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顕現後第2主日(1月14日礼拝)「霊性」

6:17 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。

Ⅰコリントへの信徒の手紙6:17

1:43 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。

ヨハネによる福音書1:43

【説教要旨】     「霊性」

1995年1月17日に阪神淡路大震災、2011年3月11日に東日本大震災、2016年の熊本地震、そして今回1月1日に能登半島の大震災が起きました。

阪神淡路大震災で被災された落語家の桂文珍さんが話されたことが耳に残っています。震災に合い、壊れないものはないということにこのとき(震災)気づかされたといわれたのです。ものは壊れるということを知りつつも実際は今日あるものは明日もあるということを疑わなかったが一瞬にして壊れる。

文珍さは、家も壊れ、立ち直して壊れるという恐れと苦闘の中で壊れないものは何なのかと自問自答したと言われるのです。

文珍さんは壊れないものは「心」だといわれるのです。壊されない心を大切にしたいというのです。

ルターは、キリスト教的人間観を「精神、身体」という二元論でなく、「霊、魂、身体」と表しました。金子晴勇先生は、この三分構成の中で最も大切なことは、霊であるというのです。日本語では霊を補足表現する語として「心」という語であるというのです。「『心』という語が日本語としては最適なものである。それは心の機能には『霊性・理性・感性』が含まれ、霊性は心の最深部の機能といえるからである」。

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「しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。」というとき、「しかし、主に結び付く者は主と一つの『心』となるのです。」と読みかえるとよく私たちの感性に合うのではないでしょうか。震災を経験した文珍さんが、壊れないものは「心」だというとき、文珍さんが壊れない心という「壊れない心」とは、私たちキリスト者はどう受け留めていくかを問われているのではないでしょうか。私たちキリスト者にとって「壊れない心」とはどのようなこころでしょうか。「主と一つ」とされる、「主に結び付く」ということではないでしょうか。

「この『霊』概念はルターの場合には『信仰』と同義に解されていたが、信仰は何を信じるかという『信仰対象』を意味するばかりか、『信仰作用』をも意味し、それによって信仰対象が信じられる作用が信じられる主体の側での働きをも意味する。信仰対象は神の存在とその教え、つまり教義であるが、信仰する作用つまり信仰の内的な機能は人間の心の働きである」

「1:35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。 1:36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。 1:37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」という物語は、信仰は何を信じるかという『信仰対象』を「そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。」と洗礼者ヨハネの言葉は、宣教内容を含む教えを示し、理性的に伝達したものです。金子氏は「この信仰の第一の側面は理性的にある程度は伝達できるのに対して、信仰の第二の側面は単なる人間の知力では把握できず、どうしても信仰の霊的な理解作用に頼らざるをえない。」つまり、「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」ということです。他の福音書では、「1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。 1:19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、 1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。マルコによる福音書」と物語っているのです。

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信仰の第二の側面は単なる人間の知力では把握できず、人間の心を動かしてくれる信仰の霊的な作用、神の手、神の力強い業を神は与えて下さる。今、わたしの、主・イエス・キリストが私たちの内に働かれ、「しかし、主に結び付く者は主と一つの『心』となるのです。」と私たちを造り変えていてくださいます。

2024年も時代の劇的変化で私たちの日常を暮らす足元は大きく揺さぶられ続けるでしょう。時には心が折れてしまいそうになるでしょう。しかし、自分にそもそも確かなもの、心などありません。むしろ、何一つできないということが私たちの事実であり、真実です。ここに向かい合う時、

「フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。」というフィリポは私であり、私にイエス・キリストは出会ってくださり、「わたしに従いなさい」という呼びかけ、従うべきものは何かという事を与えて下さる。

文珍さんが、体験したような人生を決定的に揺さぶられるような時に、私たちは、その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会ったという出会いがあり、「わたしに従いなさい」と呼びかけてくださり、自分の生活を支えていた網を捨てて従ったという主に結び付く霊的転換を私たちに起こしてくださいます。これは単なる人間の知力では把握できず、信仰の霊的な力が心を動かしていく、これこそが私たちキリスト者の「壊れない心」の創造です。

主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」

主は来て私たちの傍に立って呼んでくださいます。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」という時から新しい崩れない心、霊性の旅が始まります。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

今回の能登の大震災も冬季に起きて、復旧が困難を窮めている。さらに豪雪地として雪が障害となっている。それは被災者の生活が困難極まりないところまで追い詰めている。どうにか改善しなければならないと多くの人が願っている。

最初に日本パン工業会が「水や火が使えなくても、パンはそのまま食べられる。早く被災地に届けたい」と20万個のパンを届けた。疲労した現地自治体職員を助けるために他の自治体職員が応援するなど救援の輪も広がっている中で、まずは、遅ればせながら、救済支援の募金を始めることにした。

 園長・瞑想?迷走記

新年、明けましておめでとうございます!

