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聖霊降臨後第22主日(全聖徒の日記念・11月6日)「主の御手にあり」

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。

今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。

今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。           ルカによる福音書6: 20-21 

【説教要旨】

教会は殉教した人を記念として全聖徒の日を守っていましたが、後にキリストに繋がって、天に召された人を偲んで礼拝を守るようになりました。11月1日を全聖徒の日、その日に近い11月の主日を全聖徒主日として守っています。この季節には、小平霊園から始めて、エルソン牧師のお墓のある横浜外人墓地まで、私の就任時に天に帰られた方々の墓前で出来るだけ、祈りをささげています。11月3日の祝日に中田直美姉の眠る多くの方々が納骨堂に参り、ミサにあずかろうとして集まっている碑文谷のカトリック教会の納骨堂に行きました。初めて全聖徒の日を経験したブラジルでの光景を彷彿とさせるもので、静かな安らぎを感じました。

この歳になるといつも死を意識して生きるようになり、葬儀の讃美歌を口ずさみます。私は、教団讃美歌で信仰生活の大半を過ごしました。私が牧師になって、初めて、葬儀に出席して、こんな綺麗な讃美歌があるのだと感動した讃美歌が教団488「はるかに仰ぎ見る」、教団489「きよき岸辺」です。

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はるかにあおぎ見る かがやきの御国に 父のそなえましし 楽しき住処あり 我らついに 輝く御国にて        聖き民と ともにみまえにあわん    教団讃美歌488

友もううからも 我を待つらん やがて会いなん          愛でにしものと やがて会いなん   教団讃美歌499

私はこの讃美歌を聞くと天国を見るようで、そして、今、「聖き民と ともにみまえにあわん」、「友もううからも 我を待つらん やがて会いなん 愛でにしものと やがて会いなん」という気持ちを受け入れられます。生きている人よりも天に先に帰った方々に「会いなん」が今の強い気持ちです。

今日の聖書箇所は、ルカによる福音書は「幸いなるかな、貧しい人」と伝えていますが、マタイによる福音書は「幸いなるかな、心の貧しい人」となっています。貧しさをいやというほど体験した私には貧しいことがどうしても幸いだと言えません。

「幸いなるかな、悲しんでいる人」とも決して言えません。貧しくあるよりも金がある方が良いですし、悲しむよりも喜びの方がどんなに良いでしょうか。金があり、喜んで笑っている方が、私たちは幸せだと思います。では、イエスさまはなぜ、このように私たちが願うものとは違う幸せを語ったのでしょうか。

ネメシェギ司祭はここの箇所で、「幸いである、悲しむ人々は。/その人たちは慰められる。」という後半の部分に注目して次のように指摘しています。「各文の動詞が、ただ受身形で『慰められる』などのようになっています。イエスは、ここで『神』という言葉をはっきりと使うよりも、受身の動詞で神の働きを表した当時のユダヤ人の習慣に従って、語っておられます。イエスのこの言葉を聞いた当時の人々には、このような動詞が神の働きを表していることがすぐに分かりました。・・・つまり、イエスがあの八種類の人々を幸いと呼んでいるのは、彼らが神と直接的に一致させられるからです。・・・・そこに神ご自身が入り、人をご自分と結びつけてくださるのです」

 

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今日の福音書の個所は、イエスさまの平地の説教と言われています。神は、イエス・キリストは、天からこの平地まで下って、私たち一人一人の歩みにじかに入ってこようという神の強い意志があります。イエス・キリストが弟子の中に入られ、弟子と結ばれたように、私たちの内にイエス・キリストが入られ、結ばれ私たちの人生の歩みは幸いとなり、幸いなのです。

私たちにとって不幸だと思われること、この時間、空間に「神ご自身が入り、人をご自分と結びつけてくださるのです」ゆえに、貧しさも、悲しさも幸いだと語るイエスさまの言葉に私たち信仰者はうなずけるのです。さらに私たちは心から貧しさも、悲しみも、神の働らかれる時、場所、恵みと受け入れていくのです。天に帰られた方々を振り返って見る時、それぞれの歩みがありました。私たちは、貧しさに、悲しみに打ちのめされる存在かもしれませんが、しかし、神ご自身が私たちの内に入り、私たちをご自分と結びつけてくださるのです。これを信仰において、受け留めて、天に帰られた一人一人も生き、私たちも生きているゆえに私たちキリスト者は、聖徒となり、聖徒であります。たとえ短い、小さな命を生きたものであっても、その命を長く生きた者であっても、神ご自身が入り、人をご自分と結びつけてくださった神と共に生涯を生きた聖徒であります。おびただしい証人、聖徒とともに、今、私たちは、ここで礼拝を守り、またこれからの未来も守っていくのです。

キリスト教会成立から今まで、天に帰られたおびただしい主の証人とともに、「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」という幸いと他の七つの幸いをいただく者として私たちもここにいるのです。

私たちは天に帰られた一人ひとりを偲びつつ、一人ひとりに働かれた神の恵みに結び合わされた業を数え、私たちも天に帰る日を待ち望み、主の幸いのうちを歩む者であるという信仰を与えられ、感謝しつつ、最後の日まで、預言者イザヤの言葉を私たちの言葉として歩みを強めていきましょう。

 

どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。イザヤ26:4

 

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牧師室の小窓からのぞいてみると

 人間はなんと愚かしいことであろう。北朝鮮がまた朝、夜と弾道ミサイルを日本海にむけて打ち込んできた。確かに武器は抑止力になるだろうが、武器だけでは、決して自国を守り切れないと歴史は教えている。なによりも人間に与えられた知恵を尽くすことこそが自国を守り抜けると思う。

