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顕現節第5主日(2月4日)「自由な者にして同時に不自由な者」

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。

マルコによる福音書1:35

「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」

マルコによる福音書1:39

【説教要旨】

本日は、教会総会で、2010年から15回の総会を開いています。牧師就任以来45回目の総会です。総会で問われていくのは時代がどうであっても、特にここ数年の激動の大変化の中にあっても、救われた私たちがどのように今年もイエスさまの愛を伝えていくかということを話し合い、決定し、実行していくことことです。「神さまの愛を伝えること」であるということです。これを伝道、あるいは宣教と言います。

「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」というイエスさまのお言葉を自分の使命、生きるそのものとして、私たちキリスト者はあります。

「人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。」

昔も、今の時代も、これから来る時代も社会状況、精神状況において多くの課題が社会に横たわっています。そして、私たちは社会的、個人的に課題を担って悩み、苦しんでいます。科学技術が発達し、文化が大きく発展すればするほど、病人や悪霊に取りつかれた者が深刻化しています。貧富の差は病気を生み出し、技術革新は人の心をむしばみ、悪霊と表現されるところまで来ています。

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シモンの姑が熱を出して苦しんでいて、そして癒されていく話が弟子の宣教の派遣の前にあります。「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、」とあります。イエスさまの行かれるところには「手を取って」とあるように癒しの御手があります。イエスさまと共にあるところには必ず癒しの御手が働いているのです。

今日の急激な変化の中で、私たちの前には、私たちからすれば、越えられないような多くの難問、課題が横たわっています。しかし、私たちはどこに立つのでしょうか。イエスさまはそばにいてくださり、共におられ、イエスさまのみ手、神の力が、いつも働かれている、ここに立つのです。私たちが、宣教(伝道)に出て行くとき、私たちはイエスさまと共におり、主の癒しの御手、神の力の中にあるということを忘れてはいけません。「イエスがそばに行き、手を取って起こされる。」という事実が、私たちの内に働かれていることを忘れてはいけないのです。

私たちは、いつも「イエスのもとに連れてきた。」とあるようにイエスのもとにいるのです。イエスさまのもとにおり、私たちが生きることこそ、御手によって越えられないような課題を抱えていても越えていく力をえることができます。私たちが常に心に銘じることは、イエスのもとで私たちが生かされているということです。このことを私たちは忘れてはいけないのです。

礼拝において、私たちは、イエスさまの癒しの御手に触れていただくのです。礼拝において癒しの御手に触れた者はまた癒しの担い手となるのです。「シモンの姑」というとき、「シモン」、まさにイエスさまの宣教を担った弟子です。

イエスさまの癒しの御手は、弟子を通して働かれ、また、弟子を癒しの御手とされたように、私たちを癒しの御手の道具とされるのです。

イエスさまによって道具とされているゆえに、私たちは宣教へと向かう勇気が与えられているのです。

さて、宣教するものが大切なことは、祈りです。

-2-

「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」と宣言された主は「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。1:35」のです。

宣教は祈りです。祈りなくして宣教はありません。よく私がとりあげる慈愛園を創設し、ルーテル教会の社会福祉事業の基礎を作られたモード・パウラス宣教師は祈る人でした。彼女はキリストの言葉を伝えにきたのに社会福祉事業をやるように強いられたとき大きな不安でした。しかし、主の御手に信頼して実に大きな事業をしてきました。それを支えたのは、「朝まだ早きとき、慈愛園に主がお入りになる」この一節から始まる、早朝の祈りが、彼女の働きを支えたと自伝に記しています。それは、また主が私たちに示されたことです。私たちの働きが祈りにおいてなされていくということです。

主の御手が働いている強い信頼、また私たちを通して主の御手が働かれているという感謝、それを常に奮い立たせてくれるのが祈りです。祈りこそ、さらに強い主の伝道への意志ー「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」という私たちの教会の伝道の意志となり、歩むのです。

祈りは「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも服さない。」ことを示してくれます。時代がどうであれ、私は時代に左右されない自由な主人です。

同時に祈りは、「キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する。」ことを促してくれます。今の時代の課題を私の課題として受けとめつつ、強い主の「わたしは宣教する。」、隣人に神の愛を伝えるためにパウロも言うように何でもするという御心を私たちの心として共に宣教(伝道)をしてすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する者です。

さあ、祈りつつ、宣教へ今年も歩みだしましょう。

引用:「キリスト者の自由」徳善義和訳 新地書房

-3-

牧師室の小窓からのぞいてみると

「ヤハウェによる救いは軍備によらない、という思想は旧約聖書全体を貫く(サムエル上17:47,ホセア1:7,詩篇44:7他)。

それが『剣を取る者は剣で滅びる』(マタイ26:52)というイエスの言葉に結晶する。」のが聖書の世界です。しかし、聖書を継ぐ、イスラエル国家が現在、ガザで行っている暴力は聖書から離れた行為と断罪せざるを得ない。

では、力ない私たちがどうするのかというとどうすることも出来ない。無力感を噛みしめている。しかし、私たちは決してこの事実から目をそらず、神を畏れ、「み国が来ますように」と神の裁きの時を強く祈ることは出来る。

