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聖霊降臨後第2主日「キリストに結ばれて」6月19日礼拝

3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。                         ガラテヤ3:26-27

8:39 「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。                                         ルカによる福音書8:39

 

【説教要旨】       キリストに結ばれる

今日は、洗礼ということに聞いていきましょう。洗礼はサクラメント、神の秘儀です。洗礼の秘儀とは人の罪を赦そうとする神のみ心で、み心は見えません。しかし、神のみ心を見える水として、この水が人の罪を洗い清める、これが洗礼の秘儀です。

「『目に見えない神のみ心―人の罪を赦すー』+『目に見える物(水)』=『サクラメント』なのです。したがって、この等式が成立するためには、そこでこのサクラメントを受け取る側の『信じる心』が不可欠です。信じる心がなければ、洗礼で用いる水も単なる水道水の水と少しも変るところがありません。要するに、神のみ心(言葉)、それを受けとめる人の心(信仰)、これこそが、サクラメントといわれる儀式の鍵です。」

パウロの「信仰により」という言葉が鍵の言葉です。人の罪を赦そうとする神のみ心を信じるということです。しかし、信じるという行為も、人のわざでなく、神が私たちに働き、私たちをキリストに結び付けてくださるのです。したがって信じるとは信仰の決意表明でなく、神のありがたい信仰の恵みを「はい」と素直に受取ることです。

別府時代の罹りつけのお医者さんが、よく聖書を読み、内村鑑三の「一日一生」という日々のみ言葉を毎日、読まれて床に着くということでした。ところが、「どうも、先生方のように信じるということが起きない。信じるということも脳の働きでしょう。でも先生方のように私の脳は信じるということが働いていない。」とよく言われていました。

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信じるという信仰はどんな立派な行為、優れた神への知識を得たとしても与えられない、先生がいうように信仰を感じる脳の働きでもないと思います。ましてや思い込みではないのです。

信仰は、信じて仰ぐと書きます。何を仰ぐのでしょうか。十字架でいのちをささげることにより、イエスは死に打ち勝ち、人の罪を赦ました。十字架上のイエスの裂かれた心臓から、神の愛はわたしたち一人ひとりに注がれているという十字架、神の愛を仰ぐのです。神の愛を仰ぎ、神の愛という事実の中に私たちが導かれていくことが信仰です。神の愛の事実を、見えるものとして、水、洗礼であり、サクラメントを受けるのです。洗礼を受けた者は、イエスさま、十字架を通して、神の愛が見えるものとなったのです。この事実がキリスト・イエスに結ばれるという事実に他ならないのです。キリストの十字架による神の愛が私たち一人ひとりに注がれ、キリスト・イエスに結ばれるゆえに、神の子とされ、洗礼の恵みによって、キリストを着るものとされるのです。

ルターは、「福音的にキリストを着るとは、律法や行いを着るのでなくて、罪の赦し、義、平和、慰め、聖霊における喜び、救い、いのち、キリストご自身と言うはかりがたい賜物を着るという事です。・・・・・・・パウロは、『洗礼によってあなたがたは認識票を受け、それによって、キリスト者に加えられた』とは言っていない。 ・・・・パウロは、洗礼が単なるしるしではなく、キリストの衣服であり、いやキリストご自身がわれわれの衣服であると教えている。それゆえ、洗礼は非常な強力な、非常に効力あるものである。」と言っています。イエスが与えてくださる神の愛に導かれて受ける洗礼によって、人生を変えるというよりも、新しい誕生と創造の出来事がおこるのです。

 

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私たちは、宣教途上にあって、洗礼者を出すことに気を使っています。しかし、組織を発展させ、守るためだけに洗礼はあるのではないと思います。パウロは、「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからですⅠコリント1:17」と言っています。「福音を告げ知らせるため」、「キリストの十字架」とは神の愛です。洗礼を受けるということは、十字架、神の愛を知らされ、導かれていく目で見えるサクラメントです。罪の赦し、義、平和、慰め、聖霊における喜び、救い、いのち、キリストご自身と言うはかりがたい賜物を着ることです。洗礼によって、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」と人生を新たに作り変えられていくことです。悪霊に着かれた人はイエスさまに癒されます。

