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花の日の礼拝(6月11日)「こどもを祝福」

子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。               マタイ福音書19:14

 

【説教要旨】

花の日礼拝とは、1856年、アメリカのマサチューセッツ州の教会のレオナルド牧師の提案が起源で、子ども中心の集会を行ったのが始まりです。

今日は、教会学校だけで行われていた花の日の礼拝を、教会、教会学校、幼稚園と合同で礼拝を守ることにしました。それは、教会が、教会学校、幼稚園を主から託された業として受け留めてきました。ですから、教会に集う子どもの成長を願い、また多くの助けを神さまからいただいたことを感謝して、主への感謝と子ども祝福の礼拝を守ります。これは、聖書的なことだと思います。

マタイは神が支配される世界を「天の国」と表現しています。

マタイ福音書25章31節以下で、天の国を受け継ぐ者はどんな者であるかをイエスさまは話しています。

「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

小さな者の一人とは、今日の聖書の流れからいくと「天の国はこのような者たち」と言われたこのような者とは、子どもたちです。当然、天の国を受け継ぐ私たちは、子どもへの奉仕の業へと向かいます。キリスト教の歴史は、特に子供への社会活動、教育、福祉のパイオニアとなったのは自然の流れです。

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私たちの教会が、教会学校、幼稚園を大切にしてきたのは、ごく自然であり聖書的であります。教会は、地域の要請を受けて、アウネ先生が、大岡山幼稚園の園長ニエミ宣教師に相談し、指導を受け、宮川花子先生を送っていただき「おさなご園」から出発し、今日まで続けてこられたことを共に喜び、感謝しましょう。地域に応えていったということです。

今日、日本は、1人の女性が生涯に産む子どもの数を示す合計特殊出生率が2022年は1.26で、生まれた子ども数は約77万人(第二次ベビーブーム1971年~74年は、200万人を超える)で超少子化が進んでいます。教会学校、幼稚園がさらに廃校、廃園においやらているのが現実です。2023年度定員割れをしている幼稚園、保育園があるなかで定員を満たしました。だからといって、私たちの教会学校、幼稚園が順調にきたのではないことは私たちが一番よくしっています。幼稚園は 1999年は45名(定員80名)という大幅な定員割れをしています。どこの幼稚園よりも早く預かり保育を開始し、しょうがいのある子どもたちを受け入れ、耐震工事による建て替えまできました。この心は、「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。」というイエスさまの言葉によって、支えられ、私たちが応えてきたからです。イエスさまの支えに心から感謝したいのです。

本日は、幼稚園運営のための臨時総会です。これは、「子供たちを来させなさい。」という、主の言葉を私たちが重く受けとめていく宣教の、信仰の証の場であり、時であるということを私たちは受けとめていきたいのです。「子供たちを来させなさい。」

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この言葉がどんなに、大変であったか、あるかということをみなさんは感じてきました。しかし、それは、「わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」というみ言葉を心にしてきました。私たちは、神の国の支配を先取りするものです。天の国、神の国を先取りする者として教会学校、幼稚園のわざを、感謝して、喜んで受けとめていきましょう。神の恵みです。

このような者、小さな力なき、神をより頼む存在であるということであり、私たちもそうです。しかし、神により頼む者こそ、神の支配の中を生きる祝福されたものであるのです。私たちが何かが出来るから祝福されるのでなく、小さな神を頼らざる負えない存在ゆえに私たちは祝福されるものであることを信仰において受け入れていきましょう。

「そして子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた」という主の御姿は、また今日の私たちにも起きているのです。主はいつも私たちに手を置かれ、祝福されるお方です。小さな、子どもが守る者なしに生きるに難しいように、私たちも神の、イエスの、聖霊のお守りなしには生きるに値しないものです。しかし、ここでこそ、大いなる祝福の手がいつも置かれていることを信じ、今日の幼稚園の運営のための総会を祈りの中で、園児一人一人と、天の国、神の国を先取りする恵みをいただき、恵みを主に返していく、具体的な園作りをともにしていく総会でありたいと祈ります。

ルターは祈ります。

愛する子よ、眠って、大人しくしなさい。お前には財は残さないが、豊かな神を残した。よい子になりなさい。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

コロナ禍以降、生き辛さを感じる。なぜかというと一つは、人が寛容さを失いつつあるということである。子どもの声の声がうるさいということで公園が撤去さ、田んぼのカエルの声がうるさいからカエルを殺すという投稿。排除へと向かい寛容さを失っていく社会がある。そして、それを後押しするようなネット技術がある。

森本あんり氏の「不寛容論」という本の中で、昨今の社会問題で自分が不寛容であるからそれを正当化するために何かと窮屈な正義を振りかざすことが目立つようになり、結局、自分が不寛容であるということに目をつぶることになる。それがクレームであり、ネットでの攻撃となっていると思う。

