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顕現後第4主日(1月28日)「権威」

人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」       マルコ1:27

 

【説教要旨】

時代が変わり、性差別をなくそうとするジェンダーフリーということが非常に注意をもって実行されています。例えば、週報の礼拝、集会出席報告でも、男女と分けられておらず、大人と子どもとなっています。

女性を大切にしているルカ福音書は、丁寧にマルコ福音書を読み、書いていることが分かります。マルコとルカに同じ話がります。「多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』」(マルコ)というところをルカは「この人はヨセフの子ではないか」という一言です。

注目していただきたいのが、「マリヤの息子」が「ヨセフの子」に変わっているということです。どちらでも良いではないかと思うでしょうが、女性を大切にしたルカさえ、女系から男系に変えているのです。聖書は、男性中心主義になっています。そいう意味で性差別をなくそうとするジェンダーフリーの時代である現代社会にあって教会は根本的に問われているのです。教会だけでなく、すべての分野で根本的に問われて、自分自身を変えていかなくてはいけない時代にきているのです。人々は皆、論じ合っているのです。

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「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」、「権威ある新しい教えだ。」という言葉で「権威」と言う言葉がでてきます。今もイエスは権威ある者であり、イエスのみ言葉、ふるまいは権威ある新しい教えです。それは、時代がどうであれ変わらぬことです。

明らかにマルコ福音書は、「多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』」という人々の声を書き残すことによって、イエスをあくまで人の子であり、それも「マリアの息子」と言うことによって、ナザレの人がイエスの誕生について非難がましいものを持っていたことが分かります。ここから読み取れることは、ルカはこのようなイエスさまの出生に対して何も後ろ暗いところがないと思ったのか、わざわざこれを男系の「ヨセフの子」と変えることによって、ダビデの子孫であり、人としてのイエスは、正当な家系の血をひいた私たちと違う別人として表現しています。しかし、マルコは、イエス様は故郷ナザレにおいては決して、好ましい人物ではなかったという事実を伝え、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた」ありますが、これは自分たちがもっているイエスの像とあまりにもかけ離れていることの驚きを言い表していると思います。このギャップが結局はイエスさまを受け容れることができなかったのです。

ナザレの人はイエスさまのことをよく知っていた。しかし、逆にこれがイエスさまを受け容れないことになったということです。

ルーテル神学大学の学長、間垣洋助先生が、「キリスト教学と神学は違う。同じようにキリスト教について勉強していく、まったく同じことを学ぶ。しかし、違う。神学は信仰なくして、学問はなりたたない」ということをよく言われていました。イエスさまのこと、聖書のことをよく知る、しかし、それがイエスさまを受け容れるとは限らない、ときにはこれがさまたげになっていくということもあります。知るということと同時に信じるということであり、これが聖書は知恵と言っているのです。この記事の中心を信仰ということで結びます。「そして、人々の不信仰に驚いた」というイエスの驚きをもってこの物語をくくります。信仰が問われているのです。

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先をすすめていきますと、「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉に権威があったからである」とあります。この「権威」という言葉です。これは「有難いもの」ということではないでしょうか。何にもかえることのできない「有難いもの」がイエスさまのお言葉にあるということではないでしょうか。この有難さの前に自分を壊すということでないでしょうか。この有難さの中に自分を委ねていくということ、それがイエスさまを信じるということです。

イエスさまの言葉の有難さのなかに自分を委ねることが、神への畏れとなり、神への畏れこそが力となるということではないでしょうか。畏れとは、「神を神として、神以外のものを神としないことです。神を神とすること、そこには何か神に対する近づきがたい畏れの感覚がともなうことでしょう。」

イエスさまを知ると同時にイエスさまの有難さのお言葉のなかに神を畏れるということです。

新しい年が始まりました。この年を生きていくということは、このイエスさまのお言葉の権威のまえに、有難さのまえに自分

をいかに委ねていくかということではないでしょうか。神の有難さ、イエスの権威のなかに自分をどかんと腰を落ち着けこそ、なにがあっても大丈夫だよということを受け容れていくことが出来ます。神の有難さ、権威に、すなわち、主イエスの恵みに委ねてこそ、この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴くと次々と続く奇跡の出来事が、力強いものが起きてくるのです。この一年、私たちはイエスさまの権威の前に、自分を委ね、信仰の足腰を強めていくようにともに祈りつつ歩んでいきましょう。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

連作はしていないし、肥料は十分に与えていたがゴーヤの実がほとんどならなかった。原因を考えていた。

一つ気づいたのは蝶、蜂などの昆虫が少なくなったということです。受粉がうまくいかないのかもしれないと思っている。 世界的にこの30年間に昆虫が70%以上減少していると聞く。

昆虫が少なくなったということはこれを餌とする鳥も減少していくということへ連鎖することではないだろうか。

1月なのにカエルに会う。冬眠から起きてきたのか。早すぎないだろうか。夏の花のペンタス、日日草が元気である。春まで待って越冬して花を付けるかどうか確かめてみようと思う。

