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聖霊降臨後第5主日 7月10日の礼拝 「建前で生きるのではなく」  

御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。     申命記30:14

あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。                    コロサイ1:6

ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。                                                                     ルカによる福音書10:33

【説教要旨】     建前に生きるのではなく

私たちは、こうあるべきだとか、本来こうなんだとか、そういう建前というものがあり、特に信仰をもって、真面目な人であればあるほどそういう建前に生きようとします。しかし、現実は全然そうでないという事です。

私たちの世界は、矛盾と不条理に満ちていると思います。そのことを私たちが認めないと、こうあるべきだとか、本来こうなんだとかいう建前だけに生きて大切なものを見失っていく、無味乾燥な生き方しか出来なくなり、大切なことを忘れがちになります。特に信仰をもって生きている私たちが注意をすることですね。

ここで宗教的な人がでてきます。律法学者に対して、イエスさまは、譬え話で、祭司とレビ人を登場させます。この人たちは、こうあるべきだとか、本来こうなんだとか、そういう建前に生きています。しかし、現実的には全然そうでないという事をみていたし、知っていたのですが、今回の傷ついた旅人を見てはいたが、見ないふりをして通り過ぎて行きました。祭司とレビ人にしても彼らなり、こうあるべきだとか、本来こうなんだという理屈があり、建前を盾として通り過ぎていったのです。しかし、ここで建前を生きているとそこに傷ついた人が見えていても見ないふりをして通り過ぎていけたのです。

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イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 「では、わたしの隣人とはだれですか」という律法学者の問いに、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と良きサマリア人の譬えを話しつつ律法学者に問い返します。律法学者は、「10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と、神を愛し、人を大切にすることは十分に分かっていました。しかし、分かっていたが、「では、わたしの隣人とはだれですか」という問いの中で、このことが建前となっていることに気付き、譬に神殿に仕える祭司、レビ人を出してくる。彼らは傷ついた旅人に振り向くことなく置き去りにして去る。彼らは重々、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』」ということをよくしていたはずです。しかし、「では、わたしの隣人とはだれですか」ということでなく、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったか」ということが大切だと話すのです。

そこでアッシリア侵攻によって北イスラエルが支配され、アッシリアの混血政策によって、アッシリアから移住してきた人とイスラエルの民が混血し生まれたのがサマリア人であり、イスラエルの民は彼らを穢れた人として軽蔑していました。そして、軽蔑していたサマリア人が追いはぎに襲われた人の隣人になったのです。

新約学者・八木誠一氏も、森補佐司教も、「その人を見て憐れ(口語訳聖書:気の毒)に思い、」という言葉に注目します。 「祭司、レビ人、律法学士たちが失ってしまったものが、このサマリア人にあります。心です。この人を動かしたものはやさしい心です。みじめな状態に置かれている人に対する、素朴で自然な感情です。『あわれに思って』とイエスはその心を説明します。あわれみとは、みじめな者、弱々しい者、気の毒な状態に対する敏感な感受性ともいえます。いのちのうめき、叫びを聞き取り、それに動かされる心です。自分の前に置かれたみじめな姿に、自分の心がつきさされ、見て見ぬふりができません。痛々しいいのちに対して理屈なしに揺さぶられ、手を差し伸べていかざるをえないのです。彼は、サマリア人、ユダヤ人といいう区別をこえます」(「神のやさしの中で」 森一弘 女子パウロ会)

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私たちは、こうあるべきだとか、本来こうなんだとか、そういう建前でいきていきますと「わたしの隣人とはだれですか」という筋立てに生き、今ここに傷ついた気の毒な状況、人を見て見ぬふりをしてしまうのです。しかし、イエスさまが「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったか」と問われたことは、いつも人と関わる限り、煩わしいことは起きてくる。そこには矛盾と不条理なことに満ちているが、そこを建前でいきるのでなく、煩わしく、矛盾と不条理な中にあって、人と関わることを止めない。そこで、大切なことは、やさしい心です。みじめな状態に置かれている人に対する、素朴で自然な感情です。イエスはその心を『あわれに思って』と説明します。それを「良きサマリア人」の譬で、サマリア人の行いを通して、私たちに語りかけてくださっています。みじめな者、弱々しい者、気の毒な状態に対する敏感な感受性といのちのうめき、叫びを聞き取り、それに動かされる心、自分の前に置かれたみじめな姿に、自分の心がつきさされ、見て見ぬふりができず、痛々しいいのちに対して理屈なしに揺さぶられ、手を差し伸べていかざるをえない行動こそが、こうあるべきだとか、本来こうなんだとか、そういう建前を打ち破り、 自分自身においては生きず、キリストと隣人とにおいて生き、キリストにおいては信仰によって、隣人においては愛によって生きるのです。キリスト者は信仰によって自分自身を越えて神の中に至り、愛によって生きるのです。「では、わたしの隣人とはだれですか」というイエスさまの問いに応えられ、自由とされるのです。

10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい』」というみ言葉に応えることは、こうあるべきだとか、本来こうなんだとか、そういう建前から解放され躍りあがって喜ぶ神の恵みとなって私達に与えられています。「行って、あなたも同じようにしなさい」

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牧師室の小窓からのぞいてみると

 今日は良識府の参議院選挙投票日である。しかし、どれほどの人が良識を持っている候補か分からない。そもそも良識とは何かである。三波春夫さんが、彼の経歴からしても良識を持たれた人であろうが、自民党から参議院全国区の出馬願いを固辞した話がある。これが良識ある判断ということではないだろうか。