不寛容さが生き辛くさせている。森本氏は、「共存」という言葉をキーワードにしながら、「内心はともかく他者への礼節は守ろうとするのが日本的な寛容であるとすれば、それは必ずしも頭ごなしに否定されるべきものではないだろう」とあるいは「どんなに親しくても、最後まで完全に分かり合えるということはない。それでも、受け入れることはできる。そして、理解できないままに受け入れることを愛と呼ぶ」いう。

「3:12 だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。コロサイ3:12」というみ言葉を思い出す。

 園長・瞑想?迷走記 

 2022年度出生率1.26人、少子である。それは幼稚園、保育園の定員割れが起きて、存続の危機が始まったということである。私たちがここで試されているということです。経営の舵をどうとっていくかということは大切ですが、それ以上に幼児教育、保育が教会の使命であるという事を再認識して、教育、保育の内容を深めていくことがますます問われています。出生率がどうかでなく、イエスさまが子どもを招いておられるということが大切なことであることを伝えるのが園長の仕事だと思います。

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日毎の糧

聖書:3 主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ 4 わたしの魂は恐れおののいています。

主よ、いつまでなのでしょう。                 詩編6:3~4

 

ルターの言葉から

  わたしたちは、この世の生において、特に平穏な生活の中では そのようにしないで、神は、死やその他あらゆる種類の試練を私たちの上に置かれ、それによって私たちの気持ちを動かそうとされる。そこで私たちは神の慈しみや命を求めるのである。『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館

 

病苦から

 6篇は、病気で苦しんでいる人が解放を祈る祈りです。一度、病気した方なら「主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ 4 わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。」という神への嘆きは自分のものとして実感できるのではないでしょうか。また病気からくる社会的立場の弱さは、あたかも、「敵」と表現したように自分を圧し潰そうとする病気ゆえにやってくる社会的力が自分に襲いかかってきます。また病者の日々は、「6:7 わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。」という日々があります。しかし、ここにこそキリストはおられるのです。ルターは病者と同時にキリストが私たちの中で病んでおられると病気を捉えます。病気は私たちが一人で苦しんでいることでなく、キリストも苦しまれ、私たちの内におられるのです。「そこで私たちは神の慈しみや命を求める」という出来事が起こされます。6篇の詩人が「主よ、憐れんでください」と求めるように私たちの祈りは向かうのです。病気に落ちて、夜ごと涙で床を濡らした信仰者に、主は恵み深く、慈しみはとこしえにという恵みが与えられます。

祈り:病気にある方が神の恵みと慈しみある実感を得ますように。

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大森通信

「引退の準備」

伝道45年  総会資料Ⅻ 「牧会Ⅷ」

 4.共働牧会・・・1.「共に」  

 

共働牧会は、イエスに招かれた人が、神さまから与えられているさまざまな賜物を認め、ささげ、統合する方法を見つけることにあります。

神に向かって讃美と祈りをささげる私たちが、激変する社会の人間中心主義にますますなっていくなかで、教会が出来たとき、使徒を中心とし、一人一人が集い、宮へ行き、つまりみ言葉を聞き、祈り、持ち物を共有し助け合い、伝道・奉仕(宣教)したことから学ぶことは、大切ではないだろうか。使徒の時代、イエスの名の下で、「共に」集まり、み言葉に聞き、祈り、宣教したように、不思議なことだが「共に」ここ、具体的には大森教会にいて、私たちは使徒時代と同じようにしている。これから教会は、「共に」ということが、ますます大切なことになってくる。

そんな中で、複雑化した社会は、いろいろな情報を持ち、いろいろな価値観を持ち、いろいろな生き方をもった人がいる。「共に」と言いつつ、困難な直面にぶつかるそんなときに私たちは問われてくる。

参考文献:「共同司牧をめざして ローラン・ソフィールド、キャロル・ジュリアーノ著 アンドレア・ボナッツィ訳 新世者」、「不寛容論 アメリカが生んだ『共存』の哲学  森本あんり 新潮選書」

大森日記)教会学校、通常礼拝、役員会、夕礼拝と共に集え感謝。都議会議員補欠選挙。)休みと決めつつも子どもたちへビワの実を取って渡す。今年は豊作年らしい。結局は仕事。)静岡に理事会で行く車中で「不寛容論」の本を読む。来週の花の日の合同礼拝式文の制作し担当者へ確認のメール。)台風に備えて高い梯子をかけ伸びきった樹を剪定。参観日で話をし、午後、羽村幼稚園に出かける。お礼に羽村教会の牧師さんを訪問。)夏日の中を午前中は昨日に引き続き剪定作業。ヌーンサービス、保護者役員会。晴れていた空が一転して夜には雨になる。夜、聖書の学びと祈り。癒され、眠る。)台風の影響だろうか、雨が降る。曇り、自転車で訪問。今週もよく動いた。牧師会の日程調整。