1. HOME
  2. 風のように
  3. 聖霊降臨後第21主日・宗教改革記念日 「真理―神の愛は自由にする」

聖霊降臨後第21主日・宗教改革記念日 「真理―神の愛は自由にする」

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」              ヨハネ8:31-32 

【説教要旨】「真理―神の愛は自由にする

宗教改革記念日、そして、私たち大森ルーテル教会の誕生の日です。宗教改革について学びつつ、「今こそ」という神の問いかけに聞いていきましょう。

ルターがウィッテンベルク城教会で95ヶ条の提題を張り、贖宥券について問うたことから始まりました。しかし、はっきりとルターが座標軸を決めたのは1521年4月18日のウォルムス帝国議会の二日目のあの有名な言葉からすべてが始まったのではないでしょうか。

「われここに立つ、他はなしあたわず。神よ、助けたまえ。アーメン」

このルターの言葉に対して時の神聖ローマ帝国皇帝カール五世は、秘書官の手をわずらわせず、異例の自らの言葉で「私は、もうこれ以上彼に関わりたくない。彼は通行保証を受けて帰るがよい。だが、説教したり、いかなる騒ぎをおこしたりしてもならない。私は、彼を隠れもない異端者として訴え、諸君が私に約束したとおりに自己の意見を公にすることを、諸君に求める」と結ぶのです。5月8日ルターに「帝国追放」の処罰がくだされるのです。

-1-

宗教改革記念日になぜヨハネ8章のこの言葉が読まれるのでしょうか。私たちの教会が、ここに集う私たちが、どこの座標軸に立つかということを問いなおすためです。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」「わたしの言葉にとどまる」ということです。私という力、ましてや皇帝の権力でもないということです。人間の絶対的なもろもろの力のうちに私たちがとどまるのではないのです。ルターは「私は私の引用した聖書のみ言葉によって支配されています。私の良心が神の言葉によって捉えられているかぎり」と言います。「神の言葉によって捉えられている」、まさに「わたしの言葉にとどまる」ことであり、「本当にわたしの弟子である。」という恵みが私たちに与えられるのです。ルターが私たちに与えてくれたのは、キリスト者が「本当にイエスの弟子となる」という人生の方向性ではないでしょうか。そしてこの座標軸の原点、「われここに立つ」のこことは、帝国議会の床ではなく、「わたしの(イエスの、神の)言葉」の上に立つということです。

「あなたたちは真理を知り」。何を知るか。「真理」です。「真理」とは『アーメン』という言葉で、ダイヤモンドのように固い確固たるものであるということです。神の真理、ヨハネが示す真理とは、愛、神の恵みである。真実に今、教会が、私たちが、立つのは神の真理、神の愛、恵みに立つのです。

パウロの言葉に「恐れおののきつつ」とあります。「神に対する『恐れおののきつつ』は、神に対して自分を主張することの不可能なことを知る人間の姿勢である。・・・・救いは神の恵みによって可能になる。人間は自分の力で救いを確保することはできない。この事実の前に服すること、それがここでいう『恐れおののきつつ』である。」と佐竹先生は解釈しています。人は神の真理を前にして自分にある力、能力・・・特別なものを捨てること、神に愛されている固いここに立つことこそ、すべての力、恐れから解放され、自由にされていくのです。

-2-

ルターも自分の力で自分が義しいものとなるのでなく、自分を神の前に捨てて、神の恵みによって信仰を通して自分が義しい者とされる」ことによって自由にされるのだということをいうのです。ルターがいうように「神の乞食」、神の前において、力なき存在として神の恵みをいただき生きるとき私たちは真実を生きられるということです。ここに私たちの生き方があるということです。フィリピの信徒への手紙で「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。4:13」です。「わたしを強めてくださる方のお陰で、」というように罪人であるのにもかかわらず他ならない私をキリストの十字架によって赦してくださった神の義によって、お陰で、有り難い恵みによって、私たちは「わたしにはすべてが可能です」となるというのです。この福音の信仰において自己自身から解放され、真の自由をもつのです。ルターが時の大きな権力に抗しても、たとえ一人になっても、「われここに立つ、他はなしあたわず。神よ、助けたまえ。アーメン」と祈り、すべてにおいて、可能とされ、自由になったように。

激動し、大変化し、不確実な時代にあって、本当に個々人が生き辛い世が私たちの前にあります。だから、もう一度、宗教改革において示された福音の信仰に私たちの心をむけたいのです。私たちの生きる方向を人の力でなく、神の力、神の義、神の恵み、神の愛に、神の真理に自分自身を強く向けること、ここに「我ここ立つ」と宣言したルターが示したように真理の前に立ちたいのです。ここに、私たちの自由があるのです。神の真実、キリストの愛、恵みを信じる私たちはたとえ厳しい時の変化の中を生きようと自分も、他人も大切にする、愛する人にされています。私たちの教会創立71年目に入りました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」というみ言葉に生き、全身全霊をもって、「今こそ」というこのときを隣人に仕える弟子とされている道を共に71年目の道を生きていきましょう。

-3-

牧師室の小窓からのぞいてみると

  「オスマンvsヨーロッパ〈トルコの脅威と〉とは何だったのか  新井政美 講談社学術文庫」を読み、今のロシアのウクライナ侵攻は、ロシアvs西ヨーロッパ〈ロシアの脅威〉ということの歴史の塗り替えだと分かった。

