し、主日の準備終了。引退にむけてパソコンの記録を整理していくか。千鳥ヶ淵にお参りに行こう。戦争の匂いを少しでも嗅いだ者の義務か。