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顕現後第2主日  1月15日  「神の真実」

顕現後第2主日           1月15日 

主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。       イザヤ書49:5

神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。                                      Ⅰコリントの信徒への手紙1:9

1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。・・・・・

1:34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」                                        ヨハネによる福音書1:29、34

【説教要旨】        神は真実な方です

先日、召天されたルター学者の徳善義和牧師の授業で、まだ聖書の言語のヘブライ語、ギリシャ語を読めない時、どう聖書を読むか、出来るだけ翻訳された聖書を読み比べることだと教えられました。説教を作るとき今もこの習慣を守っています。

今日の第2日課の「神は真実な方です。」という「真実」という言葉です。新共同訳、共同訳、新改訳、口語訳は「真実」と訳しています。しかし、フランシスコ会訳では、「神は信頼に値する方です」となっています。北森嘉造牧師私訳は「神は直実な方です」となっています。そこで、私たちはどうするかというと聖書を解釈した注解書を読みます。教会では新共同訳聖書を礼拝で使っていますから、「新共同訳聖書注解書」にあたります。「«真実»は人間が主語である場合には『信仰』とピスティスである。パウロはここでその確信のすべてを神のピスティス(誠実さ、忠実さ)に置く。ピスティスによる救いは、人間の信じ深さや神への忠実に先だって神の人間に対する真実によるそれなのである」とあります。終末(私たちの主イエス・キリストの日)において、「1:8 主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。」という根拠は、「神のピスティス(真実、実直、誠実)にあるということです。

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終末を、私たちの人生の終わりとします。私たちの人生の終わりに対して、責められるところのない者として、神の前に立てるものとしてくださっている。そして、ここに行き着くまで最後まで堅く保ってくださっているという神の真実によって私たちの歩みは堅く保たれているというのです。だから、神の真実を私たちの真実(信仰)として生きれば良いということです。だから、私たちの人生は、「1:4 私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。 1:5 というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。 1:6 それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、1:7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。」とあるように、いつも神に感謝し、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされ、どんな賜物にも欠けるところがないものとされているのです。

来年の3月をもって、牧師を引退します。先日、神学校の先生が次男の子ども誕生のプレゼント届けにわざわざきてくださいました。そのとき、今、ここまで来ることが出来たのは神学校での学びがあり、その学びの糧を食ってきたからだと神学校への感謝の言葉を伝えました。引退しようとしているとき神の恵が降りそそぎ、これに感謝できるというということはなんと幸せなことだろうかと感じています。それは、私がよくできたということでなく、むしろ問題を持ち、欠けの多い器であったかということを自分自身がよく自覚しています。この欠け多い

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私を主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたゆえに私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者とされ、最後まで堅く保ってくださると実感しています。

私の人生の歩みの主人公は私です。しかし、「神は真実な方」と信じる信仰は、私の人生は、私が主であると同時に神が、主・イエス・キリストが主であると事実が私たちに恵みとして与えられています。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。

「です。」とあるように、私たちがどうであれ、私たちの主

である方は、私たちの歩みの内に共にいてくださり、主イエス・キリストとの交わりに招き入れられ、私たちの主イエス・キリストの日(終わりの日)に責められるところのない者とされ、最後まで堅く保ってくださるのです。どのようなことがあって主・イエス・キリストが終わりの日まで神の前に責めるべきところなく、日々を堅く保ってくださいます。

主の御目にわたしは重んじられ、わたしの神こそ、わたしの力。(イザヤ書49:5)と実感できる今と希望をもって最後を迎える私の人生の歩みがあります。

人生の歩みにおいて、山坂あるでしょう。社会の大変革期にあって、混迷を生き、今年も大きな試練を受けつつ日々を生きるでしょう。しかし、私の人生の主は私であると同時に信頼に値する主・イエス・キリストであるという神の真理の道を共に歩んでいくことが出来る私たちです。圧倒的な主・イエス・キリストが主であるという神の力に生かされている日々が続いています。

また、「です。」肯定された私たちは同時に時代に苦しむ人々に「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。・・・・・

1:34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」とあるように隣人に時が良くても悪くても主の福音を伝えていく者となり宣教に共に励みましょう。

参考本:「コリント人への第一手紙講解」 北森嘉造 日本基督教団出版局

新共同訳聖書注解 高橋敬基 日本基督教団出版局

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牧師室の小窓からのぞいてみると

アメリカ大統領選挙後の投票結果を受け入れずに国会議事堂を襲撃したというセンセーショナル事件があったのですが、今回はブラジルで大統領府、国会、最高裁判所が選挙結果を受け入れられないと襲撃された。襲撃した人たちの根拠は、電子投票機がボルソナロ氏に不利にプログラムもしくはハッキングされていたといううわさを信じたということである。

皮肉なことであるが、科学技術発展は、電子投票を可能にした。しかし、それが、プログラミング、ハッキングによって操作できると科学技術の発展がある。どちらも科学技術の発展がもたらし結果である。

そして、分かったことは不正を起さないという人間力であるということである。これは科学技術が発展すればするほど問われてくるものである。今、世界に問われている人間がどう正しく生きるかという人間力だと思う。

