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聖霊降臨後第8主日(2022年7月31日)「豊かさ」

コヘレトは言う。なんという空しさ  なんという空しさ、すべては空しい。                                                                                               コヘレト1: 2

どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。                   ルカ12:15

自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。 ルカ12:21

【説教要旨】

新型コロナウィルス感染の拡大で、礼拝を制限して開かなければならないようになりました。50人礼拝を目指して地道にしてきましたが、今、全てが止まっていきます。

わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。コヘレト1:14、

まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。コヘレト2:22-23

みなさんは、今をどう感じていますか。コヘレトの言葉に抗えないものを感じつつ、しかし、納得できないものがあります。

神学校を卒業したばかりの初任地の教会での経験は私の方向付けをしました。牧師を呼ぶのは経済的に無理だったのですが、「足らなかったら自分が出す」と言って、牧師を呼んだのがシズ子先生でした。どうして、シズ子先生はここまで言い張ったのかを考えました。名門、九州女学院の先生をしていた彼女は、終戦間もないとき、伯父を訪ねて別府駅をおりると温泉地に生きる糧を求めてたどり着いた孤児がいました。熊本に帰ったシズ子は、モード・パウラスの許に行きます。「シズ子は顔を輝かせながら、わたしの事務所へきた。伯父が、別府で孤児の家を始めるために、土地と家を慈愛園に寄付したいとのだと言う。」その土地は決して良い土地でもなく、米軍から厩舎であり、いろいろな紐がからまっていたが、シズ子と夫の正登は、パウラスの援助を受けて事業を始める。その後も多くの助けを借りて苦しい園経営をして子どもたちを養育して来た。新米の牧師に口酸っぱく「どんな牧師でも、子どもたちに神様を話してくださる牧師が欲しかった」と後日、言われました。まあ「どんな牧師でもか」と苦笑いをしながら、この人は本当に神の言葉を預かり、語る牧師が欲しかったのだと実感した。苦労を苦労と感じさせずいつも花ばかり植えていたおばさんだったが、芯の強いこどものためにと生き抜いた人だった。モード・パウラスの自伝によれば、シズ子先生は芸者置屋に売れるところをモード・パウラスに買われ、助けられ、育てられ、賢い先生は、東京の実践女子学校に行かされ、九州女学院の国語の先生となった。

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お金があればなんでも出来るかもしれないが、しかし逆になければ無用な人間として物のように社会の片隅においやられて芸者置き場に売られていくしかなかった。だから、お金がどんな力があり、必要なものであり、人生そのものを決定していくかということを本当に知っていた人だったと思います。

しかし、先生は、ルターがいうことを知っていたのです。

富は神が人間に与える地上における最も僅かの物、小さき贈り物である。富は神のみ言に比べてどれほど価値のあるものだろうか。いや、身体や美しさの賜物と比べればものの数ではあるまい。精神の賜物にも比べられないではないか。にもかかわらず人は「富が最高の財であるかのように」振舞うのである。ところが「富の」内容、形式、原因、目的は何の役にも立たない。だからわたしたちの主は一般的に富を粗野なロバ(愚か者)に与えたのである。ロバにはその他のものは何も与えられなかった。

孤児となり、あるいは親から離されたこどもたちは、卒園すると人生を一人で切り開いていかなくてはいけなくなります。このとき、世の一番見える力、富ということが人生を切り開いていくことでしょう。しかし、それはまたきっと自分を裏切るものであり、子どもたちが倒れたとき、あなたに何もなくても、あなたを裏切らない本当の人生のパートナー、神さま、イエスさまを見出して生きていくことこそ真実な人生があるということを腹の底から信念をもって子供たちに言い切れる人生を先生が生きておられたから「どんな牧師でも、子どもたちに神様を話してくださる牧師が欲しかった」という言葉になったのではないかと思っています。

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コヘレトは、言います。1:2 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。 1:3 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。

預言者アモス「見よ、その日が来ればと 主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく 水に渇くことでもなく 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」と預言しています。

イエスさまが、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」という神の前に豊かになるとは、シズ子先生のように人生を豊かに輝いて生き、誰がなんと言おうと「どんな牧師でも、子どもたちに神様を話してくださる牧師が欲しい」と主の言葉の大切さを言い切る、求める者こそ、世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。1:4

神の救いの真実を生きるものではないでしょうか。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。ルカ12:33―:34」。金と権力が全てを動かすという豊かさを求める現代世界にあって、み言葉によって豊かに生かされている私たちは「神の前に豊かになる者」として、金、物に依存して心が空洞化している現代人に大きな時が良くても悪くても主の言葉を証ししていきましょう。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

世俗化という言葉がある。教会が担っていた福祉、教育が、教会でなくても社会の個人が、特定非営利活動法人NPO法人)が、担って、教会より活発な活動をしている。一方、先輩特許の福祉、教育事業が取られていった教会は、自己保存的になり、個人化し、私生活化していっている。個人がどう救われるかとか、教会をどう守るかということが議論される。

