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顕現後第5主日(2月5日)「塩、光-神の愛」

58:6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。 58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。 58:8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。          イザヤ書8:1~2

 2:1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。 2:2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。Ⅰコリントの信徒への手紙1:17~18

5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。  マタイによる福音書5:14

【説教要旨】    塩、光-神の愛

「あなたがたは地の塩である。」、「あなたがたは世の光である。」というイエスさまのお言葉に耳を傾けていきましょう。ここでは、「あなたがたは地の塩であれ。」(命令)でも、「あなたがたは地の塩となるべきである」(義務)でもなく、「あなたがたは地の塩である。」という肯定です。私たちがどうあるべき(英語ではmust)かでなく、私たちがどうある者である(be)ということをいうのです。

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塩は私たちの命をささえるものです。また光なくして私たちの生命はありません。「あなたがたは地の塩である。」、「あなたがたは世の光である。」とイエスさまが言われるとき、私たちはこの世界を支える命であるというのです。しかし、私たちが自分自身を見るとき、私たちはこの世の命を支えるほどの立派な人間でないことは私たち自身がよく知っているはずです。

パウロは次のように言います。

7:14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。 7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。 7:16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。 7:17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 7:21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 7:22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、 7:23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。 7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。ローマ信徒の手紙7:14-24

世界を支える命のであるどころか、むしろ逆の罪深い私がいる。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪

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を行っている世界を壊している私がいる。しかし、「あなたがたは地の塩である。」、「あなたがたは世の光である。」とイエスさま言われる。私たちは世界を支える命だと言われるのです。私が地の塩、世の光でない罪人であっても私が地の塩、世の光であると気づいたのがパウロです。パウロはなぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからですと言います。キリストの十字架-イエス・キリストが十字架の上で死に給うたという知らせです。善をなそうという意志はありますが、それを実行できない、なんと惨めな人間の私たちを救うために私たちの罪の痛みの極みに降りて、十字架によって神の愛が示されたのです。十字架の神の愛によって、私たちは、世界の命を支えられる「あなたがたは地の塩である。」、「あなたがたは世の光である。」のです。私たちがどうあるべきであるということではなく、私たちがもはや、何の役にも立たない者でもなく、家の中(世界)のものすべてを照らす存在なのです。私たちはイエス・キリストの十字架の神の愛によって、肯定された自己肯定の強い者なのです。自分が神の愛によって肯定されている絶対安心感の中にいる者なのです。ここに私たちの生きる力があり、私たちはどこまでも自己保存的、自己主張の人でなく、どこまでいってもイエス・キリストのみ心、他者に仕える心をもっていくのです。これが福音を伝える事、伝道です。私たちは知らずの内に58:6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。 58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。 58:8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守るという世界を支える存在とされているのです。どうあるべきかでなく、どういうものであるかということに気づきたいのです。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

情報が正しく伝わっていないことにイライラすることがある。介護保険について、上野千鶴子さんが次のように言っている。

「若い人に言いたいのは、今の社会保障は高齢者優遇だという世代対立をあおる議論にだまされるな、ということです。」と語り、介護保険があるから老人も子どもたちも守られ、介護保険は黒字だと事実を伝えています。

今の時代、正しい情報を手に入れにくくなり、世代対立を生み出し社会を分断しています。それが自分達の首を締めていることに気づいて欲しい。「聞く耳ある者は、聞け」という主の言葉を深めていきたいものである。

      園長・瞑想?迷走記

今週は、幼稚園職員の処遇改善加算の勉強をした。

制度が複雑な上に、見切り発車の制度のために毎年、制度の見直しと改訂が行われ、これが正解というものがないというものである。しかし、職員の処遇が改善され、給与が上がるならどうしても処遇改善加算が分かり、確実に職員に支給されていくことは責任者の責務だと思っている。大きな幼稚園なら精通する事務担当者をおけばよいのだが、小さな幼稚園は園長といえども知りませんでは、職員の生活を守れない。

小さな幼稚園であれば、あるほど、園長の仕事はいかに職員の待遇を改善していくかということになる。そのためには教育保育のことも常に学ばなければいけないと同時に運営管理者として日々の学びと実行が重要になってくる。

