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聖霊降臨後第6主日 7月17日礼拝 「キリストに結ばれ」

1主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。                              創世記18: 1

28このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。                                               コロサイ1:28

42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。      ルカによる福音書10:42

【説教要旨】     キリストに結ばれ

今の世の中の動きをみるとき、世の中はどうなっているんだろうか、どうなっていくんだろうか私は心痛み、正直不安でなりません。その不安の一つは弱い者がますます弱い立場に追いやられているということです。

フードパントリー活動への支援のお礼状を読みます。「いつもPANEの会フードパントリーをお支え下さり深く感謝いたします。第18回(6月25日)PANEの会フードパントリーには、145名の方が来られました。当日は猛暑にもかかわらず、多くの方が列に並ばれました。来場者の方の生活の厳しさは変わりません。」という悲痛な叫びが聞こえてきます。いつからこういう現実が起きたのでしょうか。

今日は、「マルタとマリアの話」と言って、有名な聖書の個所です。よく、ここをマルタのようにイエスさまのみ言葉を聞かずに活動していることを批判的に受け止め、マリヤのようにみ言葉に聞くことが大切だというふうに解釈してきました。

しかし、よきサマリア人の譬の続きからすれば、「『 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』

律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」という結びの言葉と今日の日課はつながっているのではないかということを森一弘司祭は捉え次のように話しています。

-1-

「マルタがとがめられたのも、愛についてではないでしょうか。・・・・マルタにはマリアの心を思いやるあたたかさが、かけていたのではないでしょうか。ここでマルタはこういうべきでしょう。

『マリヤ、あなたが求めていた方がおいでになった。この時間を大切にしなさい。思う存分自分に飢え、渇きをイエスさまに訴えなさい。わたしのことは、心配しないで、イエスさまへのもてなしは、私が一人でも十分できますから』

ともに生活する人びとの心のうちを理解し、それをつつむいたわりの心、愛こそ、マルタだけでなく、すべての人間にとってももっともたいせつなものではないでしょうか。」

10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

今の世の中の動きをみるとき、世の中はどうなっているんだろうか、どうなっていくんだろうか私は心痛み、不安です。そこで私たちは思い悩み、何か行動しなければならないと思い悩むのです。そして、心を乱して、大切なことを忘れがちです。そして私たちは人を裁いてします。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

マルタの言っているは正しいのですが、共に生活しているマリアがどんな思いでイエスさまのみ言葉を聞こうとしているかという思いやるあたたかさが欠けています。イエスさまは、サマリアの譬と逆に行動している者の中でも、「誰が隣人となったか」と私たちに示されているのです。マルタはマリヤに『あわれに思って(気の毒に思って)』という心、みじめな者、弱々しい者、気の毒な状態に対する敏感な感受性を失い、マリアのいのちのうめき、叫びを聞き取り、それに動かされる心を失っていたことがイエスさまのお叱りの言葉となったのではないでしょうか。

-2-

隣人となる、気の毒に思う相手を思いやる心こそが、イエスさまの心ではないでしょうか。

「しかし、必要なことはただ一つだけである。」とは、ともに生活する人びとの心のうちを理解し、それをつつむいたわりの心、愛です。私たちの力だけでは出てきません。それは、私たちが神さまに愛されている信仰からでしか出ません。イエス・キリストの十字架で示された神の愛です。価値のない、むしろ価値に反する、敵となった私を愛するゆえに犠牲を払う苦しみ、み子に十字架を負わせ、神が徹底的に私を愛するということを示し、愛を下さったのです。苦痛をともなう神の愛は、神の自由な心であり、自由と言う恵みがともなうのです。だから、相手がどうであるかというよりも、自由に『あわれに思って(気の毒に思って)』という心、みじめな者、弱々しい者、気の毒な状態に対する敏感な感受性が私たちに恵みとして与えられます。「キリストに結ばれて完全な者となる」という完全な者になるということはこういうことです。

主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、創世記 18:1 荒野の最も厳しい時です。私たちは、今、私たちが体験したこともない世の中はどうなっているんだろうか、どうなっていくんだろうかという時を生きています。「この問題をふつうの信仰問題とはできず、呪術や暗殺などの人間世界の追い詰められた者の取る手段にも触れてみました。語り合った牧師仲間からは、説教の枠をはみ出すなと、厳しく批判されています。牧師たちには共感者はいません」とある牧師さんからロシアのウクライナ侵略について手紙をいただきました。追い詰められ、孤独さえ自分におそってくる暑い真昼ですが、主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れたという出来事は今、私たちの中でも起きています。暑さの苦しみ、イエス・キリストの十字架の苦しみがここにあります。イエス・キリストの十字架の神の愛があります。十字架の愛から私たちもともに生活する人びとの心のうちを理解し、それをつつむいたわりの心、愛、自発的、真実な愛を行っていけます。今の厳しい時に来て下さるキリストに結ばれていくことこそ、牧師さんの苦しみは、私の苦しみと理解し、愛に自由とされ、「誰が隣人となったか」とイエスさまに応える者とされます。

マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。

-3-

牧師室の小窓からのぞいてみると

 感覚に過ぎないが、世界が終末に向かって突っ走ているように思える。バビロンの塔のように人間が上へ上へと目指して、神のように振舞い、行きつくところまで行きつき、自爆するように感じる。少数であっても謙虚さを、良心をもって丁寧に生きていく生き様を示す時だと思う。ルターは神の前で自分がどうであるかと問うことで、改革を起こした。「神の前での良心」に捕らわれることこそが伝えるべきことであろう。

