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聖霊降臨後第3主日(6月26日・礼拝)、自由-愛によって仕える

エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。         列王記上19:21

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。             ガラテヤ5:13

イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。                ルカによる福音書9:39

【説教要旨】       自由-愛によって仕える

徳善義和牧師が、「キリスト者の自由-自由と愛に生きる」(新地書房)という冒頭で、「自由と愛、これは人間とその思想の歴史にとって変わることないテーマである」と言われているように、自由に生きていると思っている現代社会を生きる人たちに、新たなテーマを私たちに突き付けてきています。現代こそ、「自由と愛」が問われています。そういう現代人に、パウロは大きな挑戦状のみ言葉を私たちに迫って来ます。

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。       ガラテヤ5:13

北森嘉蔵牧師は次のように言います。「キリスト教の自由の本質は、自由を愛によって抑制することにある。自己の自由だけを無制限に伸ばそうとすると、他者の自由を侵害する結果となり、『互いに食い合って滅びる』こととなるであろう。-----愛から最も遠いものは力による強制である。」(「愛における自由の問題」 北森嘉蔵 東海大学出版会)。新型コロナウィルス感染パンデミック、その中で起きたロシアによるウクライナ侵略、そして、中国による香港の強制支配、台湾侵攻が起きるかもしれないと言われている世界の状況は、まさに力による強制です。そういう中で、力に対して力で応える、日本の防衛費の増額が当たり前のように議論され、すでに第三次世界大戦は起きているとまで言う学者の見解も出ています。この本が出版され、読まれていることは、私たちは、力に対する苦しみと恐怖を感じているということではないでしょうか。そして、日常の生活は、ここ二ヶ月、2%の物価上昇が起き、生活への不安を感じているのではないでしょうか。現実の生活の中で、信仰をもってどう生きるのか、どうすれば信仰者として神のみ言葉を行っていくのか、緊張した魂の日々があります。

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イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。(ルカによる福音書9:51~55)

十字架の死の決意を固められたイエスさまが、エルサレムに向かおうとしていると行く手を妨害したサマリア人に弟子は「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言われました。まさに、力による強制です。

「十字架の死に価値があることに、まだ目がひらかれません。弟子たちの心は、力による解決、力による幸福にしかひらかれていません。イエスは彼らのそのような価値観をとがめます。そして、十字架の死による人々の救い、これこそがイエスの道であるという信念を伝えます。常識からみれば、愚かで、敗北としか思えない死と苦しみにこそ、最高の価値があるという確信を新たにし、イエスは、自分の死を待つエルサレムに足を運びます。」(『神のやさしさの中で』 森一弘 女子パウロ会)

十字架の死、それは、神の愛が最も私たちに示され、与えられたものです。イエスさまは、神の子として、力による強制の自由があったのですが、敢えて無力となられ、神の子として力の自由を抑制される決意

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を固められた。「キリストの十字架」、それは、神の愛です。神の愛によって、自由を抑制され、キリスト教の自由の本質は、自由を愛によって抑制することにあるということを私たちに示されました。愛から最も遠いものは力による強制であることを弟子に示され、イエスさまは敢えて、「イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。」という行動を起こされました。神の愛を信じる者の自由です。神の愛を信じる自由が隣人、ここではサマリア人に向かうのです。彼らも神に愛される人であり、救われるべき人であると隣人を愛する自由へと向かうのです。

確かに私たちを恐怖と苦しみ、不安に陥らせている現実を前にして、「キリストの十字架」は無力です。常識的にいえば力による自由を勝ち得ることこそすばらしいと感じ、思います。しかし、イエスさまはここに立たれませんでした。神の愛に立たれました。ここにこそ自由があるのです。パウロは、「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。」と私たちに伝えます。力による自由でなく、神の愛における自由です。神による自由は、隣人への愛へと向かいます。「ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」

「キリスト者は自分自身においては生きないで、キリストと隣人とにおいて生きる。キリストにおいては信仰によって、隣人においては愛によって生きるのである。キリスト者は信仰によって自分自身を越えて神の中に至り、愛によって生きるのである。キリスト者は信仰によって自分自身をこえて神の中に至り、愛によって再び神から出て自分自身の下まで至り、しかも常に神と神の愛とのうちにとどまりつづける・・・・・見よ、これこそが真の霊的なキリスト教的自由であって、あらゆる罪と律法と戒めから心を解放するものであり、天が地とへりくだるように、他のすべての自由にまさる自由なのである。ねがわくは、神が、この自由を正しく理解し保つ力を、われわれに与えてくださるように。アーメン。」とルターは「キリスト者の自由」の結びとしている。真の霊的なキリスト教的自由こそ、私たちを縛っている恐怖と苦しみ、不安から心から解放してくださいます。イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

20万人の方が亡くなった沖縄戦が終結した沖縄全戦没者追悼式が6月23日に開催され、7歳の子どもが「平和の詩」を朗読した。

こわいをしって、へいわがわかった

びじゅつかんへお出かけ おじいちゃんや おばあちゃんも いっしょに みんなでお出かけ うれしいな

こわくてかなしい絵だった たくさんの人がしんでいた 小さな赤ちゃんや、おかあさん

風ぐるまや チョウチョの絵もあったけど とてもかなしい絵だった

おかあさんが、 七十七年前のおきなわの絵だと言った

ほんとうにあったことなのだ たくさんの人たちがしんでいて ガイコツもあった わたしとおなじ年の子どもが かなしそうに見ている こわいよ かなしいよ かわいそうだよ

せんそうのはんたいはなに? へいわ? へいわってなに?

