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聖霊降臨後第9主日(8月7日)『悲観的』と『建設的』

知者の目は、その頭にある。しかし愚者は暗やみを歩む。けれどもわたしはなお同一の運命が彼らのすべてに臨むことを知っている。                                        コヘレト2:14

みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。                                          コヘレト3:20

 

 

【説教要旨】

先週、私にとって大切な方が99歳で天に帰られました。老人ホームに入られていたので、新型コロナウィルス感染拡大のために訪ねてお話が出来ずにいました。その上、家族葬で、直接、お別れの祈りをささげることが出来ませんでした。いつも共にあった相槌が取られていきました。もう、相槌を打つ人がいないと感じる時、コヘレトの「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。1:2」であるという「空」、「空しさ」、「虚しさ」、空虚さを感じさせられています。

神学校で私の聖書的生き方を教えてくれた授業がありました。シカゴ神学校教授であったファースト先生の旧約聖書特講、「諸書-ルツ記、エステル記、伝道の書、雅歌、哀歌」でした。ファースト先生は、「コヘレトは、死の問題に初めから終わりまで捉えられている。不意にやって来ては、しばしば突然に、死は生き物たちを残酷なまでに決定的に刈り取る。すべてのものは死なねばならず、すべてのものは同じ死を遂げる。死は人間自身の存在を支配下に置き、自分の運命を自由にしようとする人間の努力の上に、無益と空虚さの究極的な刻印をおす。」と「コヘレトのメッセージ」の章でおっしゃっています。

先週の日々の日課は、コヘレトを読んできましたが、まさにすべてのものは死なねばならず、すべてのものは同じ死を遂げる私たちにコヘレトは語ってきています。

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すべてのものは死なねばならず、すべてのものは同じ死を遂げる私たちにコヘレトは語ってきています。

みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。3:20とコヘレトが語りかけてくるとき、死は人間自身の存在を支配下に置き、自分の運命を自由にしようとする人間の努力の上に、無益と空虚さの究極的な刻印をおし、私たちを相対化して私たちを見つめなおすことを私たちに教えてくれているのではないでしょうか。死を通して私たちが生きるとは何であるかを。

コヘレトが、みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰ると私たちに語るとき、死の不条理、空虚さを叩きつけつつ、いくら考えても答えの見つからない私たちを目覚めさせ、「この書は読者に自分の心と確信を探すように求める(ファースト先生)」のです。

小友 その「being」は、「与えられた人生」と言い換えることもできるのだと思います。生きるとは、自分が人生を使っていく「doing」のようなものではなく、むしろ受け身の姿勢で神からの賜物として与えられたものである。そのように解釈できるのではないかと感じます。

死を通して、自分を相対化していく時、自分の人生が与えられたものであることに気づかされる。

若松 本当に不思議なことが、「死」のような不条理について考えを深めると、それが生きる力に代わっていくことがあります。

死は人間自身の存在を支配下に置き、自分の運命を自由にしようとする人間の努力の上に、無益と空虚さの究極的な刻印をおし、神からの賜物として「与えられた人生」ということを教えてくれます。だから、コヘレトは強烈に、今の世を喜んで生きよと言います。見よ、わたしが見たところの善かつ美なる事は、神から賜わった短い一生の間、食い、飲み、かつ日の下で 労するすべての労苦によって、楽しみを得る事である。これがその分だからである。また神はすべての人に富と宝と、それを楽しむ力を与え、またその分を取らせ、その労苦によって楽しみを得させられる。これが神の賜物である。5:18~19

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これが享楽的に取られがちになりまが、違うのです。

小友牧師は次のようにコヘレトのメッセージについて言います。「人間の一生はへベル(空)だからこそ、意味があるのです。ヘベルだからこそ、神から与えられた今のこの命を、精一杯生きよ。そんな逆説的な死生観が立ち上がってくるようです」。

「死」のような不条理について考えを深めると、それが生きる力に代わっていく精一杯生きようとなるのです。

今、世界は死の淵が口を開けて、世界の終わりを告げるようなヘベルなる出来事が起きています。しかし、だからこそ、自分の心と確信を探すように悪戦苦闘をし、答えを見いだせずにいようとも精一杯生きていくことこそが、たとえそうであっても希望があります。

面白いことに小友牧師は、ルターの有名な「たとえ明日が終わりであっても、それでも今日、私はりんごの木を植える」という言葉を使って次のように言います。

「『明日、世の終わりが来る』とは悲観的な観測です。しかし、それによって導かれる生き方は、『リンゴの木を植えよう』という建設的な姿勢なのです。

コヘレトも同じです。人生には悲観的に考えてしまうことがあるかもしれない。それでも、人は積極的に生きることができます。『悲観的』と『建設的』を『それでも』という言葉でつなぐことによって、矛盾ではなくなるのです。ここに、コヘレトの言葉の究極的のメッセージがあるのではないでしょうか。」、「それは悲観的であってもひたむきに建設的な、明日への希望につながる生き方だと思うのです。」

みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰ると悲観的なことを言いながら、悲観的時代であっても、それでも、コヘレトは、みな一つの所に行くところに神が待っておられるから、神から与えられた人生を丁寧に、精一杯生きることが出来る力が与えられ希望をもって歩めと伝えてくれています。

参考文献:①「それでも生きる-旧約聖書『コヘレトの言葉』」

小友聡 NHK出版 ②「すべてには時がある-旧約聖書『コヘレトの言葉』をめぐる対話」若松英輔、小友聡 NHK出版

「ルツ記・エステル記・伝道の書・雅歌・哀歌-ケンブリッジ旧約聖書注解11」ファースト  新教出版

※夏に、コヘレトを読もう!

