1. HOME
  2. 風のように
  3. 変容日(2月11日)「声」

変容日(2月11日)「声」

すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」          マルコによる福音書9:7

【説教要旨】

イエスと共にモーセ、大預言者であるエリヤが出てきます。これを見た弟子、ペテロ、ヨハネ、ヤコブにとって、驚きと至福のときとなりました。変容の出来事のなかで、一瞬のうちに、これを受けとめ、何をなすべきかと思ったに違いありません。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」という弟子の言葉は弟子らの感動した気持ちであり、心からの願いだったと思います。

私たちも、この出来事をどう受け止めていけばよいかということです。私たちは人生において神のすばらしい栄光をみることがあるでしょう。そして私たちはこの神のすばらしさゆえに、私たちは何かを感謝の行為としてあらわしたい、そういう気持ちになるでしょう。そして、その栄光を留めたい気持ちになるのは当然ではないでしょうか。

しかし、「すると、雲が現れて彼らを覆い、」、「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、」とあるように神の栄光を私たちの思いで留めようとするとき、私たちの前からこの栄光が消え去るのです。私たちはこの栄光を見る者として生きるのですが、それは神の出来事であって、私たちの手の中に留めておくべきものではないのです。

「雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」

-1-

私たちのすべきことは、「これに聞け。」ということに真摯に答えることです。「これ」とは、だれに聞くか。それは「わたしの愛する子」、イエス・キリストに聞くのです。

主・イエスの声、み言葉に聞いていくことが、私たちの栄光で、留めておくことです。

神の言葉を預かった大預言者、モーゼ、エリヤ、そして、イエスへと継がっていくのですが、極端に言いますとモーゼ、エリヤでもなく、今や神に選ばれ、愛されたイエス・キリストに聞くことです。まして、人に、この世の権威者、学者、・・・に聞くのではないのです。

愛する子とは。今週水曜日は「灰の水曜日」です。それから受難節に入ります。わたしたちの病を自ら背負って、キリストは十字架への一歩一歩を歩まれます。誰も経験できない惨めさをつぶさに味わわれたのです。わたしたちの贖いのためです。私たちの最上と思っていた罪深い行いを贖ってくださるキリストが、私たちの前におられるのです。イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちのすべが良きものへと変えられています。

ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。と記されています。「どう言えばよいのか、分からなかった。」ということは正直な気持でしょう。しかし、私たちが、「どう言う」のでなく「これに聞け」ということです。

俳優の大沢たかおさんんが「『Amazonさんが日本のこの作品を、これほどの規模で映像化し、しかもそれを世界に流す。日本のあるべき姿や今の問題など、いろいろなものを問題点も含めて描いていて、タブーとされている部分に普通に触れているというのは、時代が新しいフェーズに入っているんだなと思いますし、何が良くて何が悪いという価値観もどんどん変わっているんだなと感じます』そして、そういった世の中の変化を敏感にキャッチする大切さも改めて感じたという。 『世界がどんどん変わっていて、昔では考えられないペースでいろんなこととが変わっているから、3年後に世界がどうなっているのかわからない。読みにくい時代になっていますが、自分が何に問題を感じ、どんなことを世の中に発信したいか、その時々の気持ちに従って動くしかないのかなと思います』 さらに、『すごく厄介な時代になったなと、それはすごく思います』と語る。『世の中の情報がすぐ自分のそばに入ってくるようになった素晴らしさもありますが、必要ないことも全部入ってくるので、その中で取捨選択して自分らしい人生を生きるってすごく大変だと思うんです。無限大に選択があるかのように、携帯を見れば常に甘いささやきが入ってくる時代。変わらず自分らしく生きるというのが難しくなってきたなと感じます』 その難しさを感じているからこそ、自分らしい生き方をより意識するように。 『自分のあり方や自分らしい生き方に気をつけないと簡単に飲み込まれてしまうなと、ここ10年ぐらいずっと思っていて、そこを意識するようになったというのは変わったところかもしれません』」というように私たちの生きているこの時代であり、どう生きていくかという事を一人一人が問われているすごく厄介な時代です。私たち信仰者は、「これはわたしの愛する子」と共に歩み、「これに聞く」ことから全てがあり、自分らしさが生まれ、自分らしく生かされていきます。

-2-

変容日を迎えるのは、四旬節の備えでもあります。私たちの真の栄光は、約束してくださった主の恵みの憐みと慈しみの十字架のイエス・キリストにある声に聞くことです。

私たちは、自分のわざによるのではなく、約束してくださった主の恵みの憐みと慈しみによって、神に喜ばれる者とされていることを確信します。そしてもし、躓いたり、なすべき働きが足りなかったとしても、主は父の愛によって、私たちを赦し、さらに良い者としてくださいます。これこそ、主なる神のうちにあるあらゆるキリスト者の栄光です。」とルターは、真の栄光とはなんであるかということを言っています。私たちの人生の旅路が、イエス・キリストの十字架の愛の栄光の勝利にあることを信じ、信仰者として、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声を聞き、共に歩んでいきましょう。

-3-

日毎の糧

聖書:神は背く者に言われる。「お前はわたしの掟を片端から唱え/わたしの契約を口にする。どういうつもりか。お前はわたしの諭しを憎み/わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。                詩篇50:16~17