教皇はトルコの力をかりて、教皇領を守り、時には十字軍を使い、トルコと対立する。昨日の敵は今日の味方である。ヨーロッパの国もトルコの国力を利用し、自国利権を守るためにトルコと結びつく。征服と虐殺・略奪を繰り返していた。トルコだけでなく、西方キリスト教国家も。バルカン半島の正教徒は、十字軍をはじめとする西方の諸国に虐殺・略奪を受け、支配された。だから、トルコの支配を望んだという。単に力をトルコが持っていたからバルカンを支配できたのではない。

征服と略奪、支配者による国境の変更、国家の消滅が繰り返される歴史が常にあったのがヨーロッパの歴史である。ロシアはヨーロッパにいつものようなかけひきしているにすぎないと思った。今回は、ヨーロッパの内の「ロシアvs西側ヨーロッパ〈ロシアの脅威と〉」だと感じた。しかし、人とはなんとこの愚かしく、おぞましい歴史から学び、「平和を作り出す人は神の子である」というイエスの言葉に耳を傾けないのだろう。

園長・瞑想?迷走記

 全国幼稚園園長・設置者研修会に参加した。若い園長が臆することなく質問されているのを見て、みずみずしさを感じた。その園長から、「竹田先生」と呼び止められる。私が関わっていた5幼稚園、その後出来た保育園7施設を持つ園の三代目である。

創立者の祖母がルーテル教会会員で、高校生のとき、教会に来ていた。「洗礼を受けようと思っていたら、いつの間にかいなくなっていた」と言われ、申し訳なくなった。玉川学園で教育保育を学び、玉川聖学院の卒園生と結婚したという。神さまの導きを感じた嬉しい一瞬だった。

-4-

日毎の糧

聖書:主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。      詩編4:4

 

ルターの言葉から 

 神は聖徒らのうちに奇蹟を起こし、人の理性や知識を超えて、不思議な導きをなさいます。それゆえ、神を畏れるキリスト者は、見えないものにすがることを学び、死に渡されることにより、生命へと連れ戻されます。信仰のあらゆる例が示すように、神のことばはやみのうちに照り輝く光です。                                『卓上語録』

 

慈しみを生きる

 詩篇を読んでいると「慈しみとまこと」、「慈しみとめぐみ」という言葉が出てきます。キーワードは、「慈しみ」、神の慈しみです。神の慈しみが私たちに降り注いでいるということです。「主の慈しみに生きる人を主は見分けて」とある言葉は、人が主の慈しみを降り注がれているかどうかということを判断するのでなく、主の慈しみを生きるのは神が与えてくださっていることを示しているのです。私たちは神が慈しみを与えてくださっていることを信じればよいのです。「神は聖徒らのうちに奇蹟を起こし、人の理性や知識を超えて、不思議な導きをなさいます。」という事実のみが私たちの人生に起きているのです。

神の慈しみによって、私たちは、私たちが生きることを肯定されているのです。確かに生きるに多くの困難さが私たちの前にありますが、それ以上に神の慈しみは私たちに注いでいます。

神の慈しみを生きる人は、人を愛することが出来るようになります。人を愛するがゆえに幾多の困難な壁が私たちの前にありますが、私たちは知っています。「呼び求める声を聞いてくださると知れ。」と神が私たちに約束されていることを。

祈り:神の慈しみに生かされながら、人を愛することが出来るものとされていることを感謝して日々、あゆめますように。。

-5-

大森通信

「大森ルーテル教会70年史」32

「つながる」

 

今日で70年から71年目に入った。 そんなとき「大江教会100年のあゆみ」が送られてきた。九州学院神学校教会からはじまった教会の100年はルーテル教会の歩みそのものである。

そこに次への宣教目標が書かれていた。

「大目標『今こそ、つながる』」。熊本地震、水害の被災などの自然災害、そして新型コロナウィルス感染、今の世界状況を通してどう「今」を宣教していくかを問い、三つの「つながり」を目標としている。「神につながる」、「あなたにつながる」、「地域につながる」

『今こそ、つながる』という目標は、どの教会でも大切なことではないだろうか。

ルターの「キリスト者の自由」の中で有名な言葉。

キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも服さない。」は、「神につながる」ということである。

キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する」、「あなたにつながる」、「地域につながる」ことである。

宗教改革の伝統を引き継ぎ、「今こそ」という中で、どう展開していくかということだと思う。

私たちアメリカフィンランド・ルーテル教会の伝統を引き継ぎつつ、牧師交代が2024年と近づいたこのとき、「今こそ」どう宣教をするか具体的に共に共有していける71年目にしたい。さあ、新しい出発だ。

(大森日記))旧神学校の建築について調べる。明治、大正、昭和の棟梁の業の凄さを感じる。)11月の全聖徒の日、出来るだけ墓前礼拝を続けたい。多くの信徒が眠る小平霊園に祈りをささげる。)次世代へ向けての全国園長会研修会。中身の濃いいものである。)研修二日目。)福岡の我が家の墓参り。)夜は引き続き聖研で信徒さんのブックレポートいただく。中身は濃いい。)幼稚園の芋ほり遠足。行き帰りの時間がかかる。疲れていたが、一之輔さんの落語独演会へ。落語に対する情熱、本気度、その芸の業に宣教ということを考えさせられる。