1. HOME
  2. 風のように
  3. 聖霊降臨日(5月8日)

聖霊降臨日(5月8日)

若者は幻を見、老人は夢を見る。                                        使徒言行録2:17

【説教要旨】

この頃、牧師生活でお世話になった方々にお礼の電話をしています。私が任期中、教会の代議員されていたN兄に電話をしました。復活をどう受け止めているかなど信仰談議をしました。1月に奥様を天に送り信仰生活に季節があったこと話され、そこで、はっきりと言われたことは、「いままで聖霊が働いていた。これは事実です。聖霊によってここまできた」ということでした。この方を生かしているのは聖霊であるという力強い証しをいただきました。私たちを生かすのは聖霊です。

聖霊降臨日は、小麦の収穫感謝の祭り、あるいはモーセへの律法の授受があった日として、ユダヤの国の外に散らされたディアスポラと言われる人によって祝われています。これが五旬祭です。祭りは、エネルギーをもらう日で、生きている実感を得る日です。そして、五旬節の日、弟子たちも生きるエネルギーをもらい、実感した日となり、これからの歩みを決定づけた日となりました。この出来事こそ、私たちを動かす、活き活きさせるエネルギーの根源である。聖霊です。聖霊が私たちに与えられている聖霊降臨の日です。

神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐとあるように今を生きている私たちも聖霊が注がれているということです。

-1-

最後の審判としての終わりがあり、また、私の命の、人生の終わりがあります。N兄が証しされたように「いままで聖霊が働いていた。」という事実が私たちの人生にも聖霊を受けて自分が今あるということにほかならないのです。

イエスさまはこれを次のように語ります。

イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。

「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」生命と躍動を聖霊が私たちの中で生みだされるのです。「御自分を信じる人々、すべての人」、信じるすべての人に与えられるのです。ルカは、引用聖書からの言葉に18節の言葉を付け加えます。それは歳の差も関係はない、若者も老人もない。男も女もない。身分の差もない。「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」命の躍動に満ち満ちているというのです。また、私たちもそうです。

18節で、わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言するとあることをイエスの弟子であるルカが伝えたいことがあり、イエスの福音の意味があります。渇いている人―社会的に弱いもの、力のない者にこそ満ち満ちた力が与えられ一つのことがなされていく。

「預言」です。神の言葉を預かり語ることです。神の言葉を預かる光栄をいただくのです。聖霊を与えられたものは「預言」という神の言葉の恵を与えられるのです。モーセが神の言葉,十戒を与えられた日を記念するこのとき、私たちも神の言葉を預かるのです。それは同時にみ言葉によって私たちが倒れも立ちもするということです。聖霊のいきつくところそれは神の言葉であり、イエス・キリストの救いです。聖霊はイエス・キリストの救いをはっきりと私たちに与え、どうしようもない現実が今、ここにあっても、自分を、丸ごと、ヨシといって抱えて、歩きだす力を与えてくださるのです。

-2-

「アジアの視点で読む ルターの小教理問答」(宮本新編集・訳 リトン社)で「聖霊に生かされる」という項があります。「人の歩みは、様々な出来事に見舞われながらも希望と絶望を交差させながら進んでいる。・・・使徒信条は、さながら目に見えるものでなくて、目に見えない奥深く根っこのようなものへと心眼を向けるようにうながしている。尋常ならざる勧めでもある。根っこを見つめることは、未来をあおぎみることだというからだ。

自分たちの信頼の根を探り出し見つめることから自らの未来を期待することになる。希望を抱いて未来を見だそうとする時、使徒信条はそこに聖霊があるというのだ。・・・・私たちの信頼の根っこには、なにがあるのだろうか。理性や能力に尽きると考える人たちがいる一方で、ルターはその信頼の根に聖霊の働きがあることに注意深く目を向けている。その聖霊が私たちにまず与えているものが信仰と信頼である。」と言うのです。それは神のみ言葉を通して、「信仰と信頼」、すなわちみ言葉に生きるということです。そして、「教会とは聖霊のみ力を通してみことばによって起こされた出来事なのである。」。聖霊降臨日に生まれた教会は、神の臨在を感じ、みことばの家です。聖霊が働いています。

現代、私たちの社会が持つ、重い課題があり、私たちは倒れそうになります。私たちには力はいらない、私たちに力が与えられる。わたしの霊をすべての人に注ぐ。この事実が私たちに起き、み言葉が与えられています。どうか苦しくても、不幸だというかというと違うと感じ、一歩踏み出す私がいます。激変していく社会で、どう生きて良いか苦しんでいる私たちがいますが、安心して日々の一歩を踏み出しましょう。

-3-

牧師室の小窓からのぞいてみると

牧会生活をしている時にお世話になった方にお礼の電話をしている。話しながら時代の変化は精神的にも追いついていけずに自分が押し倒されそうな気持ちになった。この変化の中で、個人も、国もどう道を歩んだらよいか苦闘しているのではないだろうか。追い詰められていき、疲れ、暴発していくことが瞬時に世界的に起きているように思える。

