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聖霊降臨後第7主日(7月24日)の礼拝 『値切り合い』ー「求めよ、門をたたけ」

アブラハムは重ねて言った。                                          創世記18:29

あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。                                                                              コロサイ2:6-7

そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。            ルカによる福音書11:9                                                                👈(庭のオリーブの実)

【説教要旨】     求めよ、門をたたけ

ブラジルにいるときに物を買う時にそれぞれの地域に買いに行かなければなりませんでした。電化製品は、日本でいえば秋葉原というように○〇地域のアラブ人街という具合いです。ここでは日本人は言われる値段通り買うから高く売り込んでくる、彼らはけしからんと日系の老人たちはよく言われていました。そこで、商談が始まるのですが日系人はそれが苦手です。

山本七平が「聖書の旅」という本の中で、ベドウィン市に行った筆者が「『値切り合い』」という会話」という項で次のように言っています。「もう一つにはすべてが驚くほど高く、値段が少々気違いじみているという。しかし言い値で買うものはいないから、三百ドルと言っても実際にはすべてが六十ドルぐらいなのかもしれぬ。長時間の値切り合いはわれわれから見れば非能率的だが、彼らから見れば、他人と親しく口をきく機会であり、その会話を楽しんでいることも否定できない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩山と砂しかない荒涼たる地である。・・・・・ベドウィンが何か月かに一度ぐらいはこのベルシバのベドウィン市に来て、わざわざ足の踏み場もない空間をつくり、その中で延々たる『値切り合い』という会話を楽しむのも不思議ではあるまい。おそらく、精神衛生上必要なことなのであろう。」

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「ソドムのための執り成し」のアブラハムと神の値切り合いは、まじめな日本人にとっては、どうも親しみを持てない物語ですが、ベドウィンの祖先であるアブラハムにとってごく普通なことです。アブラハムと神との「値切り合い」は、アブラハムと神の会話であるということです。神との会話、それは祈りです。

イエスさまは、ことあるごとに祈りました。イエスはある所で祈っておられた。ルカによる福音書11:1

十字架にお架かりになる前の「ゲッセマネの祈り」があります。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」 22:44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。  ルカによる福音書22:42

ここで、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」とイエスさまが真剣に神と交渉されているということです。十字架を前にして、一つの見方からすると、こんな重要なときも、神と交渉するイエスさまにユーモアを感じます。苦しみもだえ、いよいよ切に祈られ、が血の滴るように地面に落ちたという真剣な祈りの中でもユーモアを感じるのは、「父よ、」と呼びかけるところにあります。

イエスさまが弟子に祈り方を教えます。「11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、・・・・・    ルカによる福音書」という主の祈りを教えます。それは私たちが祈る、「主の祈り」と違っています。わざわざここで、「父よ、」と始まります。ここでの「父」という言葉は、「父ちゃん」と訳せる、親しみのある言葉であり、ユーモアある言葉です。「父ちゃん」と始まる「主の祈り」は、それは、神との信頼に満ちあふれた関係を私たちに教えてくれています。「値切り合い」の会話が楽しくなるということは、それは深い信頼感の中にあることです。つい、まじめな日本人は、単に値切ろうとするだけ、「ディスコント、(まけて)という一言だけになって、真剣さはありますが、ユーモアに欠けています。私たちの祈りは実にまじめですが、まじめさは人間の業です。命がかかっている時にも、「父よ、御心なら」、イエスさまが祈り弟子の教える時にも

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「父よ、」と呼びかける神への信頼こそが祈りです。

このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。                                                                                    ルカによる福音書11:13

イエスさまは、じゅうじゅう、私たちが悪い者であることを知っていても、またそうであっても神は、私たちを神の子とし、私たちに必要な良いものを与えてくださるといわれるのです。どんな者のであっても人の救いを求める神のユーモアです。

だから、イエスさまは、「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。ルカによる福音書11:9」といわれるのです。神を信頼して、求めること、門を叩くことは神への祈りで、求める時、門をたたくとき神との対話が始まるのです。祈りです。これが、主キリスト・イエスを受け入れるということであり、キリストに結ばれて歩むことです。

ブラジル朝祷会では、参加者が多く、一人ひとりが順番に祈るのでなく、各自が一斉に祈り、蝉の合唱のように祈りがなっていきます。終わってユーモアのお持ちの聖公会の大キャンである司祭が、「みなさんの祈りを聞いて、さぞ、神さまはうるさかったでしょうなあ。」と言われました。「キャノンならどう祈るのですか」と司祭は聞かれました。「よろしゅうに。」と祈ると。司祭は第二次大戦のとき、日本人の集会、日本語が禁止、制限されるとき、時代に抗いつつ、礼拝を日本語で続け、信徒を導いていきました。そういう苦労をした結果、祈り言葉は、「よろしゅうに。」、「御心のままに行ってください。」ということになったのです。これこそ、世の力を超える「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」という聖霊、神の力をいただけるのです。祈りほど、私たちの不安を取り除き、希望を与えてくれるものはありません。イエスさまが私たちの罪のために十字架にお架かりになる前のゲッセマネの祈りにおいて、神に勇気づけられ、心からの信頼をもって、心開かれ、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」というお姿は私たちに与えられます。たとえ現実が厳しくても、神に求め、門をたたき、「よろしゅうに」と神に信頼して祈りつづけましょう。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

