聖霊降臨後第7主日(5月21日)「試練ー主の守りの内に}
4:12愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。 13むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。 14あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。 1ペテロ4:12-14
11わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。 ヨハネによる福音書17:11
【説教要旨】 「試練-主の守りの内」
愛知県三河地区で出会った拳母幼稚園園長のUさんの「試練」という証言の原稿が出てきました。毎朝、書き留めていたデボーションノート(黙想のノート)に「今日は私の75歳の誕生日です。75年間、大病することなく、健康な体をお与えくださいましてありがとうございました。・・・・・・アブラハムは75歳のとき、神さまから召命を受けて、生れ故郷のハランを出発しています。・・・私が75歳になったこの日、神さまはみ言葉をもって『忠実』であることを求められました。イエス・キリストの恵みをいかに人々に証しするか、私に要求されていることに忠実であることだ」と記しましたが、しかし、75歳で腎臓が三分の一しか機能していない慢性腎臓病、ステージ3の大腸がんという病のうちにある苦しみと試練を与えられました。
-1-
ペテロが、「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」というのですが、試練、苦しみは何か思いがけないことが生じ、私たちの中に落ちかかり、言葉にならない呻きをもって、私たちは闘わなければならないということが現実です。しかし、私たちを驚かすような言葉、到底受け入れがたい言葉を続けます。「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」と。「お前、馬鹿じゃねぇの」と言われるし、自分も呟くでしょう。ルターは言います。「試練が現存している。試練は試金石であり、単に知ることや理解することを教えるのではなく、神の言葉がいかに正しく、いかに真実であり、いかに甘美で愛すべく、いかに強力で慰めに満ちているか、すなわちあらゆる知恵に優る知恵であるかを経験することを教える。・・・・神の言葉があなたのうちに立ち現れると、悪魔があなたを襲ってきて『試練によって』あなたは正しい教師となし、悪魔の試練を通して神の言葉を求めて愛するようにおしえる」。しかし、神の言葉を求めて愛する者は、ペテロのいうようにまったく理性と違う域、信仰に生きるのです。
Uさんは思いがけぬ病気という試練に出合います。19年間、み言葉と向かい合いデボーションを通して、『試練によって』あなたは正しい教師となし、悪魔の試練を通して神の言葉を求めて愛する者とされるのです。病気の試練を、「『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』のという、第Ⅱコリントの言葉に励まされております。」と言い切るのです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださっているのです。試練にあるとき、しばしば生きていくことが辛くなっていきます。しかし、試練にあって、苦しさと、辛さを神の霊、神がその苦しみと辛さを共に背負ってくださると信仰の事実が私たちにあります。Uさんが、厳しい状況で医師から治療法はどれがよいかは神のみぞ知ると言われたとき、実にユーモアをもって、「まさか、がんセンターの医師がこういう言葉を使われるとは思ってもみなかったので、なるほどと思いました。ですから私はすべてを神さまに委ねて、漢方薬だけ服用することにしました」。ペテロが言う、「7思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」というみ言葉に向かうのです。『試練によって』あなたは正しい教師となし、悪魔の試練を通して神の言葉を求めて愛するようにおしえるというルターの言葉通りになるのです。試練を通して自らの罪の深さや弱さにも真正面から向き合うのです。
-2-
Uさんは深井智朗氏の「自分が経験している試練や困難が、意味のあることだと確信できれば、人間は以外にもそれらの試練や困難には耐ええるのです。・・・・・・・私たちは生きている中で、『ああ、あの出来事はこの時のためだったのか』という経験をすることがあります。そういう仕方で自分の人生を再発見し、人生の意味を受取り直すことがあります。人生は無意味ではなかったと思う瞬間です。そしてそれは神と出会う瞬間でもあります。生きて働いておられる神がおられる、ということを実感する時なのです。」という言葉をもって、次のように証しを結びます。「アブラハムが召命を受けた75歳のこの歳、再び神と出会う瞬間が与えられるなら、これ以上の幸いはないと思います」
10しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。
試練と真正面から向き合い、神の恵みと慈しみを信頼して前に進むことが起こるのです。「アブラハムが召命を受けた75歳のこの歳、再び神と出会う瞬間が与えられるなら、これ以上の幸いはないと思います」と言い切れる神の言葉を求めて愛する私たちとされます。試練、それは主の守りの内にあるのです。
-3-
牧師室の小窓からのぞいてみると