何かが可笑しい、可笑しいことが起きていると思っている。

「すべてに季節がある」と聖書は言うが、その時が狂い始めた。

 園長・瞑想?迷走記                

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

               ローマ信徒への手紙12章15節

1月17日の早朝、私たちが住んでいた愛知県刈谷市の牧師館も大きく揺れました。阪神淡路大震災です。その時から29年が経ちました。そして2024年の始まりの日、元日に能登半島の大震災が起こりました。この29年間は地球の中も大きく動き、また、地球の表を生きる世界も大きく動いています。私たちは今、将来においても闇が覆っている不安を抱えています。こういう時代をみなさんも、子どもたちも生きていきます。

しかし、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」という神はどんなときにも共に喜び、共に泣いてくださる慈しみ深い神です。時代に翻弄され不安にかられたり、逆に思いを高ぶったりすることなく、ひたすらに神に向かい、静かに神からの救い待ち望むことがこの時代にとって必要なことです。

「なるようになる」という太い心を持ててこそ、この激変していく時代を歩み抜くことができます。太い心が育つように教育、保育に私たちは励んでいきます。(2月の「園だより」)

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日毎の糧

聖書:主は御自分の民に贖いを送り/契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。                 詩篇111:9

 

ルターの言葉から   

 あなたがたに言っておくが、恐れず、喜び待ち望む人のよ うに、頭を上げるがよい。贖いが近いからである。このように主は聖徒に向かって言われるのです。彼らも、太陽や月がその目を打ち、空が火に満ちるとき、恐れを覚えるからです。聖徒たちは決して強くありません。ペテロやパウロでも生きていれば、この事態を見て、驚くにちがいありません。

しかし、私たちの主は言われます。勇気を出しなさい。                                          降臨節第2主日説教

                                            『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

終末の様相

 現代の世界は地震、気候変動、大国のエゴによる侵略戦争など、聖書の伝える終末の様相を呈しているように感じる。麻布十番の地下鉄の駅に東京都がミサイル攻撃に備えて長期滞在できる地下シェルターを作るというニュースが入って来た。

そういう意味で終末信仰が強くなり、終末を強調する教会が増えてきて、若い牧師が、実際、私たちの教会から終末信仰の強い教会へ去っていったことがあった。太陽や月がその目を打ち、空が火に満ちるとき、恐れを覚えとあるように恐れを私は感じ、若い牧師の感性に共感出来る心情がある。

しかし、時がどうであれ、終末の時も主語は主であり、神である。終わりの時、神が御自分の民に贖いを送りくださるのである。私たちは強くもなく、ただひたすら恐れおののくしかないだろう。しかし、決定的の終わりの時に贖い主が来られ、「私たちの主は言われます。勇気を出しなさい」と言われるのです。安心して今日という日を頭をあげて歩みましょう。

祈り)恐れずに喜びをもって、頭を上げて最後まで走り抜けますように。

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大森通信

13.日々  

 引越し準備の合間に昔、読んだ本を読み返している。宗教人として自分を留めてくれた「歎異抄」を読み返し、その解説本、「歎異抄仏にわが身をゆだねよ」(釈徹宗著)を再読している。そして、最初に気づかなかったことに気づかされている。

「私は平成23年(2011年)に東日本大震災が起きたとき、やはり『歎異抄』の語りを思い浮かべました。私たちは通常、偶然と『この日常がずっと続く』ことを前提として暮らしています。しかし、日常の実相はあまり脆く、儚いものです。どれほど誠実に、真面目に日々を送っても暮らしていても、あっという間に全て崩れ去ってしまうことがあるんです。」と無常を語りながら、「日本仏教は、«一緒に泣く»ようなところがあります。・・・・・・どんなことがあっても離してはいけない手、それが離れてしまった瞬間、二度とわが子に会えなくなった人たち・・・・そんな人たちがたくさんいました。歎異抄第4条の『この慈悲始終なし(このような慈悲は完全ではありません)の言葉が重く響きます。私たちに何ができるでしょう。不完全なことしかできません。しかし、そのことを本当に徹底的に自覚したとき、何一つできないことが分かったとき、『私は何をするのか』突きつけてくる・・』能登の地震にあって、示唆に気づきである。私は何も出来ない存在だが同時に私は何ができるかを突き詰めていきたい。

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大森日記)説教原稿を頼まれ書いていると朝となる。どこからも切ってもルターである。「ルッターの根本思想」という難しい本を洗礼前に読まされて始まった。終わりもルター。)女性会総会、女性会がなくなっていく中を少数でも守ってくださる。神に感謝。)恩師と昼食。共にこの歳になって食事が出来ることを感謝。)相撲大会。心躍る)誕生日会。後2回。誕生日の方の訪問。お世話になった方をお礼の訪問。木)聖書の学び。後、6回。お世話になっている方と夕食を共に。)主日準備。アメリカにいかれるという方をT兄が連れて来る。学びが豊かになるように祈る。関西から長男の説教に感謝と電話をいただく。