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人に つながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。          ヨハネによる福音書15:5

大変化し、激動している世界への2024年の船出が始まりました。

激変していく時代に合って、私たちは舟出し、時代の波に激しく揺り動かされていくでしょうが、時代に適応することばかり考えて、自分を失わないことです。

(福本秀盛元園長の鉄筆画) ➡

私を愛して下さっている神につながっている絶対信頼にこそ激変時代を積極的に乗り越えていく力があります。人は神の愛につながり初めて愛されるにふさわしいものになります。何かができるようになります。積極的になります。愛されることによって、人はこの世界で何かを果たすことができるのです。寄り添いつつ子どもたちが、神の愛された一人一人だとの実感を自分のものとすることを信じて、この一年の日々を神さまのお守りの中を共に歩んでいきます。

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日毎の糧

聖書:前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。      詩篇139:5

 

ルターの言葉から   

 それゆえ他のすべての試練は、このもっとも完全な試練のいわ ば初歩であり、序曲である。そこにおいて私たちは〈神に逆らって神に逃れること〉にならなければならない。」WA.5,204,21ff         

神に従う

信仰生活を続けているとき自分の信仰の在り方に大きな影響を与えてくださった方々がいる。私を教会に導いたいI君は、洗礼の前日

に洗礼を断った。

しかし、一年後、洗礼を受けた。その時の洗礼を受ける動機を証しした言葉が今も私を支えている。

「僕がイエスから逃げようとするといつも逃げようとする所にイエスさまがおられる。もう逃げられないと。だから、洗礼を受けます」。イエスさまから逃げられない、それは、どんなときでもイエスさまが私を捕まえてくださっているということである。「前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。」ということである。

「神は私の一挙手一投足のみならず、私の心の奥底までも知っておられる。であればこそ、私は神の前におのれを隠すことも、神から逃れることもできない。本詩の詠い手である信仰者はそうした思いを神に向かって表明する。」①そして、「ここには神との関係が内なる対話のかたちで語り出され、神信仰が信仰者の内面の消息として言い表されている。」②と月本氏は139篇を解釈している。振り返れば、神に囲まれ、神の御手を置かれ、神と対話しつつ、祈りつつ、ここまでよく来られたと感謝している。これからも、神との内なる対話なしに先は歩めないだろうと信じている。

①②「詩編の思想と信仰Ⅵ」 月本照男  新教出版

 

祈り)神に捕らえられ、神との恵みの対話、祈りを続けていけますように。

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大森通信

11.日々  

 引退まで12回の礼拝担当になった。礼拝担当を人に任せることがどちらかというと嫌いな自分だったから、一人でどのくらい礼拝を担当しただろうか。

初任地・別府では夜行「富士」が寝台特急から普通の特急に変わった時、飛び乗り月1回の延岡教会の礼拝担当をした。帰りに居酒屋を突然引き継いだ夫婦のために客がひけるときに店で礼拝をした。また夕礼拝も始め、多くの高校生がきた。ブラジルでは20数時間をバスで移動し、町、村で礼拝をしていた。帰国し、刈谷、豊田の教会を兼任、静岡、清水を兼任したときは、清水で早朝礼拝、通常礼拝をした後静岡の通常礼拝、夕礼拝があった。名古屋時代は、二人の牧師で3礼拝堂を担当していた。どれも礼拝を必要としている人がいたからだった。大森は兼任なく、朝、通常、夕礼拝をした。3000回以上の礼拝を担当したのだろうか。よくここまで来たと思っている。

礼拝を担当するということは、牧師に与えられた恵みであると信じ、本当に楽しく、礼拝を喜んでいたと思う。

さて、引退後、責任をもって礼拝を担当することもないだろう。どんな信仰生活の風景が待っているか想像もできないが、すべてに時があるということである。

大森日記)三人の博士がイエスさまのところに来られた顕現日。総会資料の作成にとりかかる。書記が原稿を取りまとめて一次資料を作ってくれていたから助かる。明日の役員会議事も送ってくれる。感謝。)礼拝後、クリスマスの電飾を片づける。協力を感謝。その後、役員会。2024年度総会の準備。夕礼拝、久しぶりにお子さんを連れた他教会の信徒さんが来られ、賑やかである。)成人の日。成人した卒園生とも会う。年月が過ぎて行くことを実感。)始園式。3学期が始まる。元気にイエスさまと共に。)主日の準備。補助の先生方と3学期の保育内容を確認。木)いつものように午前中は庭の手入れ。剪定をし、春を待つ。午後からヌーンサービス。「主われを愛す」を讃美。)幼稚園職員会議で今年最初の聖書の学び。総会資料原稿最終チェック。書記へ送る。