職員が元気に、明るく生活できることは、笑顔となって子どもたちと接することになる。「人はパンのみに生きるにあらず」というが、パンのことも大切にすることは、教育保育の業でもあると思う。

こういうことから後、一年一か月で解放されるかと思うと迷走も少しはまともに走れるかと思っている。

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日毎の糧

聖書:2:10 すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。 2:11 畏れ敬って、主に仕え/おののきつつ、喜び躍れ。                                   詩編2:10-11

 

ルターの言葉から

 ここで預言者は、なぜ、民を除外して、王や君侯たちのみ語りかけたのだろうか。それはまさしく、君侯たちが主なるキリストに仕え従うところでは、民衆は何も邪魔しないからである。しかし、君侯が神の言葉を迫害し、なおざりにするところでは、民はなんの役にも立たない。              『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館

政治家

 先週、「古代西アジアでは、社会的に弱い立場に立たされた人びとの保護は王の任務とされていた。」と記した。今回の詩篇も「すべての王よ、」と呼びかける。そして、王たるもの、現在的には政治家はどうあるべきかを伝える。ルターは「ここで預言者は、なぜ、民を除外して、王や君侯たちのみ語りかけたのだろうか。」と問う。それは、政治家に「ここで預言者は、なぜ、民を除外して、政治家たちのみ語りかけたのだろうか。」ということではないだろうか。

現代は、大激動、超スピードですべての分野で変化し、私たち多くは自分自身の生活をどう整えていくかさっぱり分からない日々を生きている。こういう時こそ、政治家は行く方向を示す時だと思う。どんな時代でも、変わらない神の言葉、つまり神が一人子・キリストを降し、私たちの所まで来てくださって愛してくださり、私たちに仕えてくださった言葉に今こそ聞く時だと思う。政治家のために祈ろう。

また、こうも言えるのではないだろうか。「ここで預言者は、なぜ、聖書(神の言葉)の知らない民を除外して、聖書を知る者(神の言葉)たちのみ語りかけたのだろうか。」と私たちに問いかけていないだろうか。教会が自己保存的にならない、キリストが私たちに仕えたように隣人に仕えることへ汗をかく時が今だと思う。

祈り:神の呼びかけに応えて、隣人に仕えることが出来ますように。

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大森通信

「引退の準備」

伝道45年  総会資料Ⅳ 教勢報告

 先日、寄席に行くと女流落語家特別落語会に出くわし、聞くことが出来た。また、これが本当かどうか分からないが昨年の宗教改革の礼拝には女性牧師ばかりが行ったのも意図的だったと聞いた。女性の進出をみんなが応援して、女性たちがそれに応えている。

教勢報告も男女を記さなくなったことに皆さんもお気づきだと思う。昨年からだろうか報告は、「大人、子、合計」となった。男女の違い、差を教え続けられた時代を生きた体に身についている私にとって凄い変化だと強く感じている。そして、社会の変化に教会は応えていると思う。しかし、私はこの変化を意識しないとどうしても自然に応えることが出来ない。身についている男女という区別に悩んでいる。

また、聖書には「男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。」という女性差別をしている表現がたくさんある。時代が違うからしかたないと逃げる訳にはいかない。

毎週、教勢報告をしながら、そこから見えるものは、男女の違いを当然と受けとめてきた自分と男女の違いを当たり前のように記している真摯な向かい合いである。引退を前にして社会の変革の中で、この向かい合いは決して楽なことではなく、社会が変わることは自分が変わらなければならない。今でも引退したいという気持ちが強くなる。しかし、人は死ぬまで自分がどうであるかということよりも社会と向き合っていく真摯さが人でないかと自分に言い聞かせている。

(大森日記)礼拝の準備をし、T姉の納骨式へ。納骨堂に田園調布教会時代の信徒さんが多くおられ安堵する。雪がちらつく。)掃除で踏む足の下から霜柱のバリバリと音が聞こえてくる。)zoomで給与加算の勉強会。複雑、正解はないという制度に正直、疲れる。)入園説明会。夜、女流落語会に行く。)H幼稚園で、加算処理、理事会の準備。)ヌーンサービス後、地区の牧師会。牧師が減少、教会の体力が落ちる所で宣教を整えていくか。聖書の学びに多くの方が参加。)朝は礼拝、H幼稚園の事務処理と研修会で出かける。研修も無事に終わりホットする。