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聖霊降臨後第20主日 (2022年10月23日)「高ぶることなく、低く生きる」

 国々の空しい神々の中に/雨を降らしうるものがあるでしょうか。天が雨を与えるでしょうか。我々の神、主よ。それをなしうるのはあなただけではありませんか。我々はあなたを待ち望みます。あなたこそ、すべてを成し遂げる方です。            エレミヤ14:22

言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。        ルカによる福音書18:14

【説教要旨】「高ぶることなく、低く生きる」

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。         フィリピ信徒への手紙2:6―8

これは、有名なキリスト讃歌です。私たちが信じるイエス・キリストはどんな方であるかということです。

イエス・キリストは、神的存在として留まることはが可能であっても、神に等しくあることを放棄した。「自分を無にして」とは、イエス・キリストが徹底して、完全に人間となられたということです。それも十字架の死に至るまで、徹底的に人間として生きたという事です。

森一弘司祭は次のように今日の聖書日課を解釈します。

「『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。』

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感謝の祈りはすばらしものです。しかし、彼の感謝の祈りには、耳障りなひびきがあります。それは、彼が、うしろのほうで隠れるようにして祈っている取税人に向けた冷たいまなざしと無関係ではありません。それがせっかくの感謝の祈りをだめにしているのです。彼の心には、社会の中の貧しい人や落伍者に向けた冷たい目があります。その心には、兄弟に対するいたわりと思いやりが欠けています。そうした人々の生活と苦しみを想像する力がなかったのでしょう。生きていくことの難しさ、人間の傷つきやすさ、もろさに共感する感受性が欠けているのです」と。

イエス・キリストが、それも十字架の死に至るまで、徹底的に人間として生きたということは、イエス・キリストが、社会の中の貧しい人や落伍者に徹底的に心を向けた温かい目をそそがれているということであり、イエス・キリストの心には、私たちに対するいたわりと思いやりに満ちていたということです。そうした人々の生活と苦しみを自分のものとされたのです。生きていくことの難しさ、人間の傷つきやすさ、もろさに共感し、共にいきてくださったのがイエス・キリストです。このイエス・キリストが私たちに慈しみと恵みをくださっているということに気づくことが、高ぶることなく低く生きるということです。

イエス・キリストの慈しみと恵み生きる、高ぶることなく、低く生きるものとされたものは、心配や不安や焦りから、心の重荷から解放され、身も心も自由されて生きていけるのです。だから、社会の中の貧しい人や落伍者に徹底的に心を向けた温かい目をそそぎ、わたしたちの心には、他者に対するいたわりと思いやりに満ちていくのです。ですから、自由とされた私たちは、自分を正当化し、高ぶったり、自分のことだけを固執する必要はありません。むしろ、相手の気持ちに寄添い、相手と共に生きようと、相手を助けようとするのです。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にした」とあるように、神の慈しみと恵みに生かされているものは、自分がもっているものを固執するのでなく、自分のもっているものさえ自由に手離すことが出来るのです。

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高ぶることなく、低く生きる」ということを、ルターは「キリスト者の自由」の中に次のように表現しています。

キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも服さない。

キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する。

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」とあるように、取税人が神さまの慈しみと恵みをいただくことでしか生きられないことを知って、神の前に低くなるものこそ、「義とされて家に帰った」者とされ、神の慈しみと恵みゆえに、自由とされ、その自由さえ友のために手離す、仕えることが出来る僕となるのです。

神の慈しみと恵みによって、義とされ自由となった者は、他者のために愛の奉仕に力を尽くす生き方をすることが出来るのです。ルターが言うように「わたしもまた、わたしの隣人のためにひとりのキリストになる」のです。

私は、与えられた宣教のわざである幼稚園でいつも問い続けたのは、「高ぶることなく、低く生き」、神の慈しみと恵みに生かされながらいと小さき者とともに、つまり力尽きるぎりぎりまで障碍のあるお子さんを受け入れようという祈りをもってやってきました。今年は、一人の子を受け入れられずに、お母さんを泣かせてしまいました。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」と自分のみじめさを感じました。惨めで力なきものですが、2023年度新入園児希望者を受け入れる日が近づいています。神の慈しみと恵みに支えられて、いと小さき者の救いとなるようにしたく思っています。

参考・引用本:「神のやさしさの中で(森一弘)」、「ルターと宗教改革500年(江口再起)」、「ピリピ人への手紙 (佐竹明)」

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牧師室の小窓からのぞいてみると

今、元統一教会のことが社会問題になっている。それは反社会性の元統一教会に対する社会問題と言う単純なことではない。非常に複雑な問題を含んでいる。それが多くの問題を複雑化して分かり難くしている。

「宗教と政治」ということも複雑に絡んできている。宗教が世の生きる人の救済にあるとき、世の課題からくる個々人の問題を担おうとするなら、どうしても政治と関わってくる。そして、幾つかの宗教団体は、政党を生み出している。明伯としてのドイツの元首相、メルケルは、キリスト教民主同盟という党からである。

「イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」というこの言葉をどう受けとめるか私たちは問われている。

 

園長・瞑想?迷走記

わたしの隣人とは誰ですか。

聖書・ルカによる福音書10:29

運動会も子供たちは、頑張って、楽しく過ごすことが出来ました。いろいろな行事を通して、「わたしの隣り人は誰か」ということを知って、子どもたち同士が、互いに知り合い、助け合うこと、譲り合うことなどの社会性を身に付けていくのです。わたしは一人ではいきていけないんです。いつも「わたしの隣人とは誰ですか。」と問い続けていくことで、自分が今、ここにいるのだと体感し、経験化していくのです。

まだまだ、自己主張が強くて、相手のことを思いやることは難しいのですが、友だちとぶつかりながら、隣人との関係を子どもたちは切り結んでいます。私の友達作りです。その基礎を3年間を通して会得しているのです。

イエスさまは、「永遠の命を得る」鍵だとおっしゃています。

「イエスは答えた。『«心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい»』」と。(11月「園だより」)

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日毎の糧

聖書:主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き/諸国の民を公平に裁かれる。      詩編98:9

ルターの言葉から

 

信仰は最後の審判の日に死者の蘇りがあることを教える。    さらにその希望が加わる。        

『卓上語録』M.ルター著、植田兼義訳、教文館

 

裁き

神は正しさをもって、世界を裁かれるときが私たちに起きます。不正がまん延し、自己中心の世界で、弱者が苦しんでいて、むしろ早く神の正しい裁きが来て欲しいと願う現在の世界があります。世界の裁きを願う終末信仰を強くもって日々を暮らしたいものです。

しかし、終末信仰が強ければ強いほど私たちは間違った歩みをします。焦りすぎて、自分の足元を丁寧に歩むことを出来ずにいて、いつも不満と不平が口から出て、結局、何もしないでいる自分がいます。終わりを待つ緊張と共に、堅実に歩むことこそ大切です。

それは、主への信頼です。

イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。98:3

イスラエルの家、すなわち私たちの世界に対して、主は慈しみとまことを御心に留められています。正しい裁きという終わりの緊張感にあって、同時にここには慈しみとまことをみ心に留めておられる神が共にいてくださり、神の慈しみとまことが降りそそいでいます。終末は、裁きの絶望の時ではなく、神の慈しみとまこととが降りそそいでい希望の時です。安心して終末へ向かっていきましょう。

たとえ明日が終わりであって、今日、リンゴの苗を植える。」こんな信仰の心境が日々、つづられていきますように。

祈り:世に絶望することなく、希望をもって日々を歩めますように。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」32

「教籍簿」

 教会で洗礼を受けた、いわゆる教会員の名簿である教籍簿というものが教会にある。70年史編纂にあたり、教籍簿を整えた。名前が抜け落ちていた方もおられた。

週報、総会資料を調べなおして地道な作業だったが、大切な作業であったと思う。そして、今、調べ直した教籍を新たな教籍簿に書き改めている。

聖書に「命の書」という言葉が出てくる。パウロ的には同労者として救いの計画に入れられた者が記された書である。教籍簿とは「命の書」である。だから、なにかがあったときは、まず第一に持ち出すものであると先輩牧師に教えられた。70年編纂作業で、命の書、教籍簿を整えられたことは一番の恵だったと思う。

70年史編纂前に、教会書記が散った教籍簿を整えて、パソコンにデータ化して下さっていたので大変に助かった。書き忘れた方を加え、苗字、住所、その他の情報を書き換えていく作業にはデータ化した教籍簿が作業をスムーズにしてくれた。

教籍簿、ひとつにしても歴史の流れの中で、多くの人が気遣い、関わり、助けてくれたことが分かった。

また、週報、資料にしても、パソコンにデータ化していったという時代の変化を感じる。勝部、竹田牧師の時代は紙でこれらのことを残しているが、パソコンにデータ化しているので、後の時代の人は利用しやすいだろう。70年史の中での大変化だろう。

(大森日記))信徒さんに出す手紙を書く。まだ、一度も会った方もおられる。しかし、つながるということは大切。)神学生が高圧洗浄機で玄関アプローチを掃除してくれる。見違えたが、きっと気づかれないだろうが、この積み重ねが大切である。)引き続き高圧洗浄機で掃除。)数件の近所の方を訪問し、祈る。)午前中は大森の幼稚園、午後は羽村の幼稚園。子どもと共に。)信徒さんが庭の手入れ、夜は聖研で信徒さんが発題。信徒さんに助けられた一日。感謝。)主日の準備。いつもより遅れている。礼拝、財務委員会、職員会議と続く。やっと夜に主日の準備が出来る。今日は夜、遅くなりそうだ。疲れた。