釜ヶ崎という視点から、本田哲郎神父は、「福音は普遍的なものです。何々教という特定の宗教の人に向かって、福音を生きなさいとキリストが言われたわけではない」と語り、 「福音は宗教を越えて」と「宗教を越えて福音を」と繰り返します。
また、今回、ルターの「小教理問答」を人種、文化、原語、経済、政治、宗教など非常に多様性をもっているアジアの視点から解説した本が出版されました。十戒の第一戒の「あなたは他の神々をもってはいけない」に対して、「キリスト者は、他宗教の人々が表現する神認識の違いを拒否し反論するのでなく、異なる方法で神の唯一性をどのように共有し、告白できるか、その可能性を探し求めるほうがよいだろう」と言っている。
若松英輔氏は、遠藤周作の「深い河」から考えるということで、遠藤周作が、「宗教多元主義」を唱えたヒック著作に触れたことを紹介し、「修道会からは、ぼくには異端的な傾向があると言われますが、まだ追い出されません。でもぼくは自分に嘘をつくことができないし、やがて日本に戻ったら・・・『日本人の心にあうキリスト教を考えたいんです』」と「深い河」で、主人公に言わせる。情報技術が発展する中で一つの顔しか持てない状況にあって、情報技術をもたない無用な階級を切り捨てようとする生き残りの時代にあって、ヒックがいう神は多くの名前を、顔を持ち、同時に人も色々な顔をもって存在するのだということを今こそ教会は伝えることに汗することではないだろうか。
園長・瞑想?迷走記
先週、子どもたちとバロックバイオリンの無伴奏演奏を聞いた。常に教会立の幼稚園として子どもたちが最高の音楽を聞けるようにしてきた。静かに聞いていた。幼いからと言って分からないということはない。そう決めつけているのは大人ではないだろうか。小さい時から最高の音楽に触れて、心を育てて欲しいと強く思っている。
-4-
日毎の糧
聖書:なお、栄光と威光を冠としていただかせ 詩編8:6
ルターの言葉から
詩編の作者は、ここで王の装いについて述べています。王とし ての冠をかぶったキリストは、この装いでもって、この世でも、きたるべき世でも栄光を受けられます。世の王たちが豪華な姿で現れるときには、装いを凝らすのが常です。王であるキリストは、彼らと同じ様に、ご自分のために肉のからだを飾るだけでなく、私たちのために、霊のからだ、すなわち教会をも飾ってくださいます。福音宣教を通して教会を集め、聖霊によって飾ってくださるのです。
この装いは、ある主のみじめな外見とは正反対のものです。みじめな外見についてイザヤが、「見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。イザヤ53:2-3」と預言しています。
そして主ご自身の民が「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫びました。弟子たちが、見捨てて逃げ去りました。 しかし、復活後、主は栄光と誉を受け、多くのキリスト者の群れが地上で主に従うのです。そしてこれこそ、主がこの世で冠を受ける美しい装いとなるのです・ 1537年の説教から
『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社
聖霊によってかざる
教会は聖霊によって飾られるのです。これこそが「栄光と威光を冠としていただかせ」ることです。栄光と威光とは、「大事なのは、人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りをしっかり受け止め、いましんどい思いをしているその人がいちばん願っていることをいっしょに実現させることです」と本田神父が福音について語っている福音宣教です。その力は聖霊を冠とすることです。
祈り:聖霊を栄光と威光の冠として、福音宣教が出来ますように。
-5-
大森通信
伝道45年 総会資料Ⅻ 「牧会Ⅶ」
教会成長の三原則、1.共働牧会
先週は、「週報の発送」について記しましたが、私たち教会はいろいろな活動において、協働牧会をしています。主の名によって2人、3人集まる所に主がおられるという教会は、いつも一人ではないのです。「共に」です。 「協働牧会」は、主の名によって2人、3人集まる人が、それぞれの賜物を認め合い、さしだし、まとめることです。キリストに生かされた私たちがキリストのために労苦や骨折るという主の招きです。 女性会が中心となって、ほしの家のおにぎり用の海苔を集めることになりました。それに女性会の方々がそれぞれのタレントを活かして呼びかけました。その呼びかけに私たちは応えていきます。それは教会だけでなく地域の人にも小さい拡がりがありました。日曜日、若いお母さんが外の掲示板を診て、海苔を届けてくださいました。主の名によって2人、3人集まる人が、共にキリストのために労苦、骨をおった奉仕の業が、この名と違う所に生きている人に共感を呼び起こし、共にという働きに招いたのです。協働牧会とは、救いの業を教会内だけに留めるのでなく、教会の外の人にも広げていくのです。みな、キリストのために一緒に共に働きくことが、教会的には、協働牧会となるのです。 |
(大森日記)土)燃料費の高騰、後継者がいないのだろうか。よく行く銭湯がマンションになる。時代は動く。日)チャリティーコンサート、三ノ輪で活動している「ほしの家」へ献金。すばらしい演奏会。月)三河時代、赤ちゃんだったYちゃんが結婚の挨拶にくる。すべてに時がある。火)咳が一ヶ月ばかり続き、昨日は寝れず、病院で、アレルギー性かと診断を受ける。水)薬で咳も止まり、足の痛みも和らいだのでH幼稚園。木)昇天日礼拝を共に出来る。感謝。金)早朝から主日の準備。何事も早め早めに準備をしていきたいと続いているのに感謝。