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聖霊降臨後第23主日(全聖徒の日記念日)「主の御手にあり」

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。            マタイによる福音書5:3

【説教要旨】

11月1日は全聖徒の日と言われています。天に帰られた聖徒たちすなわち全キリスト者すべての記念日でした。しかし、カトリック教会は、一般信徒と特に功績があった聖人と区別し、11月1日は、聖なる人々の記念日とし、聖人でない一般信徒は2日というように区別するようになりました。しかし、私たち教会はこの区別をせずに、聖人も一般信徒も11月1日を全聖徒の日として記念し、一番近い日曜日の主日を全聖徒の記念日として守っています。

わたしの罪と功績の目録をすべて脇に置いて、ただ恩恵によって死ぬために『わたしの霊をみ手に委ねます』と述べた聖ステファノの死ほど高邁な死はない。」ルターの言葉です。

エジプトに「死者の書」というものがあります。王様が生前にいかに善政をしき、良いことをしたかということを記した書で、墓の中に納められます。天国、極楽に行くのには自分が生きている間にいかに良いことを積み重ねるかと言うことであると私たちは自然にそう考えがちであり、だからキリスト教の葬儀においても、やはり生前の功績を語られる時が多々あります。

ルターは「わたしの罪と功績の目録をすべて脇に置いて」というところで、私たちの人生をまず脇に置くことをすすめる。良いことをした、しなかったということからまず解放されて、罪においても、功績において存在する自分の人生を信仰において見直すと、「ただ恩恵によって」、自分の人生があるというのです。

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生きるのも死ぬにも「ただ恩恵によって」あるのだということを私たちに語ります。死をも恵みに委ねるとき、「『わたしの霊をみ手に委ねます』」という高貴な聖徒の姿を自分のものとできるというのです。死への受容が可能になるのだというのです。

「わたしたちは死ななければならない。・・・・なぜ死を恐れるのだろうかー神のみ名によって死のう、それによってわた したちは酷い目に遭うことはない

ルター以来の宗教改革の伝統です。ひたすら神に委ねる、神に依り頼む。

5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。

5:3 心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

新共同訳聖書が出版される前に、共同訳聖書が出版され、「ただ神により頼む人々は、幸いだ。天の国はその人たちのものだから。」と訳しています。「心の貧しい人々は」を「ただ神により頼む人々は、」と意味訳しているのです。ルターも聖書の意味を強く捉えていたのでしょう。

もう一つの言葉に私たちは聖書から聞いていきたいのです。「幸いである」という言葉です。

11月は墓前礼拝をします。1日は横山藤子姉とご主人、お子さん、お孫さんが眠っている青山墓地に行きます。藤子さんは100歳を越えています。藤子さんに洗礼を授けた横浜外人墓地に眠っているエルソン牧師は30歳で天に帰りました。それぞれのこの世の歩みは違います。またその長さも違います。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去った」(黙示録21章)とあるように天にのみ描かれる理想の世界だけをいっているのでしょうか。

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この世界は地上においても幸いであるのです。地上を苦しみつつも生きる私たちであっても、地上と天上は結ばれているのです。天においてのみの幸いであるのでなく地上においても幸いだと主は私たちに語りかけてくださいます。そして地上においても天上においても主は幸いを与えてくださいます。

ルターは娘マグダレーヌを幼くして亡くしました。その娘の臨終にあって「今や死の床にあって臨終の息を引き取ろうとするとき、父はベットの前にひざまずき、激しく泣き、神に御心

ならお救いくださいと祈った。」とあります。

この悲しみと苦しみと絶望の中でルターは、「愛する娘よ、お前はもう一人の父を天に持っている。お前は今、その父のみもとに行こうとしているのだ」というのです。

神を信頼していく心貧しい者は、最後まで神に祈り求め、そして生きるとき、死は「お前はもう一人の父を天に持っている。お前は今、その父のみもとに行こうとしているのだ」とい地上と天上を結ばれる出来事に出会う場所が死なのです。

今、ここに天に招かれた兄弟姉妹がいます。そして地上を生きる私たちがいます。私たちは確かに地上においては親子、兄弟、夫婦という関係が死とともに断ち切られました。しかし、「お前はもう一人の父を天に持っている。」、その方が幸いであると、死においても、地上においても語りかけ、与えてくださっています。

「主を求めよ、そして生きよ」という者へ与えられる幸いであるのです。私は救われている。そして幸いであるのです。という中に私たちはいるのです。

先に天に召された者も、私たちもキリストに結びつけられて幸いであるなかにいるのです。

今、ここに先に召された方々の写真があります。皆さんは生きています。そして幸せです。私たちも。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

イスラエルとパレスチナの紛争、ロシアのウクライナ侵略に対して国際社会、とくに国連は機能がうまく働かず、日々、手をこまねいて一人一人の人生の歩みが断たれていくことに痛むのは、誰でも感じているのではないかと思う。今回の攻撃で1万の人の人生が消された。今世紀に入り、天変地異、気候の大変化、戦争が続く。人の愛が冷えている。

