聖霊降臨後第24主日(こども祝福式)「こどもど真ん中」
そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。 マタイによる福音書19:13~15
【説教要旨】
こどもの健康を願って江戸時代に始まった関東の風俗であったものが全国に広がっていった七五三の行事を教会の大切な行事として、教会では、「こども祝福式」として行ってきました。その国、その地にあって、またその国、その地にある習俗をキリスト教に合わせていくことを土着化というのです。キリスト教がヨーロッパに伝道していく初期はダイナミックに土着化を進めていきました。冬至祭をクリスマスに飲み込んでいったことは代表的にキリスト教が土着化したものでした。
「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
しかし、イエスは言われた。『子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。』」 病気を癒すなどの奇蹟を起こしていたイエスさまは特別な力があるお方だと知られていました。親たちは、子どもの幸せを願って、イエスさまのところにやってきます。特別の方から手を置いて祈っていただくことは、こどもたちに特別の力が与えられると言われていたからです。幸せを心から願っての親の思いです。今日、ここに来られているのもきっとイエスさまのところに連れてきた親の思いとみなさんは同じではないでしょうか。現代の昨日と今日、今日と明日がまったく繋がらない不連続の中で大変化していく時代を生きている子どもの幸せを願う思いが強くなるのではないでしょうか。しかし、強くなれば強くなるほど幸せはけっして簡単に与えられるものではないことを私たちは知っているからではないでしょうか。子どもが生き残るために親は必死です。
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「弟子たちはこの人々を叱った。」幸せを妨げるものがある。これが子どもたちより先に生きた親たちの体験であり、経験であります。
幸せを妨げるものが私たちの前にあるのが現実で、試練が待ち受けていることを容易に想像できます。
「世界の標準の子育て」という本の中で、「彼ら(活躍している人)はみな、優秀だったわけではないのです。誰もが一度は『競争の壁』に阻まれ、挫折や自信喪失を経験していきます。
その時支えになるのが、困難に負けない『強い心』です。強い心は、子どもが勝手に身につけるものではありません。育て方によって身に着く、後天的な資質なのです」と言っています。
妨げられる、あるいは阻止されることがある。今日の物語はイエスさまを前にしても妨げられる、あるいは阻止される子どもがいるのです。しかし、阻まれ、挫折や自信喪失を経験していくこと、試練を私たちの教会を設立したルターは、神さまの恵みと捉えています。
試練を美的でも倫理的でも、また教義的でもなく、全く超越的であり、日常の安定した親しい間の世界が崩壊し、自己の在り方が根底的に震撼されるときであり、ここで人が神さまとの関係の中で単独者として立っていくことが再創造されるというのです。「その時支えになるのが、困難に負けない『強い心』です。」という『強い心』です。
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人と神さまとの関係とは、「しかし、イエスは言われた。『子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。』」ということです。誰もが、女か男か、こどもかということで、妨げられる、あるいは阻止されることはない。凡てが等しく天の国、すなわち神さまの支配、愛を与えられて祝福されるものとされているとイエスさまは言われます。イエス・キリストによって愛されている私と神の関係が確かなこと、イエス・キリストへの全体信頼において、困難に負けない『強い心』を私たちに与えられるのです。
文科省が出した「新幼稚園教育要領」で「愛着」という言葉があります。幼児期に十分に愛されたことを着るということです。それが目標達成・欲求の抑制の自己、他者の気持ちを理解する他者理解、他者に利益をもたらす意図に基づく自発的行動を作るというのです。
イエスの弟子であるパウロは、イエス・キリストの愛の絶対信頼こそ、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能。フィリピの信徒への手紙4:13」とされると言っています。私たちがすべてにおいて可能とされるのは世の中の力だと思っていますが違うのです。私たちが何よりも神さまに愛されている自信(愛着)であり、困難があってもそこで神の愛に向かう力であり、愛されていることを五感で感じるゆえに、自己中心から神、愛中心に転換し、もはや自分のために生きないで、他者のために生きる愛のわざに励むのです。
イエスさまの祝福は、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能」となる恵みを私たちに、子どもたちに与えてくださるのです。
イエスさまの、神の愛が、こどもたち一人一人の心に注がれています。安心してここをでて、ご一緒に子育てをしていきましょう。
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牧師室の小窓からのぞいてみると