参議院も変化していった。昔は、緑風会とあり、党色が少なかったが、いつのまにか党色が強くなり、緑風会は消えて、党拘束に議員が縛られていった。そこで参議院の特色、独自性を取り戻す努力を河野謙三議長が参議院改革をしたが、また、今は党拘束の強い衆議院のミニチア化している。新しく選ばれていく、半数の人が参議院議員となっていくのだが、党に縛られることなく、良識の参議院らしさを回復して欲しい。

 

 

園長・瞑想?迷走記

「教員免許更新制は、その時々で求められる教員として必要な資質能力が保持されるよう、定期的に最新の知識技能を身に付けることで、教員が自信と誇りを持って教壇に立ち、社会の尊敬と信頼を得ることを目指すものです」という目的をもって施行された教員免許更新制が、7月1日をもって廃止となった。

では、この目的をどこで行うかと言うと幼稚園でいえば、幼稚園の連合体の各機関であり、各園である。どれだけ研修に各園が気配りし、実行し、その為に研修費を十分にとっていくことが大切になってきている。

教員は、現職である限り、学び続けていかなくてはいけないという自覚をいつも持っていただくようにこれを整えるのも園長の仕事である。十数年間、弛まず研修を受けることを勧めてきたし、自分も色々な研修に出た。それは大きな学びであり、自分の財産となっていった。

今は、研修を受けて、給与の他に加算される制度があり、この内容を充実していけば、教員免許更新制の目的を達成できるかもしれない。

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日毎の糧

聖書:主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。遠くにいましても/傲慢な者を知っておられます。          詩編138:6

 

ルターの言葉から

 一言でいえばこの聖句は、神が、低く卑しめられた者を顧みるという表現から、神の本性を正しく教えていると言う事が出来ます。神が低い者を顧みることを知っている人は、神を正しく知っていいるのです。このような知識から、神への愛と神に対する信仰が湧きだして、喜んで自らを神にゆだね、従うようになります。           『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

低きに神の力は注ぐ

 月本照男は次のように解釈している。「古代イスラエルの信仰者たちは、バビロニア捕囚期以降、彼らの民族神ヤハウェを万物の創造神にして、人類の全歴史を差配する唯一絶対の神として宣揚していく。しかも、その唯一神ヤハウェの偉大さは、すべてを超越した高き存在にではなく、砕かれて、小さく、貧しくされた『低き者』に眼を注ぐことにおかれていたのである。それが旧約聖書における唯一神信仰の逆説的特色である。」

アッシリア、バビロニア、そしてペルシャ帝国は、一時は武力でイスラエルの民を苦しめたが、残ったのは苦しめられたイスラエルの民である。信仰者たちはこうした歴史の背後に、『低き者』に眼を注ぎ、これを高め、自らの力を誇る『高き者』を低くする神ヤハウェの意思をみとったのである。

今の大国ロシアの侵略は、成功するかもしれない、神の歴史は、歴史の背後に、『低き者』に眼を注ぎ、これを高め、自らの力を誇る『高き者』を低くする神ヤハウェの意思をみとり、『地の王すべて』がそのことを認め、神ヤハウェに帰依する時代の到来に気づくべきである。

「詩編の思想と信仰Ⅵ」 月本照男  新教出版

祈り:高ぶる民を低くし、低き国を高め、真の平和がきますように。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」25

     宣教100年(1993年)

 私たちは宣教に手をこまねいているわけでなく、どう、伝道していくかを計画,実行してきた。「綜合方策、通称、宣教方策」というものを6回計画し、実行してきた。2022年に提出される第7次綜合方策総合まで、教会は大きく時代の影響を受けて、向かい合った。1963年のアスマラ宣言を受けて、教会は、アメリカ教会から自給を目指し、第1次から4次までは経済自給政策であり、一定の成果を収めた。しかし、個の教会の成長にはつながらなかった。

宣教開始百年の節目の1993年には、熊本で宣教百年全国大会が「さあ、出ていこう。~宣教二世紀に向かって」という主題のもと開催され、全国から3000名の信徒、牧師が集い、宣教百年の歩みを感謝しつつ、宣教二世紀に向かって宣教の使命と決意を新たにし、「宣教百年信仰宣言」を表明、更なる 「伝道する教会」への成長を目指した。時代を分析しつつ、危機感をもった教会は、教会の教勢の拡大を目指し、資産を本部に集中し、個々の教会ではできない具体的な伝道計画を実施、個々の教会のテコ入れをおこなったのが「第5次綜合方策」、「パワーミッション」である。しかし、実際には、凄い努力にもかかわらず、時代は速く、大きく変動し、目的を果たせずに荒海に小舟が翻弄されているというのが現代の教会の状況であり、危機は続いている。

「第5次綜合方策-パワーミッション」ほどの情熱ある真剣な議論がこれまで起きていない。「第7時綜合方策」が出され、2022年に議論される予定であったが、総会が延びて2023年になった。第5次のような議論がなされ、宣教の日々を回復して欲しい。

(大森日記))教会学校、通常礼拝、役員会、神学生と勉強会、夕礼拝といつものように時が流れる。)牧師会、出席した者、オンライン出席した者、時代は様変わり。)台風に備えてというか、雨を予想して、草花の移植。京都・大原のような赤紫蘇畑を作りたい。4回目のワクチン接種。)本を一冊読めた。感謝。)週報発送準備、聖書の学び。)風邪の流行で、休園。これもコロナ感染の影響か。)主日の準備。