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顕現節後第4主日(1月29日)「神の弱さは人よりも強い」

人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。              ミカ6:8

わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。        Ⅰコリントの信徒への手紙1:23~25

喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。        マタイによる福音書5:12

 

【説教要旨】    神の弱さは人よりも強い

高校時代の世界史の先生が、キリスト教がローマ帝国により公認された313年、国教となった392年からイエス・キリストが説いたキリスト教でなく変質していったと言われたことを聞いたとき、はてなと思ったことを思い出します。キリスト教の歴史はイエスの純粋な教えが、世の中の仕組みに組み込まれていくものでした。世俗化というのです。そして、世俗化の波はポスト・モダン(近代以降)の私たちの時代はますます進んでいます。宗教といえども社会の規範に従えと言うことがごく当たり前のように聞こえ、宗教の多くの事柄が社会の仕組みの中で制限、組み込まれていっています。

今、アメリカでは牧師が直接、悩みの人のカウンセリングをしなくなったというのです。すると受けた牧師が訴える可能性が多く、世の法律によって多額の賠償を取られる。訴えられ損ということが起きているということが牧師会の話題になりました。善意があだとなるということです。

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世俗化とは人間中心であって、自分が気に入るような答えをえたかどうかというあくまで自分であり、とどのつまりエゴの追求です。法をもって力とし、訴えてくるのでる。法の持つ力をもって、法をもって相手をねじ伏せる。ここで必要なのは賢さと強さです。世俗化は賢さと強さが必要なのです。パウロが言う「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」の「人の賢さ」と「人の強さ」です。パウロは、「神の愚かさ」と「人の賢さ」、「神の弱さ」と「人の強さ」を対立させる事によって神の福音を世に伝える以上、世俗化の中でどこに立たなければならないか、教会の私たちに伝えるのです。

キリストの十字架言葉-イエス・キリストが十字架の上で死に給うたという知らせです。私たちを救うために私たちの罪の痛みの極みに降りて、十字架によって神の愛が示されたのです。十字架の言葉は無縁の人にとって、愚かであり、弱さの極みです。ここに神の愛があるなど荒唐無稽にしか見えてきません。しかし、イエス・キリストの十字架の言葉を信じる者は、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのです。ここに私たちは立ち、生きるのです。

アメリカの牧師が、個々のカウンセリングを受けないということが牧師会で話されたときに、神学校校長のT牧師が、「たとえそうであっても、私はカウンセリングを受けに来た人を受け入れる」ときっぱり言いました。その立場を考えると実に危険で、愚かなことです。しかし、「たとえそうであっても」と受け入れることによる世の訴訟、中傷が起き十字架の出来事が起きてくるかもしれないが、「それでも良い」と言い切るのです。この愚かさにこそ十字架のイエス・キリストがおられる。そして、否応なしで世の力は責めてきて、弱さに打ちのめされそうになるでしょう。しかし、その弱さを背負うことこそ、十字架のイエス・キリストがおられる。それは十字架の言葉を信じることのない世の人にとって、愚かにすぎないでしょうが、私たち信仰者にとっては、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」という信仰の恵みをいただくのです。十字架という愚かさの極み、弱さの極みまでイエス・キリストは降りて、私たちはたとえそうであっても悩み苦しむ人を受け入れていく愚かさ、解決できない課題の中で自分の力のなさを思い知らされる弱さにあって、神の愛を示されます。神の愛、神の力を伝えていくことが出来るよう私たちを強いものとされます。

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神の力という力の原語の意味は、ダイナマイトの語源で、爆発的力を持ち、世を変え、歴史を変えていく力があるということです。世俗化がますます強まり、技術革新は続けられ、SNS、インターネット、AI(人工頭脳)などの人間の賢さは強められます。人間の賢さ、力こそがすべての自分の欲望を満足させるという相手を思う心でなく、自分のことのみを追求していく時代で、今は民主主義の危機、気候変動による地球環境の危機、貧富の差の拡大による経済的危機という深い危機の時代です。だからこそ私たちはどこに立かということです。

「誇る者は主を誇れ1:31」とパウロは結びます。愛であるイエス・キリストが共にいてくださり、神の愛のみ力と恵の神の支配のもとで私たちが生かされていることを知っているということと、それを頼みとするということです。だから、「たとえそうであっても、私はカウンセリングを受けに来た人を受け入れる」という神の愛を伝えることが出来るここに立つのです。これが危機を吹き飛ばす神のダイナマイトです。私たちは世俗化されずに神の教えに立ち続けることを祈りましょう。

人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。                                                              ミカ6:8

参考本:「コリント人への第一の手紙講解」 北森嘉造  日本基督教団出版局、「キリストを見直す」 江口武憲  こずえ社、「マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する」 丸山俊一 NHK出版新書、「聖書からメッセージ365日」 宮本威  LITHON

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牧師室の小窓からのぞいてみると

便利な社会だが、便利さが時には人に不幸をもたらす。特に自然は私たちを襲う。25日は日本中大寒波で通勤電車が4時間の立ち往生をした。大量輸送可能が産んだ災害である。私たちに便利追求がこれでいいのかと自然は問いかけてくれるうちはまだ良いと感じた大寒波だった。