なぜ、人は神から離れていっているのだろう。

 園長・瞑想?迷走記  

俳優の大沢たかおさんが面白いことを言っている。

激変する時代にあって、凄く厄介な時代で、さらに多くの情報を手に入れられるようになり、自分らしく生きるということが大変で、難しくなったと感じていると言われ、だから自分らしく生き方をより意識するようになったと。「自分のあり方や自分らしい生き方に気をつけないと簡単に飲み込まれてしまうなと、ここ十年ぐらいずっと思っていて、そこを意識するようになったというのは変わったところかもしれません。」

一人一人の顔が違うように、性格も違う。違いを認め、寄り添って、子どもたち一人一人が自分らしく生きることが出来るように幼稚園はその基礎作りをしてきた。つまり教育、保育をしてきたつもりである。この園長の思いをしっかりと受けとめ、子どもたちと向き合ってくれている先生方に心から感謝している。

この時代だからこそ、先生方も自分のあり方や自分らしい生き方が出来るように心がけるのが園長の仕事だと思っている。

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日毎の糧

聖書:神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人。                                    詩篇147:10

 

ルターの言葉から   

 戦争は神が与えることのできる一切のもの、信仰、国家、結婚、財産、名誉、学問などいとも簡単に奪ってしまう。

 

矛盾

「神が喜ばれるのは軍事力でなく、目にみえない神を畏れ、神の慈愛に望みを託す人たちである。そう詠うこの両節は、直接的には、詩篇33編16-18節から採られている。もっとも、軍備や強国に頼ることをせず、神のみを畏れ、神のみに信頼せよとは預言者の主張であり(ホセア7:11,イザヤ31:1-3)、ヤハウェによる救いは軍備によらない、という思想は旧約聖書全体を貫く(サムエル上17:47,ホセア1:7,詩篇44:7他)。それが『剣を取る者は剣で滅びる』(マタイ26:52)というイエスの言葉に結晶する。」①と月本氏は、解釈し、さらに次のように提議している。

「歴史をとおして、エルサレムほど争いの舞台となった町もない。そして、いまもなお、この町をめぐる対立は止む気配を見せない。本篇のように、エルサレムに平和と繁栄をもたらす神ヤハウェを讃える詩篇は、依然として、希望の表明にとどまるのか。それとも、本篇のような作品に詠われた信仰自体に何か重大な欠落があったのか。エルサレムは平和を希求する人類の試金石であり続ける。」②ガザでの戦い、ウクライナでの戦いなど、私たちは平和を希求することを問われている。ヤハウェによる救いは軍備によらない「主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人。」であると詩編の記者は詠う。

祈り)平和を希求していくことに倦むことないようにしてください。

引用:①②「詩編の思想と信仰Ⅵ」 月本照男  新教出版

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大森通信

14.日々  

 引退を前にお世話になった方々を尋ねることにしている。この人と一緒に引退の日々を過ごしたいと夫婦で思っていたが、コロナ禍でガンを患い天に先に帰られたÝ姉の墓参りに行くことにした。

旧家の方でお墓は先祖代々の浄土宗の墓地に納められた。ご主人とÝ姉のことを話しながら、「クリスチャンであったので戒名などいらないと思っていたが、ご住職のこれだけはという希望で、戒名をいただくことにした」と。ご住職からÝ姉がどんな方であったから聞かれ、娘らと本人と生きた日々、どんな人であったかご住職と振り返る機会をいただき本人を偲べ、慰めを受けたという。「Ýの戒名は『景明院香誉欣喜雪椀大姉』。読みは呉音で『けいみょういん こうよ ごんき せつわん だいし』です。

『景明』は『春和景明。春は和らぎ景は明きらかなり」(出典:范仲淹『岳陽楼記』)から。『欣喜』は非常によろこぶこと。『雪椀』は「氷甌雪椀」と表現される、氷でできたかめ『氷甌』と雪でできたお椀『雪椀』で、上品で趣のある文具のことだが、『銀椀裡盛雪 ぎんわんりに ゆきをもる』(出典:巴陵顥鑑『碧巌録』)を想起するものとして考えました。』と後日、戒名についてメールをいただく。本当にÝ姉を彷彿させる戒名であった。戒名は、形式的なことだけでなく亡くなった方を思い出し、残されたものを慰めるものだと思った。悲しみに寄り添いながらご家族とご一緒に考えられたご住職に心から敬意と感謝をいただいた。

大森日記)訪問しながら、道を覚えたとき引退。この道もあの道も愛おしくなる。)大きな地震から始まる主日。いつ来ても不思議でない所に立っていると再確認。)劇的な少子化でどう対応していくかh幼稚園の副理事長と協議。)引退する前に尊敬するw姉の墓参りに行く。)20数年ともに歩んできたキリスト同友会総会。引退とともに代表役員を辞め、次に託す。)春花壇の準備、剪定と午前中は終わる。庭を整えることも宣教と思う。聖書の学び。)主日準備。礼拝で神の愛を信じ、神の愛があることをここにあることを子どもらに伝える。