風のように 10月31日 神にご大切にされて
わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。 Ⅰコリント15:58
8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 ヨハネによる福音書8:31~32
【説教要旨】
「神は、私たちの努力に対して豊かな祝福をされた。1950年 1月15日に行われたイッシュペミングにおける教会総会で、日本へ我々のミッションがウィルホ・エルソン牧師とサラ・マッコネン伝道師を派遣することは、私たちにとって、特別な名誉だった。我々の最初の日本への宣教師サラ・マッコネン伝道師は1950年9月7日に東京に着いた。エルソン宣教師夫妻は、1950年9月17日、サンフランシスコから出発した。」と1951年アメリカ・フィンランド系ルーテル福音教会の総会資料に記されているようにここから大森ルーテル教会は一歩が始まり、今日に至っています。世界史に残る新型コロナ・ウィルス感染禍で、出席出来る方のみの記念礼拝となった「大森教会・宣教70年記念礼拝」です。これも歴史の一ページです。
歴史の一ページとするなら、大森教会創立は、歴史的一ページの宗教改革記念日と重なります。70年と言う歴史の節目の記念日に宗教改革日の聖書日課、ヨハネによる福音書8章31節から32節のみ言葉に聞いていきましょう。
「わたしの言葉にとどまる」とはイエスさまの言葉に捕らえられた者として生きるということです。私たちの70年の歴史の中で生きた大森教会の人々もイエスさまの言葉に捕らえられた者として生きた一人一人です。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。ガラテヤ信徒への手紙2:20」とイエスさまの言葉に捕らえられた使徒パウロは表現します。私たちの神に対する愛が、またイエスさまに対する愛が、どんなにつたなく、かぼそいものであっても、また弱いものであっても、私たちの中に神とイエス・キリストの愛が生きている限り、私たちもまた、「キリストがわたしの内に生きておられるのです。」ということが言えるのです。「キリストがわたしの内に生きておられるのです。」ということが70年であり、これからの将来なのです。
「キリストがわたしの内に生きておられるのです。」という神の言葉に捕らえられた者ゆえに「あなたたちは本当にわたしの弟子である。」とされるのです。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。14:6」とイエスさまが言われたように、真理とは、イエス・キリストです。わたしの内に生きておられるイエス・キリストが私たちを自由にするのです。
アメリカ・フィンランド系福音ルーテル教会は、他のルーテル教会のように大きな教会ではありませんでした。日本へ宣教し、宣教師を派遣するには、越えるべき壁は大きく、高く困難がありました。しかし、大きく、高い壁の困難さを超えたのは、日本へ派遣を決めた総会のみ言葉、「主に結ばれているならば」とあるように「主に結ばれる」ことであり、「キリストがわたしの内に生きておられるのです。」という信仰の出来事、「真理を知る」ということが、真理はあなたたちを自由にしたからです。
キリストがアメリカ・フィンランド系福音ルーテル教会に生きておられ、私たちの神に対する愛がまたイエスさまに対する愛が、かぼそいものであっても、また弱いものであっても、私たちの中に神とイエス・キリストの愛が生きている限り、困難なことを乗りこえる自由が与えられることを証ししています。
「真理」とは「神の愛」です。神の愛が私たちを自由にさせるのです。「神の愛」、「愛」を南蛮人と言われた時代に日本に最初に入って来た宣教師は、「ご大切」と訳しました。私たちの神に対する愛が、またイエスさまに対する愛が、どんなにつたなく、かぼそいものであっても、また弱いものであっても、私たちの中に神とイエス・キリストの愛が、「神のご大切」にされた者は、主の弟子とされ、自由とされ、越えるべき壁は大きく、高く困難があっても喜んで「神のご大切」を宣教できます。
私たちは、「大森ルーテル教会70年史」の記念誌を奉献し70年間に渡り、「神の愛」、「神のご大切」が貫かれ歴史を語り、証し、わたしたちのうちにおける「真理」、「神の愛」、「神のご大切」の働きである神の愛に対する私たちの確信を語り、証をしています。
先週、「これからの教会」についての信徒会をしました。代議員は、「宣教と言う方向をいつも向かっていたし、教会の努力が常にあった。今、次へ繋ぐ人数が少ないが若い人が地道な努力をしている教会である」と言われたようにこれからの宣教70年も「真理」、「神の愛」、「神のご大切」が貫かれ、神の愛に対する私たちの確信をもって歩み「神は、私たちの努力に対して豊かな祝福をされた。」と私たちも宣教の報告ができる教会とされています。70年間の信徒、宣教師、牧師の努力に感謝し、新しい宣教の祝福を受ける出発をいたしましょう。
わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。 Ⅰコリント15:58 スオミ・シノッド第63回総会聖句
牧師室の小窓からのぞいてみると
東京都のコロナ感染者は激減し、今までの制限が解除され経済が動き出した。これは心から喜べることである。しかし、第六波が来るのではないかという不安がどこかで私たちには残っている。だからこそ、私たちは感染が少なく抑えられているときに全ての分野で、ただ活動を再開するのでなく、このときだからこそ、五波の反省をし、六波に備えて準備することが必要ではないだろうか。
