聖霊降臨後第21主日(10月22日)「同時に」
わたしが主、ほかにはいない。イザヤ書45:5
あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。 1 テサロニケ 1:3
彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 マタイによる福音書22:21
【説教要旨】
10月は、私たちの教会誕生の宗教改革を記念する月です。ルターの神学で「二王国論」というものがあります。「すべての人間を二つの部分に分かたねばならない。第一は神の国に属する者、第二はこの世に属する者である。・・・・それゆえ神は二つの統治を定めたもうた。キリストのもとで聖霊によってキリスト者、すなわち信仰深い人々を作る霊的統治と、キリスト者でない者や悪人を抑制して、欲しようが欲しまいが、外的に平和を保ち、平穏であるようにするこの世の統治である。」
本日の日課で、イザヤが繰り返して語る言葉、「わたしが主、ほかにはいない。」というように、神こそ世界を統治するということです。その統治の仕方が、霊的統治とこの世の統治であるというのです。これを二王国論、あるいは二統治論と呼ばれているものです。
劇的に大変化する世界に私たちは生きています。正直、私たちはこの世界をどう受け止めて良いのか困惑して、人として、キリスト者として非常に生き辛さを感じてはいませんか。
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二王国論、あるいは二統治論ということに色々と議論がありますが、これを宗教改革のもう一つのキーワード、「同時に」ということで表現してみます。世を統治す同時に霊による統治ということです。
つまり、神の国に属する者であると同時にこの世に属する者、この世に属する者である同時に神の国に属する者であるということです。
彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」というみ言葉は同時にということを表現しているのではないでしょうか。
来年3月31日の復活日に私は、45年の牧師生活を引退をいたします。私は牧師としては毛色の違う歩みをしてきました。これまで常に教会の管財財務に携わってきました。友人の牧師から、「牧師のすることじゃないでしょう」とか、「竹田先生はお金のことはよく知っていますが、私は聖書のことしか知りません」と揶揄されることしばしばです。
お金を扱う管財はまさに世を代表する世に属する場所でした。ブラジルに精神薄弱児施設、「希望の家」があります。1970年代の建築計画に大いに貢献された弓場繁司祭から話を聞きました。「家は小さく、庭はまだ泥そのままであった。そこに、42人の精神薄弱児と共に市川幸子先生が働いていた。これをどうにかしなくてはいけない。そこで、日本に行き、どうすればよいか皆目も見当がつかなかった」。施設の定款、会計報告、建築計画をもって、聖霊福祉事業団の長谷川保先生を訪問します。「長谷川先生は、しばらくページをくり、紙を広げて、じっと見つめて居られたが、突然、大きな体をどっと立て、『弓場先生、これは神様へのお仕事です。1億円集めます』と、大声で断言された。」と。
どんなに大切な仕事であっても、現実に「皇帝のものである」1億円が集まらなければ、前に進めない危機に陥ります。しかし、危機にあって、世界を動かす政治的、経済的力を超える力があります。「わたしが主、ほかにはいない」と。神を知ること、神の権威です。それゆえに建築計画にとって立ちも倒れもする1億円という大きな壁、危機にあっても、「これは神様へのお仕事です。」へと向かわせる心が神によって始められ、奇蹟が起こるのです。「神様へのお仕事」といえど、世に属する以上、大胆に、決断的に、賢く行動して、新しく活路を切り開かなくてはどうにもなりません。賢くあることが、求められます。同時神の国に属する者であって、わたしが主、ほかにはいないという権威が貫かれています。では神の権威とは。
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長谷川保先生が、「これは神様へのお仕事です。」と言う時、地球の反対側の自分と関係もゆかりもない、家は小さく、庭はまだ泥そのままのそこに、開拓の苦労の中で生まれた42人の精神薄弱児と共に市川幸子先生が献身的毎日を送っていることを想像し、悲しみ、友になろうという感性こそが、神に属する者の姿であり、その姿こそ神の権威を証ししているのです。
あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。1テサロニケ 1:3とパウロが言うように、信仰によって働き、愛のために労苦すること隣人を愛する者、慈悲深い者であるということが神の権威、わたしが主、ほかにはいないということです。
現代社会は、時々刻々と大変化していく世界であって、富は神のようになり、人間は富に使われています。だからこそ、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」というイエスさまのみ言葉は、重要になってきます。私たちは世に属すと同時に神の国に属するものとして、富に支配されるのでなく、信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐し人に慈悲深くあること、信仰によって働きこそが神の国に属すると同時に世に属するのです。
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牧師室の小窓からのぞいてみると
ハマスとイスラエルの激突はおさまらずガザにある病院が爆発されて471人の人が死亡したという報道があった。
