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聖霊降臨後23主日(11月13日)「忍耐・希望」

忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。 ルカによる福音書21:19 

 

 

【説教要旨】

森一弘司祭はイエスさまの生きた時代の緊張したパレスチナの状況を説明した後に現代にも通じるような言葉を記しています。「パレスチナは、常に大国の侵略目標にされていたということです。また東西交流の要路にあたっていましたから、さまざまな民族が流れ込んできます。当然、そこに民族間の争いがおこります。それぞれの暮らし方、生き方、考え方の違いから、対立が生まれるでしょう。利益がからみ、それぞれの民族の存亡にかかわるような問題もおこり、対立はいやがうえにも高まっていったでしょう。その緊張が高まり、何かの拍子にそれが爆発すれば、一挙に力ですべてを解決しようとする方向に、ことが運んでしまいます。迫害、虐殺は、当然のなりゆきになります。なんとか保ってきたそれまでの平和は、一瞬のうちに吹き飛んでしまいます。たとえひとときの平和と繁栄が許されたとしても、それは束の間ことであり、破壊されていく危機と紙一重の状況にあったのです。(「やさしさの中で」森一弘著)

今週をもって一年が終わります。一年を振り返って、まさにイエスさまの生きた現実が、ロシアのウクライナ侵攻、台湾、北朝鮮問題といつでも世界戦争が起きても不思議でない地雷が世界各地に埋められています。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」21:10,11こういう不条理な、苦しみに満ちた歴史を生きているのが私たたちです。聖書は次のように結んでいます。

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忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。

だからこそ希望を失わず、「忍耐」が大切だというのです。「忍耐」、キリスト教的言葉としてとても大切な言葉です。私たち近代人は、「忍耐」ということよりも、すぐに答えを得たいという思いが強く、我慢する、辛抱するということである忍耐ということは敬遠されがちです。しかし、聖書の「忍耐」という言葉は、確かに我慢する、辛抱するという意味をもっていますが、これだけではありません。

パウロは、特に忍耐ということを語った人です。「望みをいだいて喜び、艱難に耐え」、「すべてを望み、すべてを耐え」、「艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す。そして希望は失望に終わることはない」。

福音書の中にも、パウロの書簡の中にも、黙示録も、当時の教会の状況が反映されています。その反映は、教会に対する迫害からくる艱難である。この艱難の歴史も神が支配されている。そして、再びキリストは私たちの所に来られるという強い信仰です。初代教会は強い終末信仰と再臨信仰に支えられ、不条理と苦難に満ちた迫害の日々を生きる勇気を与えられたのです。「ここに聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。」        (黙示録13:10)

当時の教会は迫害の中にあり、常に信じることは不条理と苦難と死と向い合うことでありました。未来が閉ざされていく中でも、なぜ不条理と苦難と死の恐れから堪え得たのでしょうか。忍耐です。聖書の「忍耐」には、「希望」ということが結びついています。「望みをいだいて喜び、艱難に耐え」、「すべてを望み、すべてを耐え」、「艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す。そして希望は失望に終わることはない」。忍耐は待つ、それはただ我慢して待つのでなく、希望をもって待つのです。希望とは。「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。」とあるように、どんな厳しい迫害があっても、神は私たちの心に向かってくださる。一人ひとりが神さまに愛されているという歴史の事実があるということです。そして、イエス・キリストの愛への強い信仰がたとえ未来が閉ざされているように思えてもなおも神の愛を信じ抜いた信仰の言葉は、「すべてを望み、すべてを耐え」、「艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達をみ出し、練達は希望を生み出す。そして希望は失望に終わることはない」と言い切ったのです。

-2-

ルターは、「神は人の信仰を強めようとするとき、まずそれを破壊するようなかたちで弱めます。その人を多くの悩みの中に投げ込み、まったく疲れさせ、絶望の淵へと追い込まれます。しかも、それと同時に静かに耐える力を与えてくださいます。そのような静かな力が忍耐であり、忍耐は練られた品性を生み出します。そして神は再び戻ってこられ、太陽が再び現れて照り輝き、嵐が過ぎ去ります。・・・・・・・一日か二日後、あるいは一週間か一年のうちに・・・嵐が今一度吹きすさみます。けれども今度は私たちは悩みの中にも主をほめたたえます。なぜなら、あのときは神が恵み深かったことを覚えており、私たちを懲らしめるのも恵み深いみこころによるということを知っているからです。

それゆえ、私たちは主のみもとに走ってゆき、こう叫びます。「これまでしばしば私を助けてくださった主よ。今、私を助けてください。」

心のうちにある飢え渇きは、希望です。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、神はこのような人を必ず助けてくださるからです。」と言っています。

私たち一人一人は神の支配、愛のうちに未来があると堅く信じるとき、忍耐はたんなる辛抱でなく、希望へとつながるのです。だから黙示録は「ここに聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。」と言うのです。2022年度の教会暦が終わろうとしています。私たちは苦しみ、不安にあり、不確定な明日への暗闇があります。しかし、人に惑わされないように忍耐して、今日を生きることこそ、命をかち取れるのです。たとえ明日が終わりであっても今日、私たちはリンゴの木を植える希望の内を丁寧に歩んでいきましょう。

-3-

牧師室の小窓からのぞいてみると

 社会的発展を考えるとマイナンバー・カードを作らなければいけないのだが、どうしても心が動かない、なぜだろうか。必要性を感じない、個人情報が政府に管理される窮屈さ、個人情報の漏れなどがあるが、どれも自分に納得出来るような理由でない。「いやだ」という理屈にもならない感覚で手続きをおくらせているだけである。