この備えを政治は具体的に私たちに示して欲しいが今のところ第三回目のワクチン接種のことだけである。今日、衆議院選挙の投票がされ、新しい議員が選ばれ、政治が動き出す。休むことなく早急に具体的政治メッセージを出し、私たちの不安を取り除いて欲しい。
教会も自己保存的になるのでなくいまこそ他者に仕える備えをすべきだと思っている。さあ、「隗より始めよ」である。
園長・瞑想?迷走記
全国私立幼稚園園長研修会にオンラインで参加した。一日だけの研修会であったが、今、置かれている幼稚園の運営状況について学び、どうすべきかを考えさせられた。
なによりも予想以上の少子化である。すべての分野が縮小し、統合化、淘汰が進むということである。それは私たちの園でも例外ではないということである。現在、私たちの園は定員を満たしているが、今年から満たせなくなるということが起きるということである。だからこそ、園の運営を根本的に見なおしていく必要があるということである。
運営を見直すということは、今までよかったと思ってやっている教育・保育内容を問いなすことが必要である。これは急務で行わなければ、運営は難しくなるだろうと思った。
揺るがぬ基本は、キリスト教教育保育の実践である。キリスト教保育の具体的内容の取り組みをさらにしていかないとこの厳しい社会状況に立ち向けないでしょう。さあ、「隗より始めよ」である。
日毎の糧-ルターからの言葉
聖書:ローマ5: 5 詩篇146
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。 ローマ5: 5
注意すべきは、『神の愛』と言われていうことである。なぜなら、この愛によってわれわれは神のみを熱愛するからです。私たちは愛や恐れを見たり感じたりできているように見えますが、真の意味で、この地上においてそれらを見たり感じたりすることは不可能です。また、あなたがたがまったく信頼できるものもありません。愛は、すべてのものを超えてはるかに高いところ、あらゆる感情と理解を超えた、目に見えない神のうちにとらえられるものであり、それは直接、神が心の奥底に携えておられるものです。
①『ローマ書講義上巻』ルター著 松尾喜代司訳 新教出版社と『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社を参考にして
神が心の奥底に携えておられるー愛
神のみ心の奥底に携えられているのは私たち向かう愛です。
ブラジル聖公会のキャノンであった弓場司祭が、若い時代、ジャングルを開拓しながら「神は愛である」ということが見いだせなくなり、悩み苦しみ抜いたとき、夜、ブラジルの満天の星空を見た一瞬、「そうだ、理屈なしに、天の栄光を捨て、地上に来て、我々の中におとずれ給うた。ここに愛がある。・・・・・・・・神はすごい。人を愛して愛して。理屈ぬきで、その天の栄光を捨てた。そこに愛がある。」と気づくのです。
これこそ、「わたしたちに与えられた聖霊によって」起きる神の愛が注がれる一瞬です。司祭の生涯は、まさにルターがいうように「注意すべきは、『神の愛』と言われていうことである。なぜなら、この愛によってわれわれは神のみを熱愛するからです。」という愛に満ちたものでした。
祈り)一人一人が神に愛され、いつも愛されている思いに満たされ、日々の歩みに喜びが回復しますように。
大森通信 宗教改革504年
たとえ明日が終わりであってもリンゴの苗を植える。⑤ 2017年の宗教改革500年にむけて2015年から宗教改革、ルターについて書いてきた。また、大森教会宣教70年にむけても目的にあった。それは、ウォルムス国会で信仰を問われたとき、最後の「我、ここに立つ」といったと言われている「ここ」とはどこであるかを共に理解、分かち合いたかったからである。 「恵みのみ」というここである。江口再起牧師は「現代のただ中でルターを学ぶとは、どういうことだろうか、と考えてきました。」と問い、現代世界の危機、私たち一人ひとりの心の中に、身の周りの深刻な危機にあて、「『恵みのみ(恩寵義認)』の教えは、そこにゆるぎない神の恵への信頼感、すなわち別の表現をすれば(神の与える)生きることへの安心感、もっと言えば死んでいくことへの安心感があります。」がルターの教えであるというのです。 神の恵み、神の愛によって、私たちが神に肯定されているのだということです。神の肯定こそ、私たちに安心感を生み出し、私たちは未来に向かって一歩を踏み出すことができるのです。だから、「たとえ明日が終わりであってもリンゴの苗を植える。」という前へ向かい出すことができるのです。「我、ここに立つ」。『恵みのみ』に立って私たちは、今、ここにいることを忘れずに踏み出しましょう。 参考文献:『マルチン・ルター-生涯と信仰』徳善義和 教文館 『歴史の再発見 ルターと宗教改革』 江口再起 NHK出版 |
(大森日記)日)礼拝後、信徒会をコロナ感染者数の激減の中で開催できた。我が教会はどこに向かうかと言うことであった。困難があってもたとえ明日が終わりであってもリンゴの苗を植えるということだと思う。月)70年記念礼拝、翌週の全聖徒の日の準備。WEB環境で全国私立幼稚園園長研修会にオンラインで参加できた。木)裏庭に芝生張りが完成。まだここで子どもたちが元気に遊べないが想像している。「70年史」の記念誌の編纂委員による感謝の祈り。夜は聖書の学び。金)幼稚園は久しぶりに晴天のもとで芋ほり遠足。子どもたちの心も開放されただろう。感謝。70年の準備を終わる。土)早朝から、いつものように主日の準備。