もっと、「平和を作り出す人は幸いである」という主イエスのみ言葉に知恵を使う為政者であって欲しいと強く願う世界がある。平和作りにもっと、汗をかく教会でありたい。

 

園長・瞑想?迷走記

先週は、新型コロナウィルス感染が始まったときに生まれ

た子どもたちの入園願書受付があった。新型コロナウィルス感染が少子化を加速した中で、定員割れは覚悟をしていた。蓋を開けてみれば、定員割れは最低限に抑えることが出来た。これまで、色々と対応をしてきたからであろうが、何よりも幼稚園の教育・保育の内容に共感くださり、入園願書を提出してくださったことである。地味地に毎年、毎年、教育・保育方針、内容を問い直してきた結果であると思う。

2022年度は出生者が80万人を切って70万人なろうとする数年後超少子化を迎え、厳しい入園願書の提出率になることは容易に予想される。だからこそ、目先のことに捕らわれずに、自園の教育・保育内容の問い直し、実践し、保育の質を深めていくことだと思っている。

昨年は途中入園希望者の障がいのあるお子さんを受け入れることが出来ず泣いた。今年は出来るだけ障がいのある子どもを受け入れられるかということを真剣に考えた。お子さんにどれだけ教育・保育を提供できるか厳しく問いつつ受け入れることが出来た。これからは、私たちが経験したこともない子どもたちへの課題を勉強し、実践していかなければならない。

教育の質の向上という。では、その質とは何かということを問い続ける一歩が始まった。しかし、楽しい一歩であると思う。

今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになると涙の一歩であると同時にイエスさまの幸いをいだたく時である。

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日毎の糧

聖書: 主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。 幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。                                                                           詩編8:2-3

 

ルターの言葉から

 なぜキリストはこのような国をつくられましたか。なぜ敵に抵抗し、敵の力を打ち破るために、天上の君や霊、ガブリエル、ミカエルなどの天使を送られないのですか。敵と恨みを晴らす者とは、強く力をもった霊です。この世の神であり、君であり、強い永遠の王国を支配しています。そこにはたくさんの霊が仕えており、それぞれが地上の全人類よりも強いのです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私たちの主なる神は天使たちの力をさしおいて、地上の最も無学で、愚かな、弱い人々を取り、悪魔と世の知恵と力とに対抗させられます。これが神のみわざです。 (『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社)

小さな口

 ウクライナに起きているロシアの侵略などの恐ろしく、悲しく、やり場のないニュースなどを聞いていると心が深く痛みます。また、私たちがこの悲劇を止めることは出来ない無力さをひしひしと感じます。しかし、無力であるゆえに私たちは神の使者となるのです。幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。

「幼子、乳飲み子の口によって。」という最も小さな者の口を用いてくださり、神の敵を破るといわれています。だから、自分の小さな力の無力さを嘆いてはいけません。たとえ小さな弱い口であっても、私たちはあきらめず、平和を作り出すことを声に出していくことこそ、今は大切なことではないでしょうか。地上の最も無学で、愚かな、弱い人々を取り、悪魔と世の知恵と力とに対抗させられます。これが神のみわざです。

祈り:小さな弱い口を用いて平和の使者としてください。

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大森通信

「引退の準備」

 引退まであと15ヶ月となった。一瞬にその日がやってくるだろう。1978年に牧師となる按手を受けた。それから44年間、多くの方を天に送る葬儀をした。

初任地の別府での最初の葬儀は、教会創立期の方で、親戚が教会に多くおられた。地方の名士であって、大きな家の信徒さんの葬儀にはいろいろなことが絡まり、新任の牧師では答えがなかなか出せなくて苦労をしたことを覚えている。棺桶のこと、霊柩車のこと等、牧師にとってどうでも良いことでも遺族にとって大切なことである。幸い一族に尊敬されていた方の一言で次々と決まっていった。

葬儀は単に亡くなった方を葬儀するのでなく、色々なことが絡まり、一つ一つのことを丁寧に遺族の方のことを深く考えて配慮をすることが大切だと教えられた。

次の週、石油コンロが一つ、がらんとしていた生活感のない家で母親が不在の時、事故でなくなった子どもの葬儀を頼まれて行った。生活保護支給内での葬儀だったので、花も十分になかった。教会の庭に白いマーガレットの花がいっぱいに咲いていて、教会の人みんなで切って、白いマーガレットの花でいっぱいに飾った。そのときマーガレットの花がすばらしく綺麗だったとことを覚え、それから花造りの園芸に愛しむようになった。しかし、二度とあの時のような美しいマーガレットの白い花を咲かせたことはない。薄倖の子どもへの神さまの贈り物だったと今も思っている。あの子は天国に天使に導かれたと確信している。

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(大森日記))ホームページを更新し主日の準備は終了。一日最高の80件がホームページにアクセス。)宗教改革記念日、教会創立記念日。ルターの紋章、紅白の饅頭をもって祝う。信徒会、出席者が少なく残念である。)早朝、墓参り。宗教改革記念日の礼拝。)入園願書面談の日。少子化での厳しい中を最小限の定員割れで済む。)羽村幼稚園の次年度の予算を立てる。大森幼稚園も次年度の準備をしなくてはいけない。)朝、墓参りをY兄と行く。大切にしていきたい。)幼稚園の感謝祭の礼拝。久しぶりに子どもたちみんなで豚汁作り。