イスラエルの現役閣僚の宗教指導者がガザに原爆投下することを是認した発言をした。アミハイ・エリヤフ氏は宗教指導者ラビと聞く。それが真実なら私は彼の頭の構図が分からない。「ヘブライ法は、ヘブライ人に彼らの町や村に住んでいる他国人を虐待せず、その権利を庇護することを求めているが、単にそのことが普遍的な道徳的価値を持っているから守れといっているのではない。『あなたがたも』、すなわち現在生きているヘブライ人の先祖たちも、かつてはエジプトの地でファラオの奴隷であったし、奴隷としてあるいは外国人として異邦の地に生きることの辛苦を十分に味わって知っているはずだから、今あなたがたの周囲にいる寄留の外国人や奴隷の気持ちをよく理解してこれを手荒く扱ってはならない、ということである。」(「旧約聖書の世界」 池田裕 三省堂)
長崎で被爆体験をした林京子氏は「祭りの場」という小説で「新じゃがいもの薄皮状の皮膚を両腕にフリルのように垂れ下げている火傷もあった。中学生の学徒が『いたかばい、ああいたかばい』独り言を言って金毘羅山に登っていった。」と書いてある。ここに思いやる感性のない者はもはや神から離れている。宗教は害があっても益はなしである。
いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます。詩篇41:2
園長・瞑想?迷走記
幼稚園は、教会の宣教の仕事そのものであると思う。幼稚園と教会という構図はありえない。ここにイエスの祝福がある。
そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。 マタイによる福音書19:13-15
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日毎の糧
聖書:私は、悩む者、貧しい者です。神よ。詩編70:5
ルターの言葉から
私たちの神は低き者の神である。「わたしの力は弱さの中で発揮する」(Ⅱコリント12・9)。もしわたしたちが弱くなかったら、誇り高 ぶるであろう。神はその力を弱さにおいてのみ示すことができる。なぜなら神は暗くなって煙る燈心を消さないからである。(イザヤ41・ 13)。悪魔はそれを燃えにくくするのみならず、完全に消そうと」する。
『卓上語録』M.ルター著、植田兼義訳、教文館
悩む者、貧しい者
ヘブライ法は古くからヘブライの民に特に何を教えようとしたか。ヘブライの法は、いわゆる権力者が自己の地位や権力を保持するために民衆に一方的に要求する身勝手な法や禁令ではなかった。それはイスラエルに王や国家が誕生する以前からあった法である。・・・・・・・・24:22 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったことを記憶しなければならない。それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである。申命記24章22節
『悩む者、貧しい者』という自己告白も、神ヤウェは『悩む者、貧しい者』の抑圧を座視しない、という、古くからの確乎たるヤハウェ信仰に裏付けられている。これらのヘブライ法は、ヘブライ人に彼らの町や村に住んでいる他国人を虐待せず、その権利を庇護することを求めているが、単にそのことが普遍的な道徳的価値を持っているから守れといっているのではない。『あなたがたも』、すなわち現在生きているヘブライ人の先祖たちも、かつてはエジプトの地でファラオの奴隷であったし、奴隷としてあるいは外国人として異邦の地に生きることの辛苦を十分に味わって知っているはずだから、今あなたがたの周囲にいる寄留の外国人や奴隷の気持ちをよく理解してこれを手荒く扱ってはならない。現代の私たちだからこそ聴くことだと思う。 参照:「詩編の思想と信仰Ⅲ 月本照男 新教出版」、
「旧約聖書の世界 池田裕 三省堂」
祈り:私たちが悩む者、貧しい者と共に生きることを主の導きと五感で感じる者としてください。
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大森通信
3.日々 2024年度園児募集をし、多くの幼稚園は苦戦をしておられる。大きく社会も変わり、幼稚園を取り囲む状況も大きく変化してる。 日本の出生率は、第一次ベビーブームでは約270万人、1973年の第二次ベビーブーム210万人であったが、1975年には200万人を割り込み、それ以降減少し、2023年は77万人までになった。少子化である。私たち年寄りはこの世界を本当の意味で想像出来ていただろうかと自分自身思っている。そんな中で、子どもについて45年間、私は関わってきた。 初任地は児童養護施設であった。今、児童養護施設は施設に収容する大舎施設から社会に出ていく小さな施設に劇的に変化し、経済的弱者の子どもの養護から複雑な社会を経験し傷つき、精神的にも複雑な子どもを養護する施設に変化している。虐待を受けた子、障害をもった子供が増えている。また社会の権利、人権意識の変化の中で、職員の一言、一振る舞いが常に問われて専門性がさらに要求されるようになった。職員のストレスはピークに達している。辞めていく職員も多い。今もデンマーク牧場福祉会の監事として関わりながら、養護施設の報告が気になる。報告を聞くたびに、職員の働きに感謝して手を合わせている。 少子化からくる経験をしたこともない社会的養護を必要とする子どもたちの置かれている変化、心の変化がどうなるか分からない所で新たな船出をしなくてはいけない。時代の挑戦をきっと受けいれ、キリスト教の施設が愛が冷えることなく、小さなキリストとされることを祈っている。 デンマーク福祉会の牧場➡ |
(大森日記)土)全聖徒の日に向けて準備。天に帰られた方々とつながっていることを実感する。日)全聖徒の日、天に帰られた方のご遺族、友人が集ってくださる。午後、役員会。教会の働きに真摯に向かう。夕礼拝、天に帰られた親しい方が来て下さる。月)いつものように子ども祝福式の式文について信徒さんが配慮くださる感謝。火)昨夜から強風。建物点検。水)大田区園長会が開催され厳しい幼稚園運営について報告された。時代の大変化を感じる。木)羽村に行き、2024年度募集後の事務処理。夜は「聖書のまなび」。金)秋雨、春の苗を揃えていたので助かった。