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聖霊降臨後第25主日11月19日「分」

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あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。              1テサロニケへの手紙5:5

25:14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 25:15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。                  マタイによる福音書19:13~15

【説教要旨】

人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。詩篇90:10とあるように瞬く間に時は過ぎ、終わりがきます。私たちは終わりという事を日頃は意識していませんが、確かに終わりはあるのです。「主の日は来る」とあるように主の日とは終わりの日です。しかし、終わりの日は、「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。」という救いの日、すなわち恵の日であるのです。終わりは主イエス・キリストの命がはっきりと見える喜ばしい日です。

福音書にタラントがあります。タレントという言葉の語源で能力ということです。一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンとあるようにそれぞれの人によって、能力は違うという事です。ここで、「預けて」とあるように神によってそれぞれにその能力を預けられているということです。それは、生きるということもそれぞれ違う年齢です。生きることもそれぞれの能力というものの違いがあることは世の常です。しかし、それも預けられた命です。預けられた命を生き、終わりというとき、すなわち「主の日」、イエス・キリストが支配される日が来るのです。

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「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」。救いの時なのです。私たちがイエス・キリストの救いによって、存在することを許されているという絶対信頼に立つことが大切なことであり、預けられた命の中で、預けられたタラントを十分にいかされていくのです。

癌を告知され、4人の子供を残して天に帰られた原崎百子さんの「わが涙よ わが歌となれ」という本の一節にこのような文章があります。

「それでもやはり私はりんごの樹を植える。昨日、『明日やろう』と決めたことー二郎に助動詞を復習してやること、忠雄に勉強の相手をすることーをやっぱりやりましょう」と癌を告知されたとき、彼女はルターの言葉「たとえ明日、この世界が終わりであっても今日、わたしはりんごの苗を植える」を語ります。終わりの日が近づこうとしているときも、希望を生きようとする。なお今を強く生きようと勇気を起こされていくのです。これが預けられた命を生き、預けられたタラントを生かしてくださる神を感じる者の生き方です。

「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きる」、主が共にいて支えてくださるという絶対信頼が一歩を踏み出す力を与えてくださいます。

早速、 25:16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 25:17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。

早速、出ていくいくという姿は、主人が自分の能力に自分に相応しい能力をくださったという絶対信頼があってであり、それは自己肯定へと導くのです。原崎百子さんが残された短い命を預けられた命と信頼し、預けられたタレントをたとえそこに癌からくる闇が自分を覆ていても、闇を生きつつも、なお昼の子、光の子として、闇にあって闇を打ち負かし、昨日決めたなすべきことを自分の命の終わりを告げられた時にも、なお、私を闇に打ち負かされるものでなく、昼の子、光の子として、なすことができるようにしてくださることを証されています。

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「救いの希望を兜としてかぶり」―私たちは、神に信頼をおいて、希望をもって、この世の厳しい現実をまえにしても、闇に打ち負けるのでなく「信仰と愛を胸当てとして着け」責任ある愛の業を可能とさせる力を与えられているのです。

25:19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。

主人が来る、「主の日は来る」、その時は、25:20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 25:22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』 25:23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』という主と一緒に喜ぶときです。

ですから、終わりは闇でなく、光ある希望に立ちえるのです。現在の危機的状況にあっても、なお大いなる希望をもって、私たちは今、置かれている状況と取り組むことができるのです。

命も、タラントともそれぞれ分け前、分が神から預けられています。預けられているからこそ、ここに主の配慮が一人一人にあるのです。この神の配慮に信頼して終わりまで命を、タラント使って主と共に生き、終わりの時、一緒に喜びましょう。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

「ガザ支援」のことが常議員会でも地区の牧師会でも課題になった。これから「連帯献金」を呼びかけるということだが遅いとリアクションが出てきた。教会の支援は国やNPO等のような迅速な支援は出来ないが、教会の支援は迅速でなく、継続性だと思っている。教会は阪神淡路大震災、東日本大震災でも国内という事もあり意外と迅速に支援したが、継続性がなかった。もし、継続的に支援を続けていたなら阪神淡路大震災の支援がいかされ東日本大震災の支援の形は変わっていたかもしれない。しかし、教会全体でなく、個の教会が、教会員が活動する方が継続するのかもしれないとも思う。

はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。マタイによる福音書25:40

 園長・瞑想?迷走記                                     

利用定員 88名中40名以上が預かり保育を利用している。私が着任した2009年は10名にも満たない利用であった。子どもたち、保護者の日々の交流を欠かさないために玄関に9時から立っていたが、今は7時30分の預かり保育が始まる時間から玄関の近くにいて交流している。朝礼時間を除いて7時30分から9時40分の間、玄関近くにいる。幼稚園の置かれている社会的状況は大きく変化している。