不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。     マタイによる福音書24:12-14

だから諦めず福音を伝えなければいけない。

 

 園長・瞑想?迷走記                                     

コロナ感染が始まった頃に生まれた子どもたちの入園申し込みの最初の入園面接の年になった。また少子化は止まらずに2022年にはこども出生人数は80万人を割り77万人となり、1899年以降で最少となった。1人の女性が生涯に産む見込みの子どもの数を示す「合計特殊出生率」は1・26に落ち込んだ。さらに2024年から園児募集は厳しさを増すことが予想される。それは園の経営に直結する。

幸い今年も定員を割ることなく、済みそうだが、しかし、私たち教会が目指すのは経営ではない。何よりもアウネ宣教師から始まった幼児教育を通して、大森地区で仕えていく宣教でなければならない。アウネ先生が地域から要望されて「おさなご園」を創立したようにその精神を引き継ぎ、地域に要望されていくビジョンと幼児教育の質を高めていくことである。それが教会立の幼稚園を安定化させることになると思う。

質を高めるとは、「神は愛なり」ということを子どもたちに五感で感じもらうことだと思う。定員を割ることなく園長の任を終えることを神に感謝している。

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日毎の糧

聖書:鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。    詩編42:1

ルターの言葉から

  我「水の湧き出る泉を鹿が求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求めます。昼も夜もわたしのパンは涙でした」(詩篇42:2,4)  また「わたしの魂はあなたの渇きを求めました。・・・・荒野で、道のない地で。こうしてわたしは聖所であなたに仕えました」(詩篇63:2-3)。このように語る者と共に、神の憐れみきわめて激しく飢えかわくのでなければ、誰も神の憐れみへ到達しないであろうことは確かである。          『第2回詩篇講義』 ルター、竹原創一訳 リトン

 

宗教改革の時ですか

変化の激しい時代、社会で、人工知能等の先端技術が高度化してあらゆる作業や社会生活に取り入れた時代が到来しつつあり、社会の在り方そのものがこれまでとは〈非連続〉といえるほど劇的に変わる状況が生まれつつあります。それは、私たちの教会であっても劇的に変わる状況で、苦しんでいます。私たちは変わらなければいけません。この状況にあって、昼も夜もわたしのパンは涙でしたというほどの日々があります。この時ほど、水の湧き出る泉を鹿が求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求めまる時です。

神の憐れみきわめて激しく飢えかわくのでなければ、誰も神の憐れみへ到達しないであろうことは確かである。」とルターが言うことが確かであると気づかされる恵みの時でもあるということを疑ってはいけません。〈非連続〉といいますが、〈連続〉しているものがあります。神の慈しみです。旧約聖書の大切な言葉です。神の普遍の真実の愛を示します。葛藤しながら苦しみつつ、自分自身の魂との対話において、神の慈しみは、神を慕い求める信仰へと導いていきます。これが変わらず〈連続〉しています。勇気をもって一歩を。

祈り:私たちが葛藤しながら苦しみつつ、自分自身の魂と対話しつつ神の慈しみを慕う者としてください。

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大森通信

2.日々  

10月後半の教区小平墓地の墓前礼拝から始まり、11月終わりまでは墓前礼拝が続く。地上を生きた信徒、今、天に帰られた方々を結ぶ祈りの時として、就任以来15年間、出来るだけ信徒さんの眠る墓地を訪ねていくように続けてきた。

今週は、y家の青山墓地、n姉のご家族の碑文谷カトリック教会のクリプト、t姉の眠る教区横浜墓地と行き讃美、祈る。碑文谷のクリプトには、昨年、天に帰られたt姉が来て下さっていたことを思い出す。もうおられないと思うと寂しくなる。午後からt姉の眠るすずかけ台の教区横浜墓地にいく。祈りつつ、感謝の祈りをささげる。私たちの教会の創立者、エルソン牧師の横浜・外人墓地で墓前礼拝で最終である。初めころには、n姉も、t姉も出席くださった。墓前礼拝をしながら、「すべてに時がある」ということを痛感している。

教区小平墓地には、大森教会の方々、多く眠っている。墓前礼拝には、草津からいつもf牧師夫人が来られる。年に2回、f夫人とお会いできることは楽しみである。後、数人の方がおられるので出来るだけ行きたいと思っている。牧師は生きている方とも祈るが、天に帰られた方と共に祈る。墓前礼拝を大切にしてきたい。

大森日記)明日の宗教改革記念日礼拝、信徒会、コンサートの準備。)本日は神学校より宮本新牧師を迎え、神学校日。次期牧師を迎えるための信徒会。牧師館、幼稚園と課題はあるが乗り越えていける。コンサート、リードオルガンの優しい音色に園児がお父さんの胸の中で寝る。)羽村幼稚園の事務の打ち合わせ。)教区主催の宗教改革記念日礼拝。人数は少ないがコロナ後の嬉しい礼拝。)青山墓地に行き、入園面接。厳しい時代に集まる。)明日は幼稚園が休みで、礼拝、ヌーンサービス、役員会と続く。夜は「聖書のまなび」。)墓前礼拝。