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降誕後第1主日の礼拝「新しい歌」12月31日

あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり/あなたの神の御手の中で王冠となる。             イザヤ書62:3

わたしはこの目であなたの救いを見たからです。        ルカによる福音書2:30

【説教要旨】「新しい歌」

2023年度の最後の礼拝です。人工知能(AI)をはじめとする科学技術の発展が人類を救うと思っていましたが、現状は逆ではないかと私たちは感じているのではないでしょうか。たとえば人工知能(AI)の発展は、ホワイトカラーの中間層の仕事を奪い、格差が広がる可能性、フェイク動画などを生成し選挙で不正行為を行い民主主義への重大な脅威なるなど。人工知能(AI)研究の第一人者、ジェフリー・ヒントン氏の、「人工知能(AI)が自律すれば人間の脅威にも」という記事を朝日新聞は掲載しています。世界が科学技術の急激な発展により、その技術によって滅ぼされるのではないかと思えるほど、世界は大きく動いているのです。私たちはどう生きればよいのかという選択さえ取り付く島もないほど危機の中にあります。

イザヤが生きた時代、またイエスさまが生きた時代はイスラエルにとって、大きな世界の変動のなかで、行く道の選択が出来ない行き詰り、危機にありました。しかし、イザヤは、この行き詰った危機の時代にあって、現実は絶望に満ち溢れている中にあって、私たちとはどのようなものであるかということを私たちに伝えます。私たちは神のみ手の中にあると。あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり/あなたの神の御手の中で王冠となる。

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変化していく危機のイエスの時代を生きたシメオンは、次のように讃歌を歌います。

「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

神の救いを見る存在が私たちであるということです。

聖書は、時代がどうであれ、神のみ手の中にあるものであり、神の救いを見る存在が私たちであるということです。

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。

とあるように、神のみ手の中にあるものであり、神の救いを見る存在は、同時に「慰められるのを待ち望む」ということではないでしょうか。それは大変化していく時代にあって信仰を与えられて生きる者の姿勢でもあるのです。

老シメオンも現実の厳しい時を生きてきました。そしてある時に向けて生きています。

イザヤ、シメオンは、大変化していく人々の苦悩、つらさを、痛みを知っていました。神の民の苦悩が深いほど、彼の絶望も深いものがあったでしょう。それゆえに強くイスラエルの慰められるのを待ち望みつつ、今という時を生きていました。

「待ち望む」の対極が「焦る」ということです。彼は焦らなかった。時は人が引き寄せるのではないことを知っていました。極めて「待ち望む」ということは信仰の事柄です。その絶望にありつつも「待ち望む」ということを支えていたのは、聖霊であった、神の力であったというのです。私たちもまた、いま聖霊、神の力によって支えられています。絶望が深く私たちを覆い包もうとしても、「聖霊が彼にとどまっていた。」という神のみ手は私たちの思いを越えて働いているのです。私たちはどのような時間を生きようと、「聖霊が彼にとどまっていた」という時を生きているのです。それは絶望が絶望でなくなり、実に忍耐強く、待ち望んで生きるのです。

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 世の荒れ狂う力に私たちは揺さぶられています。正直に言えば、時代の力に押しつぶされそうになり、死をさえ望んでいる自分がいる。しかし、聖霊が彼にとどまっていた。人生の暗闇あっても、生ける神の力が働かれている。見えざる神の導きを、祈り信じていきることを今の時代こそ神から呼びかけられている時代はないでしょう。「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」という信仰、慰められるのを待ち望むことこそが救い主イエス・キリストに出会う希望、喜びがあるのです。

「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。』」

2023年を閉じようとしているこの激変していく時、私たちに、神の聖霊がとどまり、私たちをいつも救い主イエス・キリストに出会わせて下さっていたということです。私たちがたとえどうであれ、私たちの生きる中に流れている変わらない神の力、神の恵み、主イエス・キリストの愛があり、これが無尽蔵に豊かな私たちの生命メロディーを支えています。聖歌に「人生の海の嵐にもまれ来し、この身も不思議なる 神の手により、命拾いしぬ いと静けき港に着き われはいま安ろう 救い主イエスの手にある身はいと安し」あるようにシメオンは幼子を腕に抱きとは、「救い主イエスの手にある」ということです。激変する時代にあって、幼子を腕に抱き、救い主イエスの手にあったし、ある中で一年を閉じます。あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり/あなたの神の御手の中で王冠となる。これが神の事実です。主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。安らかに去らせてくださり、新しい歌を歌いつつ希望のうちに新しい年を迎えることが赦されています。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

街の喫茶店を作り、人が集まり、憩の場にした方、「若いお母さんから、『休める場所ができました』と言われ、私が目標としていることが出きています。頑張ります。」と話された。労働者と私たちの平らな関係、お互いの自己の回復と自立をはかること、山谷からの視点で、社会的不利の立場に置かれた人々の生活や人権を守るための連帯を大切にすることを目的に活動している「ほしのいえ」の下支えをシスターに頼まれて、労働者の憩いの場を手伝っている方、青年らに自分の学び、経験した知識を伝えるために企業と大学の先生を兼務し始めた。苦しんでいる団塊Jr.の人々に寄添う活動をしている方。