それは同時に世界が新たに作られている躍動かもしれない。1:1 はじめに神は天と地とを創造された。 1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 1:3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 1:4 神はその光を見て、良しとされた。創世記

 園長・瞑想?迷走記

 主はわたしたちを造られた。   詩篇100:3

子どもたちは、雨の中でも元気にいろいろな遊びを発見して、楽しく自分の世界を作り、成長して季節になります。年長はトマトを、年中はナスを、年少は種まきから始める二十日大根(ラディッシュ)を植えました。雨の中でトマト、ナス、ラディッシュが育っていくには、大切な季節です。この育ちを子どもたちは見ながら、自分と違う植物の世界を感じ、成長していく不思議さを見ます。主はわたしたちを造られたという目に見えない神さまの働きを見、感じてくれると良いなと祈っています。

子どもたちも、神さまの目に見えない働きと出合い、子どもたちの希望が生み出され、子どもたちは雨にもかかわらず、遊びを発見し、遊びを通して、子どもたちの日々の世界が拡がり、成長が始まるのではないでしょうか。

私たちも、子どもたちも、世界が大きく変化していく時代をまさに今、生きていきます。しかし、主はわたしたちを造られたという神さまの働きの中で、世界を生き、成長していきます。子どもたち一人一人はきっと、雨にも負けずに希望をもって遊びを見つけ出したように、新しい時代に新しい自分を創造されます。神さまは共にいてくださいます。     「6月園だより」より 

-4-

日毎の糧

聖書:それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。                        詩編50:15

 

ルターの言葉から

  それゆえ、私たちは主のみもとに走ってゆき、こう叫びます。「こ れまでしばしば私を助けてくださった主よ。今、私を助けてください。」(こうしてあなたに『私は自由でした。神よ。今、来て下さい。私が助けを受けられるように』と叫ばせる)心のうちにある飢え渇きは、希望です。この希望は恥に終わることがありません。なぜなら、神はこのような人を必ず助けてくださるからです。

神は死の下に生命を隠し、よみの下に天国を隠し、愚かさの下に知恵を、罪の下に恵みを隠しておられます。

『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

 

顧みてくださる。

 今週の聖書の学びは、詩篇8篇で、小さな者である私たち人間を顧みてくださる神を讃美しようというみ言葉をいただいた。

「あなたが顧みてくださる8:5」、「顧みる」とは、関心をもって近づくということであり、聖書の神は、クリスマスにおいても、十字架においても、復活においても関心をもって人に近づいてくださり、私たちとともに歩んでくださいます。

「わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている黙示録2:9」という神が、近づいてくだり、苦しい日、私を呼ぶとよいと私たちに語りかけてくださいます。これが神さまの真実です。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」とイエスさまの呼びかけの声を聞き、厳しい時代を近づきたもう神と歩んでいきましょう。

祈り:苦しみのとき呼びかけることを許してくださる神の恵みを生きていけますように。

 

-5-

大森通信

「牧会Ⅷ」

 教会成長の三原則、2.共働牧会   

他教団と違いルーテル教会は牧師が7年、7年、7年と転任の期間が決められていて、最長21年まで在任できる転任制度が確立した。これは働きとしての牧師であり、働きよって、やがて去るものとしてしか牧師は見られないようになった。機能としての牧師職になった。だからこそ、教会は、それぞれの賜物を認め合い、さしだし、まとめることです。共に働くという協働牧会は必要になってきているのではないだろうか。牧師が変わるゆえに個人の力と言うよりも「組織的行動力」が必要になってくる。心理学者エリクソンは、「組織的行動力」を他者と協力して働く能力として表現しています。①牧師、信徒、信徒同志が協力し働く能力こそが大切になる。それが組織的でなければ力となってこない。それをみんなが認知し、承認しておかなければならない。

互いに認知し、承認し、実行するために当教会では第5日曜日に、教会の課題、またその学びを信徒会として、信徒が互いが認知し、それを受けて役員会が処理し、総会を必要とするものは臨時総会を開くということで組織的に行動出来るシステムは出来たが十分でないことも事実である。

参考文献:「共同司牧をめざして ローラン。ソフィールド、キャロル・ジュリアーノ著 アンドレア・ボナッツィ訳 新世者」

大森日記)夕刻、庭の掃除、教会の掃除をし、主日へ向けて心の準備をする。)小学校の運動会で教会学校出席者が少し影響を受ける。「こころの時代」の番組、「イエスと歩む沖縄-牧師・平良修」と「今 互いに抱き合うこと-コロナ禍に読む聖書-」の奥田知志牧師について見る。)故徳善義和牧師の記念会の案内。ルター学者として稀有な人だった。)福祉法人の監査。膨大な資料を前にしてよく出来たと思う。)昔、お世話になった刈谷時代の代議員にお礼の電話。「聖霊が働いていた」と言われる。聖書がぼろぼろなるまで読まれたことを思い出す。)パッチワークの会。教会が卒園生と結びついていることに感謝。聖書の学びと祈り。)臨時総会の資料完成。後は監査を明日、受けるだけになった。