イスラエルに米国を中心とした西欧諸国の支持、ハマスに中東諸国と中ロという支持と世界がまた二つに割れてしまった。特に気になるのは米国では大統領選挙を控えて、福音派というイスラエルを支持する教会の存在を無視できなくなったからだと言われている。そもそも福音とはなんなのか、聖書に福音を宣べ伝えようというときの福音とは、「平和を作りだす人は幸いである。彼らは神の子と呼ばれるだろう。」という言うように平和を作りだすことではないだろうか。ここに、ユダヤ人もアラブ人もない、みなが平和に暮らせることに汗をすることこそ、福音を宣べ伝えることだと思う。米国にいる福音派という人たちこそイエス・キリストの福音から遠い存在ではないかと私は思う。471人の命と日々のガザの人びとの生活の困難さを思う時、ここにこそ・十字架におかかりになられたイエス・キリストがおられると思う。
園長・瞑想?迷走記
私たち日本の教会は、幼児教育・保育を明治以来担い、パイオニアであった。しかし、今、幼児教育・保育は教会だけがになっているのでなく、公も、他の私の団体も担ってきている。そこで、教会が当たり前のように担っていると思っているキリスト教幼児教育・保育ということを時代の大きな変化の中で、根本的に問い直す時がきていると思う。
2010年にキリスト教保育連盟が出した「新キリスト教保育指針」は、一つの方向を出しているが、10年を過ぎているのにもかかわらず改定されていないが、ここの幼稚園、保育園、大学で真摯に取り組んでいる。私たちの園でも毎年3月に見直している。引退にあたり再度、根本的に見直したいと思っている。
それが最後の牧師・園長としての仕事としたい。
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日毎の糧
聖書:新しい歌を主に向かって歌え。 詩編96:1
ルターの言葉から
これは、新しい国、新しい被造物、新しい人についての新しい歌です。それは律法とわざから生まれるのでなく、神と御霊から生まれるものです。神と御霊は私たちの主イエス・キリストにあって奇蹟を行われますが、神と御霊ご自身が奇蹟そのものなのです。 旧約聖書のことば W.A.48.56
奇蹟
高校生のとき、難病のネフローゼ腎炎を患い入退院を繰り返し、ベッドの上で身体のだるさ、重さに苦しんでいました。たまたま病院の建て替えで病室には重病の患者さんもいました。老衰のお祖父さんが段々と弱っていき、夜になると月の光に照らされ、いびきを大きくかいている寝姿を見ながら、終には臨終の場にいました。「自分も」と思うことがありました。そんなとき、病室の窓から関門海峡が朝の光を受け、
海が黒から青に変わり、その上を行き交う船は静から動へと変わる新しい朝の風景を見ながら生きていたと思いました。一日一日の朝は、いつも新しい命の始まりであったことを記憶しています。生きているだけでも奇蹟だったのです。信仰を与えられて今、思うのは「新しい歌を主に向かって歌え。」 という神の言葉が聞こえてきます。生かされていると深く感じたあのときは、神と御霊が働かれた時だったし、ここに神と御霊ご自身がおられた奇蹟の新しい朝だったと思います。
神は新しい歌を主に向かって歌えと私たちに命じます。それは神と御霊ご自身が私たちとともにおられ、奇蹟の命の中にたとえどんな運命にあろうと新しい歌を主に向かって歌わざる得ない恵みを与えられる奇蹟の発露です。「善き力に囲まれて」という讃美歌があります。良き力に不思議に守られて、 何が来ようとも、私たちは、心安らかにそれを待ちます。 朝に夕に、神は、私たちの傍らにいてくださいます。そして新しいどの日にも、まったくかわることなしに。(ボンフェッファー、宮田光雄訳 新教出版)
祈り:神と聖霊が傍らにいて新しい日を与えてくださっていることに感謝して歩みだす者としてください。
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大森通信
「引退の準備」 9.整理
私に洗礼、神学校の推薦してくださったU牧師は、園長牧師でしたから、牧師が園長になるのは私には不思議でもありませんでした。また、U牧師は当時、精神薄弱児の子どもたちの福祉が十分でなかったので、この子どもたちが活き活きと生活が出来る場を作りたいと奔走していたのを傍で見ていました。「神さまのみ心なら、必ず出来ます」といって全力投球をしていました。「牧師のすることじゃない」と陰口もたたかれていたことも知っていました。牧師が福祉事業をすることも、牧会をしていたら、自分の幼稚園、教会で行き場所がない子どもが来れば当然、どうにかしなくてはいけないと思うのではないでしょうか。出来たら出来たで幼稚園、施設、教会の運営に苦労をされていたことを身近にみていました。神経をすり減り、薬で調整していたのでしょうか。責任ある集会で寝てしまわれ、牧師になってその集会の委員の一人だった私が代わりに最後まで担当したことを覚えています。59歳で天に帰りました。 いつも「神さまのみ心なら、必ず出来ます」という声を聞きつつ私は、70歳になりました。そして、今、支えてくださったU牧師の言葉を改めて思い起こし心を向け、感謝の思いを育てていく終わりへの準備をしています。 |
(大森日記)土)週報に手紙を添えて発送の準備。午後信徒さんを訪問。主日の準備。日)雨が激しく降り、教会学校も、礼拝も出席人数が少ない。すべてに時あり。教区墓前礼拝の時には雨も止む。夕礼拝に間に合うように帰宅。月)いつもの幼稚園の仕事をし、疲れが取れずに、午後から休む。火)疲れが取れずにいるが、週報などを発送。コンサートの案内状の準備。水)午前中保育で、午後から「教会手帳」購入で、教文館まで行く。もうクリスマスの書籍でいっぱいである。世間は早い。木)買い求めていた春の花ビオラ、秋の花キクの苗を信徒さんと植え、庭の手入れ。パッチワークの会も信徒さんが協力奉仕をいただく感謝。金)快晴、今日は私の最後の芋ほり遠足に快適である。見ているだけにしようと思っていたがつい見かねて手伝ってしまう。