見ているとすべてに時があるというように、時に合わせて自分の在り方を変えていく勇気がある。この時にしか出来ないという時があると思う。

天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。                   伝道の書3:1

 

 園長・瞑想?迷走記                

クリスマス・イブの礼拝には、一階と二階がいっぱいになる。大学1年生をトップに卒園生と保護者の方が多く来てくださった。教会と幼稚園いつも一緒に歩んで来たからだと思う。クリスマスの深夜礼拝も卒園生のお母さんがきてくださった。

卒園アルバムを見ながら、400名にクリスマス、新年の挨拶を手書きで出す恒例の園長の手紙のシーズンである。成長し、もうすっかり変わっただろが、この時の子どもを心で描きながら一人一人への祈りを込めて。今回のテーマは「主は目を留めていてくださる」という祈りである。

クリスマスは、羊飼いが、三人の博士がイエスさまの周りに集まったように卒園生、保護者が教会に集められる嬉しい季節である。用意された手作りのお菓子、ケーキを食べながら祝会の時は流れていった。教会員の奉仕に感謝。

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日毎の糧

聖書:  主(しゅ)を讃(さん)美(び)せよ。詩篇148:1

ルターの言葉から   

 この世全体は神を冒涜する。その少数の者だけ、しかも一 番貧しい者によって神は崇められる。   『卓上語録』M.ルター著、植田兼義訳、教文館

神が心にかけてくださった

「自然は擬人的に表現される。・・・・・・・神ヤハウェによる万物の創造がつねに意識されているのである。人間と自然神の被造物として、創造の神のもとでともに息づいている、という感性がそこにはたらいている。同じ被造物としての自然への共感がそこにある。

天界、地界の諸事情に向かって、ヤハウェ讃美を呼びかける本詩もそうした感性に基づく。」①そして、この完成は後代までつながる。聖フランシスコは「太陽の讃歌」で天界、地界の諸事情に向かって、ヤハウェへの讃美を呼びかけ、「私の主をほめ、称えなさい。主に感謝し、深くへりくだって、主に仕えなさい。」と結ぶ。

月本氏は次のように呼びかける。 「では、現代に生きるわれわれにも、このような感性は引き継がれているだろうか。たしかに、現代人もまた、野に花が咲き乱れ、木々の緑が風にそよげば、自然が創造の神を讃えている、といった思いを抱くことがあるだろう。だが、山々や丘に向かって、神を讃美せよ、と呼びかけるような感性は、すでにわれわれから失われて久しいのではないか。旧約聖書の創造信仰を語るキリスト教会においてさえ、そうした感性は忘れ去られてしまったかのようにみえる。本詩が現代の読者に投げかける問いがここにある。」②

つまり、神ヤハウェによる万物の創造がつねに意識されずに、人が万能になっていて、神の前に人が貧しくなっていないからではないだろうか。貧しきものほど神を讃えます。主を讃美せよ。

祈り)私たちを貧しくし、神を讃美できる者として下さい。

        ①②「詩編の思想と信仰Ⅵ」  月本照男  新教出版

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大森通信

9.日々  

忘れ物が多いなど身体的劣化はごく当たり前のことだから気にはならないが、時代の課題の問いかけに保守的になっていたりする所謂、時代に追いつけないということである。特にコロナ禍で、すべての分野で劇的に変化した。その変化を柔軟に読み取れないことの劣化である。変わっているのに昔を懐かしみ、昔のようにしようとする保守的劣化である。

コヘレトは、「昔は良かったと言うな」と格言を残している。そして、こうも言っている。「 今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。」とも言っている。その変化を柔軟に読み取れないことの劣化と言いながら矛盾するが、劇的変化の中にあるのだが、それは初めてのことではない。ここでことさら右往左往することは劣化である。

「 わたしは心をつくして知恵を知ろうとし、また地上に行われるわざを昼も夜も眠らずに窮めようとしたとき、 わたしは神のもろもろのわざを見たが、人は日の下に行われるわざを窮めることはできない。」ということである。窮めないことの柔軟さこそが心の、思考の劣化を防げるのではないだろうかと思う。「分からない」、これほど面白いものはない日々。映画「PERFECT DAYS」は、参考になる。一度、観てはいかが。癒されます。

大森日記)今年最後の「キリスト教講座」。久しぶりに集まり、クリスマスの詩編を学び、小さな祝会をする。)クリスマス礼拝、洗礼者もある。兄妹そろって2023年にイースターとクリスマスに洗礼。クリスチャン4代目。久しぶりに遠方から来られた。クリスマス・イブ礼拝、卒園生の保護者がたくさんきてくれた。クリスマス深夜礼拝1名だが聖夜に相応しい時間。一日の間にすべてが行われる。)残りの卒園生への手紙書き。)卒園生への手紙を書き終える。万歳。400枚。)会計処理の説明をし、今後について事務員に報告する。木)預かり保育は年末年始休みに入る。子どもの声が聞こえない寂しい一日。)主日準備。総会資料の準備を始める。休む暇がないのと本が読めない。