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顕現節第3主日(1月22日)「福音を告げしらせる」

闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。  あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。                                           イザヤ書8:1~2

 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。  Ⅰコリントの信徒への手紙1:17~18

種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。  マルコによる福音書4:14

【説教要旨】    福音を告げしらせ

総会が開かれます。私たちの教会の継続した目標は、「礼拝50名体制を目指して」です。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。  あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。」という者に私たちを神はしてくださるという福音を告げることです。パウロは「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるため」というのです。まさに私たちはパウロの言葉のように「福音を告げ知らせるため」に努力をしてきました。礼拝は教会学校の礼拝、通常礼拝、夕礼拝をし、また、インターネットの活用を早くからし、新型コロナウィルス感染によって、zoom配信、YouTube配信などSNSを利用して時が良くても悪くても福音を告げ知らせてきました。さらにパウロは「しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。」と言います。「言葉の知恵」と「キリストの十字架」と対立させます。人間の知恵はどこまでいっても自己主張、自分さえよければよいとエゴです。しかしキリストの十字架とは私たちを救うために私たちの罪の痛みの極みに降りて、十字架に架かる自己犠牲です。ここに神の愛が示されたのです。福音を告げるとはイエス・キリスト、神の自己犠牲です。

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イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。  マタイによる福音書28:18~20

イエスの福音宣教命令、「洗礼を授ける」ということと対立するがごとく敢えて、「洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」とパウロはいったのでしょうか。

「洗礼」というサクラメントが持つ、危険性です。洗礼は、神の、イエス・キリストの自己犠牲によって与えられた恵みですあり、イエスの弟子とされることです。しかし、同時にクリスチャンとなり、信者が増えるというこの世的な出来事が起きてきます。教会に帰属するということです。そして、このとき起こることはこの世の知恵が支配するのです。いかに信者獲得するか、獲得することによって、私たちの力を誇示し、相手を支配し、闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。  あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝ったということを奪い取り、再び闇の中を歩ませるということです。だから敢えてパウロは、極めて刺激的な表現を使い、福音の本質が見失われないように私たちに語っているのです。

カトリック信者の若松英輔氏は、「いま、『成長』のお話で、別な角度から考えてみたいことがあります。それは、宗教と『拡張』の問題です。宗教が力を持つと言うときに、拡張している規模によってその勢力を測ることがあります。もちろん、それは一つの視座であるとは思います。ただ、宗教が本当の意味で深まっていくことを考える時に、拡張することが『深まること』とは必ずしも一致しないことがあると思うのです。

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いま重要なのは、宗教の側が深まる方向に舵をきれるかどうかではないでしょうか。世界でさまざまな拡張の現象があると思うのですが、それが本当に深く持続的なものかどうかを考えてみなくてはならない。また、規模としては縮小しているけれども、縮小することによって初めて自分たちの至らなさ、つたなさ、あるいは傲慢さが見えてくることもあると思います。」

といっていますように福音を告げるとは、福音を深めるということも大事になります。教会はどこまでも自己保存的、自己主張の集団であってはいけない、どこまでいってもイエス・キリストのみ心、他者に仕える自己犠牲です。私たちが洗礼を授ける、福音を告げるということは自己拡張、自己主張であってはならないのです。私たちはどこまでいっても自己犠牲をもって洗礼を、福音を伝えることです。自己主張、利己的であってはいけないのです。他者に仕えていくことです。

この世は、数は力で動いています。しかし、わたしはこのことに生きない。十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力ですとある十字架、神の愛の力に生きるのです。神の愛こそ力であり、世の知恵から解放され自由とされるのです。ルターは次のようにキリスト者を表現します。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも服さない。 キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する。

「礼拝50名体制を目指して」は中身です。時が良くても悪くても神と、イエス・キリスト共に福音を告げ知らせていきましょう。

参考本:「問われる宗教とカルト」 若松英輔他  NHK出版新書、「コリント人への第一の手紙講解」 北森嘉造  日本基督教団出版局、「キリスト者の自由」徳善義和訳 新地書房

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牧師室の小窓からのぞいてみると

1995年朝、5時46分ごろに愛知県刈谷市の牧師館が突きあげられるように揺れ、私たち家族は飛び起きた。あれから28年がたった。阪神・淡路大震災である。

その後、東日本大震災、熊本地震と続いた。地球は巨大地震活動期に入ったという地震学者もいる。

地球は生きていて、地震だけでなく、氷河期、温暖期と気候も変化し、地球を変えてきた。自然は大きく動くということが、これが普通であるということかもしれない。

それを踏まえて、人類はこの大変化を乗り越えて今の人間となったことも事実である。確かに大震災後も色々と問題があり、苦しんでいる。しかし、阪神・淡路大震災、東日本大震災にあって、隣人同士が助け合い、乗り越えてきたことも見たいのです。私たち人類も捨てたものではないということです。