安部元首相がなくなり、一つの言葉が、気になる。「家庭」という言葉である。

教育、保育に関する懇談会で、市長が、「家庭教育」が大切だと供された。「教育大綱」の基本施策1に「家庭教育の支援」とあるがどういう支援をするかはまだ記されていない。しかし、具体的な「望ましい習慣の形成」というところで、「家庭では」という項がる「親が率先して挨拶、返事、後片付けを行う」、「早寝、早起き、あさごはん、うがい、手洗い及び歯磨きなどを自ら行わせる」、「家族で食卓を囲み、会話をする」・・・・・・・・・。ごく当たり前で、当然であるが、これを公が指針として出すと家庭への押し付けに感じないだろうかと私は違和感を覚えた。

「家庭教育」が確かに大切。だが、「家族で食卓を囲み、会話をする」が大切だと分かっていても、朝食、夕食を囲むことが、学校、会社の働き方で出来ない社会構造があり、家庭で悩んでいる保護者がいる。これを具体的にどう支援してことが大切ではないだろうか。「家庭教育の支援」でなく「家庭の支援」に頭を使い、汗を流していきたいと思った。それが、「家庭教育」を実現していくことではないだろうか。

園長・瞑想?迷走記                                    

「絵本は自分の気持ちと向き合える」と、身近な人を亡くし、悲しみ(グリーフ)を抱えた人に心寄り添い、ケアーをされているカウンセラーの方の言葉です。悲しみにある人にとって本のような長い文章は読めなくなっているが、短い文章と絵の絵本は、手に取り、読み易く、自分の気持と向かい合える。そこで、絵本を置いたという。

幼稚園でも絵本を置き、絵本を読み聞かせしている。絵本は幼児教育にとって、大切なものである。教育的な目的が大きいが、「絵本は自分の気持ちと向き合える」という心の成長にとっても大切である。

日々の子どもたちの声を聞きながら、また行動を見ながら、今、どんな絵本が、本が必要なのか気にかけるのも園長の仕事と思い、本屋、古本屋にいくと、いつも絵本に目がいく。

心を大切にする幼稚園にとって、自分の気持ちと向き合える絵本は大切なものである。今年の夏は絵本探しの日々かもしれない。

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日毎の糧

聖書: 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。   詩編51:14

 

ルターの言葉から

聖霊は、痛みを伴う恐れの気持ちや偽りの愛からではなく、心の底から神に仕えたいという願いを人に起こさせます。・・・・「喜んで仕える霊(新改訳聖書、新共同訳聖書では「自由の霊」)」というこの一語は、ヘブル語で、気持ちの良い、強いられない霊を意味しています。強制による行為はすべて長続きしません。自由な意志に基づく行為は永続的なのです。                                七つの悔い改めの詩篇

 『マルティン・ルター日々のみことば』   鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

 

便器にイエスさまが

 「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも服さない。 キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する。」   「キリスト者の自由」  徳善義和訳 新地書房

 宗教改革3大文書の一つの「キリスト者の自由」で、ルターの人間観が出ている。キリスト者は、何にも束縛されない「自由な主人」であり、何にも拘束される「奉仕する僕」であるという矛盾した者である。「自由な主人」とは、「内的信仰」つまり魂である。魂は救いの喜びに満ち、何にも束縛れない自由な者とされ、その自由は、隣人への愛となって、「外的な愛の行為」となる。

慈愛園でディアコニアキャンプをしたとき、一人の青年が来る日も来る日も便器を掃除していた。それは、いやそうな気持ちを感じさせなかった。「この園で一番必要で汚れている所にイエスさまがおられると思うと、便器の中であると気づきました」と青年は言った。これが自由な霊(喜んで仕える霊)に支えられた人の姿と感動し、今も心としている。

祈り:喜んで仕える霊に支えられ、人に使える者としてください。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」26

                  宗教改革500年(2017年)

  1959年に第2回バチカン公会議開かれ、カトリック教会とは和解の対話を続けて、「教会一致、エキュメニカル」を目指してきている。そんな対話を続け、「洗礼」、「聖餐」、「マリア」について協議し、本を出版してきた。そして、20世紀も終わろうとしているとき、カトリック教会、ルーテル教会にとって重大な教義、救いの問題、「義認」について協議を続け、合意が出来たということである。

「第一点は、義認をめぐって、両者の間に基本的な合意と総合理解ができたのです。このことは、どれほど強調しても強調しすぎることはありません。・・・・・・・・・第二点は、基本的に合意したということは、逆に両者の間のいくつかの見解の相違が整理できたということです。・・・・・・・・違いがお互いに整理できたということは、むしろその相違の克服にむかって、両者が協力できるということです。・・・第三点は、義認をめぐって両者の間に共有できる基本的真理と、そして幾つかの二次的な相違が整理できたということは、両教会にとって、自分たちの教会の伝統や考えが改めて自己理解できたということです」①。そして、「われわれは共にこう告白する。われわれは、われわれの側のいかなる功績によってでもなく、恵みによってのみ、キリストの救いのみ業への信仰において、神に受け入れられ、聖霊を受ける。この聖霊がわれわれの心を新たにし、それによってよい行いへとわれわれに力を与え、召し出す」という「義認の教理に関する宣言」を出し、1999年に両教会で調印された。

我々は大変化する社会にあって、両教会が今後協力して、世の光、地の塩とし証する具体的宣教、奉仕の業に努めていきたい。

(大森日記))教会学校は夏バージョン。園児の保護者よりzoom礼拝参加の申し込み嬉しい。コロナ禍と蒸し暑さで出席が少ない。)祝日、夕刻、週報などポスティング。)夏休みの預かり保育開始。一日目は無事に終了。)園児を迎えて、朝、H幼稚園へ。)H教会の主任代務者なので、教会の整備に行く。また大森幼稚園の日常生活品を購入のために久しぶりに車でいく。)主日の準備で一日を過ごす。)いつものように。掃除して主日の準備。