一方、教会も世俗化せざるを得ないのである。例えば、牧師の召命感が、職業感にすり替わっていく。 牧師も世俗にある一つの職業になっている。では、どうするか。私たちが隣人に仕えていくということを忘れないで、隣人に仕えていく心に立つことだと思う。

園長・瞑想?迷走記

新型コロナウィルス感染、第七波がやってきた。身近の方が感染、濃厚接触者となる。こういとき、正直、園を閉鎖したくなる。しかし、昔と違い長期休みの夏も閉じるわけにはいかないという幼稚園の新な使命がある。ここは踏ん張りどころと思うが、踏ん張っても感染を防げる分けでない。

今、病人の治療にあたるお医者さんが言っておられたが、対応の多さにスタッフの心がつぶれそうだと言っておられた。その気持ちはよくわかる。幼稚園、保育園は病院と違うが、毎日にお子さんを預かり、教育、保育をしているが、感染に気を付けるだけでなく、感染下でどう日々、保育するか心をすり減らしている。

さて、逃げ出したい弱虫の園長、どうするか日々、問われている。感染に気を付けつけるのは当然であるが、何よりも働く先生方を励ますことが園長の仕事だ。では、何をするか。何をするか。希望を失うことなく、疲れを見せないことである。こんな状況だが、楽しく教育、保育していこうという当たり前のことにいつも戻ることだ。さあ、今週も楽しい幼稚園で子どもらが過ごせるようにしよう。

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日毎の糧

聖書:  天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は詩編146:6

ルターの言葉から

信じない者に対して、神は、奇跡を示すことはおできにならない。彼らは滅びを免れず、死から逃れることはできない。しかし、神を信頼する者たちは、天地が滅びる前に救われるであろう。なぜなら、信仰は、さもなければみじめな弱い被造物である一人の人間の中に、誇らしく次のように言い得るほどの大きな勇気を育てるからである。「たとえすべての悪魔が私の上に降りかかってこようとも、いや、すべての王、皇帝、天地が私に逆らおうとも、それでもなお、私は守られていることを知り、信じている。」

『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』

湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館

まこと(真実)

神の真実(まこと)とは、何であろうか。たとえすべての悪魔が私の上に降りかかってこようとも、いや、すべての王、皇帝、天地が私に逆らおうとも、それでもなお、私を守られるということである。

これと並んで神の真実は社会的に抑圧、搾取に苦しんでいる弱い人々を、抑圧から、搾取から解放し、保護されるという。「主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる」

芸者置屋に売られていきそうになった加藤シズ子先生をモード・パウラスは買って保護する。戦前の話だ。頭のよかったシズ子先生をモードは実践女子に入れる。シズ子先生はパウラスから神の真実、私を守られていることを知り、信じる。戦後、別府駅を降りたとき戦争孤児がいた。シズ子先生は、躊躇なく、パウラスの許に行き、助けを借りて、「主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる」というもう一つの神の真実を実行する。孤児院、「別府平和園」の誕生である。神に愛され、隣人を愛するという神の真実である。

祈り:喜んで仕える霊に支えられ、人に使える者としてください。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」27

自然災害と向かいあう

70年間の間に起きた大きな自然災害は伊勢湾台風(1959年、昭和34年)、阪神淡路大震災(1995

年、平成7年)、東日本大震災(2011年、平成23年)かもしれない。

死者、行方不明者5000人を越える台風災害最悪の惨事、伊勢湾台風であった。岸千年神学校校長が、たまたま名古屋に講演会のためにおり、神学校に救援の要請をし、三浦芳夫神学生が神学生をまとめ、すばらしい救援活動をし、この経験が阪神淡路大震災の救援活動に生かされる。

阪神淡路大震災が起きたとき、伊勢湾台風を経験した愛知、岐阜の教会はすぐに救援活動を始める。まず、救援に入るにも警察の許可がいる。そのとき、伊勢湾台風で多くの死者、行方不明者を出した南区の警察は許可証をすぐに出してくれた。また、伊勢湾台風を経験した愛知・岐阜の教会信徒は、災害時に何が一番必要であるかを経験し、教会に物資の呼びかけをした。京都南へ向かい、京都教会へ物資を届け、軽車両に変えて現地に物資が届けられた。三河地区はパソコンを使える牧師を京都に置いて現地本部を運営した。そのとき一緒に働いたのが徳弘牧師である。

東日本大震災は、教会全体で救援活動をした。特記することは臨海斎場で亡くなられた方を荼毘にふすために、宗派を超えて回向した。救済活動も大切だが荼毘にふし回向することは宗教としては最も大切なことであると思う。このとき勝部哲牧師が担当下さった。それぞれの大きな自然災害に、その時代、時代に教会は応えてきた。熊本地震、熊本水害など今までの経験が教会らしい救援活動が出来たと思う。

(大森日記))濃厚接触者になり、礼拝を神学生に任せる。)礼日出席者に連絡をする。コロナに感染しないようにすることも大切だが、コロナに罹ったら何が必要か伝えることも大切である。)待機期間終了。いつ感染しても良いように主日の準備。)新型コロナウィルス感染状況が厳しく急遽、礼拝出席自粛のメールを発送。