ルターの言葉から   

 人が、神とキリストと聖霊のみ名や、神のことばなどを一 緒にほめたたえ、共に同じみことばを守りはするが、詳細な事柄や理解の仕方においては互いに大いに差がある人々と共に生きるとき、そのために腹を立てることがあってはならない。また、彼らを差別したり、除名したりすることはできない。

しかし、その際、同じみ名をたたえる二者のうち、どちらがまことであり、どちらが誤っているかは、注意してみれば識別されるものである。だが、どちらが正しくどちらが誤りか、その区別を的確につけるためには、どこでキリストへの信仰について福音の教えが、付け加えもなく脇道にも逸れずまっすぐに進み、神のことばに従って実を結び、正しいよい行いを伴っているかを人は見きわめなければならなない。また、これに対して、どこかで、逆のことが行われており、そこでは人が口だけで福音と信仰を言い表していることに注目しなさい。                                『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館

多様化

 時代の劇的変化の中で、主のみ名によって集まっても多様な価値観があり、思う所、行動が違ってきている。このときこそ、神のみ言葉に向かわなければならない。社会の価値観に振り回されてはいけない。キリスト教的に見えても、実に俗的な所にある場合があることに目覚めて見究めることが出来るようにしていなくては、わたしの言葉を捨てて顧みないではないかというようになりかねない事態が今の時代である。 だから、互いに祈り、そして励まし合いましょう。

祈り)み言葉へ脇目もふらずに向かっていけますように。

-5-

牧師室の小窓からのぞいてみると

終末時計というものがある。人類滅亡を午前0時として、終わりまでの時間を示す。1991年の冷戦終結の時は17分あったのが2023年は90秒になった。地球温暖化、ウクライナ紛争などの戦争ということが原因だという。

ある政治学者はウクライナ紛争、ガザ紛争、中国の覇権主義がさらに危機を増幅し第三次大戦が起こる可能性があるという。

実は、私たちは厳しい状況にあることをうすうす感じているのではないだろうか。そして、どうしようも出来ないことも実感しているのではないだろうか。

わたしたちの神は来られる/黙してはおられない。御前を火が焼き尽くして行き/御もとには嵐が吹き荒れている。       詩篇50:3

たとえ、どうしようもない現実があっても、諦めてはいけないし、希望を失ってはいけない。そして、慌てて、焦ってはいけない。確実に来つつある終わりも神が浄めてくださり、風を起こしてくださるということを忘れることなく、自分のすべきことに忠実でありたいものです。

 園長・瞑想?迷走記

園庭をどうしていつも掃き、季節の花を植えるのかというと哲学と信仰である。掃除好きな園長がしているのではない。好きであれ、嫌いであれするのである。実習先の小岩教会は門から玄関まで綺麗に掃き清められていた。礼拝の準備に身を引き締められた。園庭は相撲でいえばこどもたちの土俵である。土俵は掃き清められるものである。火で焼き尽くすことであり、神の息が吹く様にすることである。それは長である園長がするものだと思っている。掃きながら今日もここで子どもたちが神さまと相撲をとって、くれるように祈りつついつも掃除を、花を植えている。これも園長の仕事。

                     -4-

大森通信

15.日々  

45回目の教会総会、その内、大森では15回したことになる。これで現役を降りて任が軽くなった。よくここまで来たと実感している。

体と気力は正直で、任から解放されたと感じると一気に老化して、がたがたになっている。この「風のように」を作っていてもいつの間にかこっくりこっくりしている。疲れがどっと出てきているのだろう。腰も痛くて痛みが止まらない。

15年ぶりの引越しで、あまりにも状況が違っている中で、見積もりが始まったのだがこれも疲れる。指定業者一社と他の業者と合い見積もりを取らなくてはいけない。これから健康保険の変更、住所変更と些細なことだが面倒くさい。教区総会も近づき報告書作成、送付。そんな中で家内が病気になり世話をする不規則もあった。これだけで疲れる。

洗礼を授けてくださった尊敬していたu牧師は65歳で亡くなったし、ブラジルでお世話になりたd牧師は定年の70歳に亡くなられた。後、一ヶ月半、命がもつのか自信がない。前に進めないのでいるというのが本音。

人生を終わる過程で家族の介護、世話もあろうし、自分が介護、世話されることもあろう。そして、もろもろの終わりの事務的準備もあろう。今は、この準備と訓練の時と思えば良い。気持ちを切り替えていこうと思っている。

「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。・・・神のなされることは皆その時にかなって美しい。伝道の書3:1、3:11」、この時も、神の時と信じ、ひたすら委ねていこう。なるようになるさというところか。

大森日記)教会総会前、準備は整っているが、何かはあるだろう。)総会、新たな出発。3月までどうにかやっていけるか体力がもつか。)引越しの準備。事務手続き。庭に春の菫を植える。華やぐときはここにはいない。)子どもが滑らないように昨日から降った玄関の雪をかく。集めた雪の上を子どもが乗る。)菫の花、全株を植え終える。夕刻より区園長会。)葬儀に出席。悲しみの深さを感じる。)主日準備。幼稚園は買い物ごっこ。一週間も無事に終わる。ホッと一息。