希望をもって、私たちはこれからも来る地球の大変動に向かい合っていきたいと思っています。

          園長・瞑想?迷走記

東京都がすすめていた教育施設の耐震改修工事を着任したときに実行しなければならなかった。特に耐震診断が大変であった。鉄筋コンクリートの園舎は比較的診断は簡単であったが、木造の教会堂兼園舎は難しく、経費もかかることが分かった。「子どもの命を守るため」にという目的で、事を進めていった。

その最中に東日本大震災が起こり、さらに「子どもの命を守るため」にということで、教会が一つになり、耐震補強工事、私の好きな木造の教会堂兼園舎を壊し、耐震改築工事を始めることにした。

財源も不足するなか、「子どもの命を守るため」という使命が課題を越えるという信念で進めた。震災後の翌年には耐震補強、耐震改修工事を終わった。必要とあればアドナイ・エレ(神がそなえてくださる)という信念をもって進むのも園長の仕事だと思う。

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日毎の糧

聖書:15:5 金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行なう人は、決してゆるがされない。            詩編15:5

 

ルターの言葉から

 もし世の中の人たちがみな10%を請求していても、教会関係の施設なら、もっと厳格に法を守り、恐れつつ4あるいは5%を

とるようにすべきである。彼らは世の人々の光となり、良き模範をしめさなければならないからである。      (「商取引と高利」)

 『ルター著作集 第1集 5』マルティン・ルター 松田智雄、魚住昌良訳 聖文舎

金利

 聖書は一貫して、利子をとってはいけないと教えています。しかし、現代の経済は資本を貸し、利子を取るという投機で動いています。ルターの時代、フッガー家が資本を集中させ、その資本をもって、商業を活性化し、高金利でさらに富を集中させるという時代でした。資本を使い神聖ローマ帝国の皇帝の選挙を左右させ、そしてローマ教皇庁の金庫番となり、免罪符の集金を担った。

ルターはこの時代を生きつつ、また彼自身、新興する中小資本家に属し、聖書とは違う独自の少ない利子を取ることは許した。これが後に今の資本主義を生み出す契機になった。しかし、ルター自身はそんなことを考えていたのではなく、高金利で社会を動かすことへの憤慨から高金利を批判したにすぎない。高金利によって、隣人を傷つけるような行為は、キリスト教徒して相応しくないことを示し、法に従うことは遵守すべきだが、何よりも実際にあたって、愛による判断をすることを強く求めた。

しかし、現代の自由主義経済の中で人々はひたすら利潤を求め、資本を投機に回し、人が人を支配して行く社会にあって、私たち自身が、もう一度、聖書の言葉にもどり、実際の場にあって愛による判断が求められているように思う。

祈り:日々の生活が愛によって判断できるよう心を強めてください。

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大森通信

「引退の準備」

伝道45年  総会資料Ⅱ 教会学校

現在、幼稚園、保育園、児童施設のない教会が教会学校を維持していくことは難しい。戦後、すぐ教会学校は文化の最先端であった。多くの子どもたちがやってきたが、今まで教会学校が担ってきた文化の香りは、教会が世俗化の波に飲まれて、教会でなく地域が教会以上にボランティアを得て、質の高いものを担えるようになった。また、子どもたちの生活様式も変わり、スポーツ、文化クラブに属し、そして、小学校から受験戦争で塾に通い始めた。

幸い、総会資料から私は教会学校が消えることがなかった。別府時代は、土曜学校(地域の子ども)、日曜学校(児童養護施設のこども)、ブラジル時代、教会学校の生徒の送り迎えを朝夕していた。刈谷・元町教会は信徒の子どもが多く、これを中心として行い、地区とも協力をし、教会合同の堅信キャンプをした。小鹿・清水は信徒さんに助けられ楽しいときとなった。名古屋の時は希望教会で教会学校を続けた。大森でも幼稚園の宣教として教会学校を位置づけ続けている。それぞれの時代、場所で違う時代の変化に耐え、応えつつ、敢えて行い、貫き通し、これを慣習化していく「敢貫慣」の精神をもって教会学校をたゆまず励み、継続的に実行してきた幸いを感じる。教会学校は社会との窓口として地域に開かれている。阪神淡路大震災のとき、教会の前のお店の主人から大量の物資を寄付された。「昔、京都時代に教会学校に通っていてお世話になりましたから」と。そのとき教会学校を続ける意義があると感じた。また、少数だがクリスチャンになった子どもがいる小岩時代の子どもたちは、今は教会、保育園を担っている。教会学校の報告をいつまでも続けたいものだ。

(大森日記))総会資料の印刷と製本。Ý兄の協力をいただき完成。来年は15年の総決算の報告書に(笑い)入院されている方がみな順調。ホッと。)女性会総会、この会だけが継続しているが他の教会は消えていっている。時代か。)施設評価委員会でH幼稚園に。)聖書の学びの準備、zoom招待が完了。)餅つき大会後、羽村に事務処理。)庭の剪定、夜の聖研とみなさんに助けられている。春の花100株を購入。)朝は春の花植え、幼稚園は礼拝、入園希望者の面接。