6:5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 6:6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、 6:7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。創世記6:5~7

ノアの洪水は近いのか。しかし、こうも物語は結んでいる。「もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。恵みある内に悔い改めよう。

 

          園長・瞑想?迷走記

3学期が始まった。教育保育現場は、子どもたちの成長を見ながら最後の日々を過ごす楽しい間であるかもしれない。しかし、先生方は特に年長の先生は小学校へ出す書類でアップアップしている。自己評価、次年度の教育保育の準備をしていかなくてはならい忙し働く先生方をどう整えていくかが園長の出番となってくる期間になってきた。走り続ける先生方をどう止めて休ませていくかはこの時期の園長の重要な仕事となってくる。

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日毎の糧

聖書:40:4 わたしの口に新しい歌を/わたしたちの神への賛美を授けてくださった。人はこぞって主を仰ぎ見/主を畏れ敬い、主に依り頼む。         詩編40:4

 

ルターの言葉から

神が励まし、力づけるのは、悲しんでいる人、死に瀕している人、絶望している人にほかならないからである。と言うのは、いのちと救いのことばは、不安や絶望のなかにある人のうちに芽を出すのである。このことばが彼らにはふさわしい。「あなたは恐れないでよい。あなたの良心は、あなたを十字架につけた。悪魔と肉のとげはあなたを苦しめている。心安らかにしなさい。神はあなたを咎めてはおられない」。                             (創世記講義)

 『ルターの言葉 信仰と思索のために』W.シュパルン編 湯川郁子訳 教文館

口に新しい歌を

 アメージンググレースという讃美歌を知っていると思います。

アメリカ原住民チョロキー族は平和に暮らしていたましたが、1930年代に彼らの住んでいた地に金が出ました。そのときアメリカ政府は彼らを軍を用いて強制移住をさせた。4人に1人が死ぬという冬の

1600キロの過酷な強制移住の旅でした。これを「涙の旅 Trail of tears」と呼ばれます。そのとき、チョロキー族が口して、自分たちを励ましたのはチョロキ―語に訳されたアメージンググレースでした。

「新しい歌」とは、神の救いの業を讃えるということです。力なく極寒の旅であっても人を越えて働くのは神の業であると彼らは讃美し、自分たちを励ましたのです。なによりも、「主を仰ぎ見/主を畏れ敬い、主に依り頼む。」こそ、全てを越えていく力を得るのです。「神が励まし、力づけるのは、悲しんでいる人、死に瀕している人、絶望している人にほかならないからである。と言うのは、いのちと救いのことばは、不安や絶望のなかにある人のうちに芽を出すのである。」とルターは教えています。無力感が覆ている世界ですが、私は新しい歌を口にすることができます。絶望は絶望に終わらず芽を出します。

祈り:神へ新しい歌を讃美し、希望へと導かれますように。

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大森通信

「引退の準備」

伝道45年  総会資料Ⅱ

 帰国したときは、牧師、宣教師を合わせると200名近い人がいた。その上、社会はアナログからデジタルに、ワープロからパソコン、そしてWEB環境の使用と技術は急激に発展した。そこで、若い牧師が期待され、自分の教会だけでなく教区の仕事、全国の仕事をしなければいけない。

時代は今から比べるとゆっくりと動き、私などは40代後半になって始めて教区常議員、全国財務委員になった。24歳で牧師になり20年間は、自分の教会のこと、自分の勉強だけをしておけばよかった。当時、教会の宣教の中心となった「教会形成」ということをどうすればよいかと蓄積した知識で、教会の総会に提出していった。また、日本のルーテル教会の形としてどのような形が良いかということで、「共同複数牧会」という具体案を常議員になってすぐに提案できた。よく似たパワーミッションの方策が数年後、全国総会で決定したとき、つい「複数牧会のパクリ」と失礼なことを言って、江藤直純牧師に激怒されたことを思い出す。

宗教改革500年の記念事業の「エンキリディオン 小教理問答書」を読んで、どうしてもルター神学として合わない文章に出合い、誤訳だと気づき、師匠の徳善牧師に電話した時、「そんなことはない」と叱れたことがあるが、実際誤訳であった。

こんなことが出来たのは、「神学校の勉強の結果は、牧師になってからだ」と間垣洋助牧師に教えられたからである。今の若い牧師は蓄積を出来る時間がなく、チョースピードに変化する社会に対応し、期待されるゆえにすぐに責任ある仕事に就き、大変だといつも思っている。

(大森日記))庭掃除は自分の心を表すと思っている。)新年明けての礼拝、クリスマス以来、会えなかったかも出席くださる。総会準備の役員会。)成人式、厳しい社会にあって、新しい世界を開いて欲しいと祈る。)3学期の始め。導かれるということを話す。H幼稚園の帰りどうも寒気がし、医者にいく。)風邪の症状があるので、一日、部屋で掃除。)聖書の学びの第一回。学びは楽しい。)本部に負担金を納めに行き、H幼稚園に調べものにいく。なかなかのフットワーク。