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牧師室の小窓からのぞいてみると

終末の様子を見せている世界がある。今回の中国と台湾、米国を巡る動きは、戦争に日本が巻き込まれても不思議でないというところまで来ている。ヨーロッパで、アジアで地殻変動が起きようとしている。一方、日本をみると政治は腐敗し、また国民は一時の安泰を決め込んでいる。

それは彼らが、小さい者から大きい者まで、みな不正な利をむさぼり、また預言者から祭司にいたるまで、みな偽りを行っているからだ。

園長・瞑想?迷走記                  

この頃、手をかけなければいけない子どもたちが以前より増えてきた。そのため先生方は色々と教育・保育を考えて、子どもたちと接している。しかし、その子たちを受け入れていくにもこちらのキャパシティーにも限界がある。ぜひ、受け入れてあげたいのだが、どうしても断らざるをえない現実がある。現実に押しつぶされ、無力を感じ、落ち込み仕事が出来なくなる。しかし、それ以上に断られた保護者の気持ちを思うと腸痛む。

考えると手がかかる、かからないは、こちらの判断だ。手がかかるのも子どものキャラクターと考えれば、この限界を超えていけそうに思うが、現実を、現場をみるとそうもいっておられない。このジレンマでいる。

迷走し、祈り、瞑想するしかない。でも、どこかに道はあるはずと思って今日の教育・保育に頑張っていくしかない。

だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。                        マタイによる福音書6:34

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日毎の糧

聖書: 民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。 詩編62:9

 

ルターの言葉から

    何かがあなたがたに欠けているのなら、そこによい忠告がある。み前に心を注ぎ出してただ自由に嘆き、それが何であれ神には何も隠さないこと。あなたの親友に心のすべてを打ち明けるように、神の前に山のように悩みを投げ出しなさい。彼は喜んで聞き、助け、諭してくださる。彼にはしりごみしないで、それが大きすぎるとか多すぎると思わないこと。ぶちまけて安心なさい。袋いっぱいの空しい不満であっても、すべてを出してしまいなさい。                                                                                                                 『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』  湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館

 

私の心を注ぎ出す

 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。62:2と詩篇は冒頭で詠います。詩篇の記者は、多くの困難を抱えていました。しかし、動揺するとき、いたずらに何かをするのでなく、自分の魂を沈黙させ、つまり沈めて、彼は、一つのことに向かうのです。「ただ神に向かう。」のです。神への祈りです。

ひとつのことを神は語り/ふたつのことをわたしは聞いた/力は神のものであり  慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と/ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる、と。12~13

祈りにおいて聞くことは、神は力であり、慈しみです。神の力と慈しみに頼る限りは、神は決して裏切りません。そして、神への信頼が、わたしたちは、山のように悩みを神へ投げ出し、ぶちまけることが出来るのです。神は聞いてくださいます。神はわたしの避けどころとなってくださいます。神へ安心して、わたしの心を注ぎだしましょう。

神はわたしの避けどころだからです。

祈り:神へ信頼し心を注ぎ出せる幸いを感謝いたします。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」27

     自然災害と向かいあう②

  阪神淡路大震災が起きたとき、救援活動をしているとき、徳弘牧師と末竹牧師が京都にある本部の責任者となって、二人がパソコンのアップルを用いて、日々、色々な活動を報告、発信した。それゆえに、状況が正確に伝えられ、救援活動が広がっていった。このときからWEB環境が整えられ、パソコン、インターネットが大きな力をもって、教会の宣教を変えていった。

徳弘牧師は、この後、大森教会に任を受けて来られ、1990年代後期、その時代では珍しい、インターネット(ホームページなど)とメールを活用して、宣教活動を活発化し、若者が集う教会となった。

今回の新型コロナウィルス感染の拡がりによって、余儀なくWEB環境は変化、発展し、SNS(ソーシャルネットワーキングサービ)を教会は使用せざるをえなかった。

スマートホンなどを活用して、オンライン礼拝として、zoom配信、YouTube配信をしている。Twitter、Facebookを利用し、発進、交流をしている。

災害と向かい合いながら、WEB環境は、すごい速さで、大きく発展していった。社会が変わらざるを得ないように、教会も大変化している。 私たちの教会、幼稚園もzoom配信、YouTube配信を利用して活動をしている。今後もこの波は止めることが出来ないだろう。

(大森日記))今のところは、感染することなく看病が出来ている。弱いものが側にいるとこちらが優しくなる。)主日の準備も出来ていて、一日に余裕がある。)コロナ感染状況が厳しい中でZoom配信、ユーチュブ配信に切り替えてくださり出席者は一桁。夕礼拝はアカペラ。)預かり保育が始まる。何事もなく。)10日の看病も終えたので、週報などを届けにポスティング。)家内と羽村幼稚園、教会へ。夕刻、草取りをして、帰宅。)雨が激しく降る中を入園希望者と面接。少し精神的にも疲れ、仕事が手につかない。沈黙し、神に向かう。)久しぶりに子供たちが園庭で遊んでいる。やっと猛暑より解放される。