きゅうにこわくなって おかあさんにくっついた あたたかくてほっとした これがへいわなのかな おねえちゃんとけんかした おかあさんは、二人の話を聞いてくれた そして仲なおり これがへいわなのかな

せんそうがこわいから へいわをつかみたい ずっとポケットにいれてもっておく ぜったいおとさないように なくさないように わすれないように こわいをしって、へいわがわかった

「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。マタイによる福音書5:9」を噛みしめている。

園長・瞑想?迷走記

何気なく咲いている紫つゆ草を抜かないでいる。つゆ草の青は何事にも変えられない。

季節ごとに咲く雑草の花から子どもたちが季節を感じ、感性を磨いて欲しいからである。自然はその感性を育む材料を提供してくれる。私は保育に欠かせない自然から与えられた恵みに感謝している。

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 日毎の糧

聖書:主に従う人は御名に感謝をささげ/正しい人は/御前に座ることができるでしょう。詩編140:14

 

ルターの言葉から

    天におられる私たちの父よ。この意味は。答え。神はこれによって、神がわれわれのまことの父であり、私たちが神のまことの子であることを信じ、ちょうど愛する子どもたちが、その愛する父に求めるように、すべての信頼と安心をもって、神に求めることをおすすめになる。          『小教理問答書』1529年~31年

『ルターの言葉 信仰と思索のために』W.シュパルン編 湯川郁子訳 教文館

 

座力

 池田裕先生が、「長時間机に向かったまま仕事を続けられる学者の体力を、ヘブライ語でコーアハ・イェシヴァーという。すなわち‘座力‘である。‘座力‘は学者であるために絶対的に必要な条件の一つである、と彼らは考えるからである」(旧約聖書の世界  三省堂)と言っているように、座るということは、信仰の民にとって大切なことであった。「座る」という言葉は、「住む」という言葉と同一動詞である。ある聖書は、「住む」と訳している。

では、どこに座り、住むのか。「御前」、神の前に住むのである。私たちが座し、住むところは神の前であり、ここにこそ平和があり、祈りがある。ルターは、「天におられる私たちの父よ。」

と祈るとき、「すべての信頼と安心をもって、神に求めることをおすすめになる。」というようにこれこそが、み前に座る者の力である。イスラエルの土器は華奢でなく、簡素であったが座力をもったものであった。私たちもこの土器のように飾ることもなく簡素な安定したものとして神の前に立って、感謝して神に祈っていきたいものである。

祈り:神に従う者として、どっしと神の前に座るものとなりますように。

(参考:「旧約聖書の世界」 池田裕 三省堂)

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」24

オリンピック

教会の70年の歴史の中で、東京オリンピックは、二回開催された。1964年(昭和39年)開催のオリンピックは、第二次大戦の戦後復興の中で、2020年(令和3年)開催のオリンピックはグローバル化の進んでいく時代の中で、さらに新型コロナウィルス感染が世界中に広がっているパンデミックの中での開催であった。

敢えていうなら、1964年のオリンピックは陽であり、2020年のオリンピックは陰であるように私は感じた。1964年は、これから世界は良くなっていくんだという高揚感があったが、2020年のオリンピックは、新型コロナウィルス感染パンデミックもあり、世界は、これからどうなるのだろうかという不安があり、喜んでもおられなかった。

2020年度のオリンピック後、2年、ロシアにおけるウクラライナ侵略が起こり、中国の覇権主義が露骨になってきている。「第三次世界大戦は始まった」(エマヌエル・トッド 文春新書)という本が出版され、「グローバル化=世界戦争化」という言葉がある。グローバル化の中にある私たちは戦争下に突入したかもしれないという気持ちにさせられる。

ベルリン・オリンピック後、一ヶ月、第二次世界大戦が始まった。こうならないことを切に求めている。

(大森日記))皆を迎えるために、春の元気な花を残して早朝から夏花壇に衣替え。気づいてくださった方もおられる。教会学校、通常礼拝、途中でzoom配信が切れる。困った。祈りの会、女性会、神学生との勉強、夕礼拝と時が流れる。)蒸し暑く、疲れが取れない。)羽村市長と懇談のために出かける。教育は要だと思うが。)誕生会、平和の中ですくすくと育って欲しい。)木の枝は延び、草は生える。Y兄と午前中は、草を取り、夏花壇を作っていく。また隣家に延びた木の枝を剪定する。風通しもよくなった。夜は、Zoom配信もあって、聖書の学び。聖書訳を比べれば比べるほど、原語のヘブライ語はとなる。沖縄全戦没者追悼式。平和を。)子どもとともに礼拝。職員会議。暑くて疲れる。)朝、鳥の元気な声を聞きながら信徒、牧師に思いを馳せ祈る。元気で。