大変化の中で、どう幼児教育、保育の質を深めていくかということを幼稚園は問われている。大学で学んだからこれで良いということでなく先生方は常に幼児教育・保育の学びを続けなければいけない。たくさんの仕事をしながら学びを続けていくのは並大抵でない。園長は並大抵でないことを感じ、先生方、職員がどう学びが出来るかを考えていかなければいけない。これも園長の仕事だと思う。学ぶことに惜しまず応援する園こそ、この時代を生き残っていくことだろうと思っている。

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日毎の糧

聖書:【祈り。神の人モーセの詩。】主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。詩編90:1

ルターの言葉から

   モーセがこの詩篇に「祈り」という表題をつけたとき、彼がまた神に向かって祈り、罪の赦しと永遠の生命に対する希望と信頼によって祈っていることが分かる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

律法の声は「生のさ中にあってわたしたちは死のうちにある」と安心しきった者たちに不吉な歌をうたって戦慄させる。しかし、他方、福音の声は「死のさ中にあってわたしたちは生のうちにある」と歌って力づける。              『生と死の講話』M.ルター著、金子晴勇訳、知泉書館

振り下ろされたが生があった。

 コロナ禍の中で、死神が大きな鎌を身構えて、振り下ろしていた。知人が何人か天に返り、鎌が自分に振り下ろされるかもしれないと不安であった。死が身近にあった。ルターの言う、「律法の声は『生のさ中にあってわたしたちは死のうちにある』」という状況であった。

しかし、「主よ、あなたは、代々にわたしたちの宿るところ。」と詩人は信仰告白をする。死の中であっても、私たちが宿るところは神である。「神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。詩篇91:4」。これが神と共に生きる私たちの事実がある同時に神の事実がある。福音がここにある。

ルターは言う。「他方、福音の声は『死のさ中にあってわたしたちは生のうちにある』と歌って力ずける。

コロナ禍後、久しぶりに「こども祝福式」を幼稚園、教会学校、教会の合同礼拝で行えるまできた。

いつも死と向かい合っていたが、それは同時にキリストにあって生の内にあったゆえに失望することなく希望をもってここまで来られたのだと神に感謝している。生から死でなく、死から生という日々は、神の憐れみに捉えられて、結ばれていることを知らされた日々であった。

祈り:あなたのもとに宿り、あなたと共に歩めますように。

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大森通信

4.日々  

私が注意していることは歴史を継いでいくことだと思っている。

前任地でも大森以上に他の教会と違う式文をつかっていた。着任の時、礼拝の要である式文について確認を旨としていたので、「礼拝式文」の確認をした。信徒会を開いたが、改定するのかと誤解され顰蹙をいただいた。特に「フランシスコの平和の祈り」が他教会と違っていた。式文作成委員会を作り、教会の事情を考慮して、「フランシスコの平和の祈り」を入れたことを知った。また、全国宣教方策では教会間の協力をすることだが、大森は単独であるということにどうしてか分からなかったが、過去の総会資料からその経緯が分かった。こういう過程を大切にし、継続し、変革していくことだと私は思っている。

創立者エルソン牧師の墓前礼拝である。これは歴史を繋いでいくために大切にしてきた。今回は、甲府教会、創立の時からエルソン牧師と歩んだn兄が出席くださった。こういう出来事を通して福音が伝えられていくことを感じる。

写真による幼稚園60周年誌、教会70年周年記念誌と綴りながら、さらに今あるのは、過去の神さまのみ手の導きと恵みがあって、そして、恐れずに前へ進んでいく勇気をいただいた。

歴史を繋げていくことは福音をつなげていくことだと思っている。日々の重ねが聖霊に清められ、強められ、導かれてこれからの歴史を繋いでいってほしい。

大森日記)エルソン牧師の墓前礼拝を甲府信徒と共に出来る。感謝である。)コロナ禍後、初めての「こども祝福式」合同礼拝。幼稚園、教会学校、教会の親子が参加。明るくなる。女性会でクリスマスの準備について話っていただく。)zoomでの全国常議員会。PC前で9時から5時までは疲れる。)午後から2024年の幼稚園運営について羽村に。)パッチワークの会の方々の作品が展示されていたので見に行く。地区牧師会。)花壇を春花壇に準備。誕生日を迎えた二宮姉を訪問。夜は「聖書のまなび」。)今週も雨。花にとっては恵の雨。