 

園長・瞑想?迷走記

「夏休み」(7月園便りより)

                  主(神)に向かって 心からほめ歌いなさい。                聖書  エペソ信徒の手紙5:19                                    

入園、進級して、3ケ月がたったと思っていたら、もう夏休みになりました。時が過ぎていくのは早いですね。早く過ぎていく時の間に、神さまに守られて、子どもたちは成長していっています。みなさんも感じていませんか。

発達障害、グレーゾンの子どもたちと出会うことが多くなりました。そして、発達障害、グレーゾーンの子どもたち、保護者の方が深刻な困難に陥りやすくなるなかで、どう寄り添い、共に生き、どう教育・保育していくかということに取り組んでいます。「発達障害『グレーゾン』その正しい理解と克服法(岡田尊司 SB新書)」は障害を障害と受け留めつつ、どう捉え、克服していくかという大きな示唆と希望をくれる本でした。

子どものための施設、老人ホーム、精神科の病院を持つ施設に創立時から私は関わり、深刻な困難で、生き辛さを感じている方々と出会い無力を感じながら、いつも、神さまの目を上げなさいという声を聞きます。「すべてに時がありますよ。時に適ってみな美しい」(コヘレト)と。慌てず、焦らず、神の働きがあることを信じて、丁寧に生きなさいと。障害を持たれている子どもたち一人一人に神さまの時に適った心からほめ歌う美しい出来事が隠され、起きる時があると神に向かって歩めと。愛なる神にご一緒に向かいましょう。

-4-

                            日毎の糧

聖書: 8 神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。9 魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない。   詩編49:8-9

 

                           ルターの言葉から

    私は聞いている。人の本性にある悪や不幸はあまりにも多いので、全世界があらゆる被造物を用いても、神の怒りをしずめるには足りないほどわずかであり、神のみ子ご自身がそのために与えられなければならなかった、と。                『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』湯川郁子訳 徳善義和監修   教文館

永遠の命の中に

 どんな財力や富の高さを持とうとも、人には等しく死がやって来て、神に定められた死からの贖い身代金を払うことができません。私たちはそのことを忘れて、一時の幸福を得ようとあくせくしています。

「詩篇49篇の勧めは、財力や富によって栄える者をおそれるな、という点に集中する。それは、いうまでもなく、自らの富や力に信頼して生きることの愚かさの教えに通じてゆく筈である。『人を惑わす財産を頼みとするな。いざというとき、何の役にも立たない。シラ書5:8』だが、翻って考えてみれば、貧しい者にも死は訪れる。なぜならば、生きている間はせめても幸福でありたい、と生の愉悦を求めるのが人情ではないか。」と月本氏は解説します。では、この問いに詩篇はどう答えているのでしょうか。「49:16 しかし、神はわたしの魂を贖い/陰府の手から取り上げてくださる」。人にどんな財力を富の豊かさがあっても死からの贖いはないが、神にあるのです。死を越えていく永遠の命は神によって与えられています。だから私たちは安心して丁寧に日々を歩めば良いのです。

「詩編の思想と信仰Ⅱ」 月本照男  新教出版

祈り:死を贖う永遠の命を生きる信仰を与えてください。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」25

     宣教100年(1993年)

 大森教会は70年、これは戦後入って来た宣教団体によって創設された教会ではごく当たり前の年数である。129年を迎えようとしているーテル教会がある。日本の一部の歴史を生き抜いてきた。そして、

共に喜び、苦しんできた。そして、今を生きている。

今、私たちは大森カトリック教会の活動、フードパントリーに協力をしている。これは歴史的事実があって、今の協力が出来る。 1959年に第2回バチカン公会議開かれ、カトリック教会がプロテスタント、正教会に和解を呼びかけ、「教会一致の精神を打出し,現代世界に対して積極的姿勢をとり,協調しようと努力した。」(コトバンクより)これによって、日本でもカトリック教会と対話の委員会を開き、積み重ねている。以前では考えられなかったカトリックとの協力参加を可能にした。

社会的状況の変化である。社会構造が大きく変化して、自由経済の中、貧富の差が拡大した。しかし、救済するセーフティーネットが弱く、食べる物に困っておられる方が出ていることに支援しようとフードパントリー活動が始まり、行っている。そして、教会一致の中で教会を越えて支援が出来るようになった。これも第二バチカン公会議のおかげである。教会が一致して、さらにいと小さきに者にしたるは、我(神)したりというイエスさまの言葉を実現していきたい。

(大森日記))教会学校(朝の礼拝)は、最終日。コロナ禍無事に歩めたことを感謝。通常礼拝後、久しぶりに「山王講座」、しかし、コロナ感染で、しばらく休み。夕礼拝にお父さんと一緒の出席者がおられた。)風邪で休んでいた園が開かれた日、園児を迎える。)聖書の学びの原稿書きであるが、ウトウトしまう。)早朝、起きて昨日の原稿を書き直し、メール発信。人事委員会後、徳弘牧師が寄って下さる。)神学生教会実習について神学校と会合。私の時代と違い学生数の減少、コロナ禍、社会の変化で神学生は大変なことを再確認。パッチワークの会、開かれた教会へ。)一学期の幼稚園の終業式。デイキャンプと続き一学期を終えることが出来た。ただ、感謝、感謝である。大雨が続く。何もなければよいが。)主日の準備完了。コロナ感染者増加の中での主日に備えいこう。