しかし、「いやだ」という感覚も意外と正しいこともある。社会は理屈ばかりで動いてはいないと思う。感覚ということもいうものも大切だと思う。理由にならない感覚を汲み取っていく社会も大切ではないだろうか。しかし、感覚ばかりで社会に生きていけない。そろそろ、カードを作りに行こう。

 

園長・瞑想?迷走記

園長の仕事も後、1年5ヵ月で終わると思うとやり残したことばかりが気になるがすべてに時がある。

毎年出している大森ルーテル幼稚園の教育・保育指針のパンフレットも主任が中心となって出せるようになった。始めて出した時は、教育も保育も専門に勉強したことはない園長が原稿を作り、これをたたき台にして、みんなで手直しをして作った。息子に専門の勉強したこともないと批判されるが、神学を勉強していたならば、技術は別として何でもすべての学問に通じるものを見抜く見識を持つ。

先日、幼稚園を付属にもつ教会に就任したらどうすれば良いかと言うことを神学生に話す機会があった。そのとき話したのは、自分の立つところの学問、神学をしっかりと勉強していれば全てが見えてくると話した。

初任地は養護施設があり、勉強した。福祉、心理、児童教育の本を読んだ。帰国し幼稚園と関係があり、幼児教育の本を読んだ。しかし、いつも切り口は神学的であり、神学に立って実践していった。ここに立たなければ塩の効き目が無くなった塩のようになって、捨てられるだけであると思っている。

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日毎の糧

聖書: 主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。        詩編6:10

ルターの言葉から

彼の心は大きな努力をもって自分の眼前に神の憐みを置き、

不安をかきたてる罪と死と地獄の像にその憐みを対置させるという、その心の習性と心の動きを十分明らかに示すからである。じっさい彼の心が希望と霊のうちで語ることは確実であるが、彼の心ははいまだ神の前では現在的に見る仕方で置かれてはいないので、彼の心が同時に希望によって救われていること、希望によって神の恩恵を得ていること、希望によって慰められていること、・・・・・これらの言葉となって響いていることは確実である。そしてこれが何ゆえ彼が繰り返しによってこんなに熱心に神の憐みを自分に教え聞かせているかの理由である。彼は言わば大きい強い衝撃によって対立するものを追い落とし、また力強い説教によって自分の弱さを希望へと向けて励まされている。

                     (『ルター著作集第2集3 第二回詩篇講義』 竹原創一訳 LITHON)

希望

 世界の大半が、6:7 わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。 6:8 苦悩にわたしの目は衰えて行き/わたしを苦しめる者のゆえに/老いてしまいましたということが現実です。そこで、未来を描けない私たちはうなだれ、倒れそうになります。これで自分は良いのかと問いつつ、自分の無力さをひしひしと感じます。6:4 わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょうと神に叫びたくなります。詩人は祈りで叫びました。詩人は主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださると告白します。この希望において、生きるのが信仰者です。神の私たちをかえりみて下さる憐みに目を向けることこそ、不安をかきたてる罪と死と地獄の像に立ち向かえます。

私たちはこの詩人のように6:3 主よ、憐れんでくださいと祈りつつ嘆き疲れ、苦悩ある現実を希望をもって共に歩みましょう。

祈り:眼前に神の憐みを置き、希望を歩めますように。

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大森通信

「引退の準備」

初めての謝議

 教会が牧師に出す給料は、謝儀と言い、この額は生活出来る額、生活給となっている。給料でなく謝議である。

初任地の初謝儀は、小銭をかき集めても出すことが出来ずに、会計が飛んで来た。後は「Sさんにいただいてください」と言われた。事情は、アメリカの教会支援が打ち切られた時代、教会自給、教会自給と言われ支援がなくなった。誰がみてもこの教会が牧師謝儀を出せるようなものでなかった。しかし、教会を思う子どもがいないSさんは、「不足分は私が出す」ということで、牧師を呼んだ。後に県知事のブレーンにもなったTさんは、牧師は必要だと思いつつ今の教会財力では無理だと判断し最後まで他教会の兼任を主張したが、歪んだことだが、Sさんの財力で不足分の補填は大丈夫だと計算し、約束をSさんに確認し、意見を引っ込めた。

牧師謝議が不足したからSさんに貰いにいくことは会計も辛い。謝儀について教区に相談すると「自給教会だから補助できない」とつれない。心で«クッソ»と思い、信徒会を開いた。すったもんだした後、高度成長期にあったので、献金の増額のお願いが出来た。それでも教会会計は赤字で、私が塾を開いて、赤字を補填すると約束をした。そのとき思ったことは自分が教区の役員に将来なったら、まずは飛んで行って一緒に考えようと思った。牧師が欲しい、そのために不足分を献金されるという信徒の尊い心を自分の心として、まずは教会自給を目指し伝道に励もうと思ったし、Sさんのように私も理屈なく覚悟をしようと思った。しかし、まだまだ未熟で肩ひじ張って、周りには迷惑をかけたようで申し訳なく思っている。

(大森日記))典礼ピエタの店にレリーフの見本を見にいく。)召天者を偲ぶ全聖徒の日礼拝。多くの証人に囲まれている。役員会後、神学生と宗教改革時代の「霊性」について学ぶ。)春の準備のために庭の木の世話をしている。冬は近い。)コロナウィルス感染が身近に来ている。神経を使う。)朝からH幼稚園へ。2023年度予算を立てにいくが、厳しい少子化が直撃している。)保護者とヌーンサービスの時間を楽しむ。教会の方に奏楽を手伝っていただく。)幼稚園に新型コロナウィルス感染の足音が聞こえてくる。神経を使う。