          園長・瞑想?迷走記

ここに愛があります。Ⅰヨハネ手紙4:10

2024年3月に牧師生活を一旦、終わり引退します。

24歳で牧師になり、45年の日々でした。初任地は毎日、子どもたちと生活している養護施設付設の教会でした。そんな関係で不登校(当時は登校拒否と言われていた)の子どもとも関わりました。親と大喧嘩した子どもを大学進学まで預かったり、共働きの両親が赤ちゃんを預ける所がなく、独身の私が預かり、公園デビューをしました。家内が嫁いできたとき、近所では、家内は高校生の子どもと赤ちゃんがいる子持ちの家に嫁いだ後妻だと思われていました。ブラジルでは移民してきた青年らが居候をしていました。拓己先生は青年らにオムツを換えてもらい育ちました。帰国後は福祉事業、幼稚園に関わりました。いつも、そこには子どもたちがいました。子どもたちとの出会いを通して、子どもたちから多くの愛をいただき引退できそうです。 さらに振り返ると両親は別居、またよりを戻すという少年期を過ごしました。難病を患い高校の卒業に4年かかりました。人を、自分を愛することが出来ない暗い少年だったと思います。しかし、神さまを知ったとき、「ここに」、自分の人生に、「愛がある」ということを実感しています。いっぱい神さまに愛された人生でした。イエスさまを見た老シメオンが「シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、『主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに/この僕を安らかに去らせてくださいます』」と人生を終えられそうです。                           (牧師・園長 竹田孝一)「2月の園だより」

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日毎の糧

聖書: 貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。  詩編112:9

ルターの言葉から

 弱い人々もキリストの国に属する。さもなくばキリストは「兄弟を力づけなさい」(ルカ22:33)とペテロに言わなかったであろう。同じく「信仰の弱い人々を受け入れなさい」(ローマ14:1)と記されている。もし弱い信仰が信仰でなければ、使徒は使徒でないだろう。

                       『卓上語録』M.ルター著、植田兼義訳、教文館

 

古代西アジアでは、社会的に弱い立場に立たされた人びとの保護は王の任務とされていた。最高の法典の前文は「余は孤児を富める者に引き渡さず、寡婦を強き者に引き渡さなかった」と記している。

聖書の民、イスラエル人はかつてエジプトで寄留者であり、奴隷であった弱者側にいたという歴史から社会的弱者や困窮者の保護を、民すべてに命じられた神の律法として受けとめていた。しかし、イスラエル人は自分が弱者であったから、強者になったとき、弱者、困窮者を保護するかというと逆の時が多い。だから、律法にても、礼拝の時に読まれるだろうという詩篇において、何度も何度も弱者、困窮者を保護することを民に伝えた。

キリスト教においても天国にいける鍵はいと小さきに者にしたるは我(神、イエス・キリスト)にしたことであると命じる。

しかし、現代の自由主義経済の中で人々は、弱者、困窮者に対しては冷たく、セーフティーネットが寸断されて困窮者が増えているのは現実である。政治もひたすら利潤を求め、資本を投機に回し、人が人を支配して行く中で社会を是認した神の世界とほど遠い社会がある。だから、私たち信仰者は、ハレルヤ。いかに幸いなことか/主を畏れる人/主の戒めを深く愛する人はとされるように日々を過ごすようにし、弱者、困窮している人に手を差し伸べる者でありたい。

祈り:日々の生活が隣人を助けていくものとなりますように。

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大森通信

「引退の準備」

伝道45年  総会資料Ⅱ 教勢報告

私の宣教の恩師は実習先の江口武憲牧師で、先週の聖書日課の「洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」というみ言葉を繰り返され、宣教について「パウロほど心血を注いで建て、牧した教会も、いつとはなしに地上から姿を消した。・・・・・いつか滅びてゆくときがくる。100年後、あるいは10年後、倉庫になっているかもしれず、ガレージになっているかもしれない。それでよいと思う。ただキリストのみ名が人々の心に刻み付けられており、主をたたえる声がたえなければよいのである」①と話されていた。私はこの言葉を心に刻み、福音を多くの人に告げ知らせるためにどうすればよいかということだけを心掛けてきた。

だから、福音を伝える人々の社会を知り、人々の課題に切り込めるように神学の勉強をしつづけた。それが十分でないこともよく知っているし、後悔ばかりである。福音を伝えるために出来るだけ集会、礼拝の機会を作った。その一つの例が教会学校であり、朝の礼拝、夕礼拝といくつもの礼拝をした。

福音を聞いた人が自発的に洗礼を受けることを申し出るまで待つ姿勢を私は貫いた。福音を伝えた結果がおのずと洗礼となると思っている。教勢という総会資料の記載は洗礼の数よりも、どれだけの人に福音を告げたという礼拝、集会の数、出席人数を気にした。教勢の平均人数は人が0.5であるはずがないので小数点を切り上げることにしている。引退はある意味で教勢ということから解放され、福音を告げ知らせるためだけで良い立場になると思うとホッとしている。                                       ①「教会生活とは何か」 江口武憲 新教出版

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(大森日記))庭の花壇、鉢に春の花、パンジーを植え始める。春を待つ寒い冬の忍耐。)午後の幼稚園運営委員会の後、神学生と隣家に迷惑をかける前に伸びた枝を剪定。良い道具は仕事を捗らす。)週報などをポスティング。)誕生日の方を訪問。みなさんに会えてよかった。夜から寒波到来。水道管など準備。)久しぶりに園長会に出席。)夜の聖研で「利子」についてT兄から解説をいただく。)大森幼稚園の都合で行けなかったので羽村幼稚園に事務処理に行く。