8:38 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。 8:39 「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。

イエスさまは敢えて、「自分の家に帰りなさい。」と諭します。彼にとっては悪霊につかれた日々があった、正直、帰りたくなかったところです。しかし、彼は昔の彼ではないのです。イエスさまの愛に触れることによって、新しい誕生と創造が起きたキリストに結び付けられた神の子なのです。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」というそればかりでなく、これから襲ってくる苦難をも誇りとする新たな人と誕生と創造された人になっているのだとイエスさまは言われるのです。神に助けを求めていたあなたは、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせることが出来る神を助ける者とされているとイエスさまは言われます。

私たちは、神の愛を仰ぎ、神の愛という事実の中に導かれていく信仰を生き、洗礼、サクラメントをいただきました。私たちは、今は苦難のときを生きています。しかし、そればかりでなくという苦難をも誇りとし、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広める人とキリストに結ばれ、キリストを着て新たに誕生し、創造されています。宣教の業に共に励んでいきましょう。

参考:「真理を求めて」 江口再起 日本福音ルーテル教会、「ガラテヤ書大講下」 徳善義和訳 聖文舎

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牧師室の小窓からのぞいてみると

沖縄返還から50年、甲子園出場した沖縄の高校は、本土と比べると弱いチームでしたが、沖縄水産が準優勝、興南が優勝するほど本土と遜色ないものになった。沖縄の音楽は、ビギンなどによって拡がって、沖縄文化の理解が深まっていった。

しかし、50年経っても、沖縄と本土の経済の格差は縮まらず、また、基地の問題は依然と解決されていない。そして、新たな課題が生まれました。尖閣諸島、台湾侵攻という中国との関係である。

返還50年、私たちはどれほど沖縄の課題と一緒に歩んだだろうかと思うことがある。

もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。   Ⅰコリント12:26

 

園長・瞑想?迷走記

 やっと新型コロナウィルス感染もどういうものかということも分かってきて、出来る対策をし、集まり、外ではマスクをしないで遊び、プール遊びが出来るようになった。交わりの回復が徐々に出来ている。

しかし、子どもたちの運動不足で、たぶん筋肉量がコロナ禍前と今では減っているだろう。筋肉量に比例して体内に溜まる水の量が減り、夏は脱水症が心配になる。この3年間、色々と考えると正直、休まる暇がなく、そろそろ、こちらの気力、体力が限界に達しそうになる。

そんなとき、「たとえ明日が終わりであっても、今日りんごの苗を植える」というルターの言葉を思い出す。どんなに対策をしてもすべてが上手く行くわけではない。しかし、今日すべきことを丁寧にし、希望をもって明日を待つということかとぶつぶつ呟く。イエスさまが、「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」と語りかけくださる言葉をぶつぶつと呟いている。

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日毎の糧

聖書: 主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い/心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。                   詩編64:11

ルターの言葉から

福音は説教や礼典を通してのみならず、兄弟相互の会話や慰めによっても与えられる。         『シュマルカルデン条項』

               1537年、ルター著作集第1集10巻

主によって  

 釈徹宗さんが、「私たちは決して孤独ではなく、つながっているという実感があれば、今日はつらいけど明日は生きていこうと思えるようになります。逆に言えば、何もつながっていない状態に置かれると、人は生きてはいけないのかもしれません」(「NHKこころの時代 『コロナの時代を読む』 釈徹宗、永田和宏 NHK出版 2020年」と言っています。

コロナ禍で私たちは、人と人とのつながりが薄くなり、切られていき、自分が宙ぶらりんとなって、孤独の中にあって苦しんでいるのではないでしょうか。このとき一番、必要な「福音」は十分に与えられない状況にあるのですが、「説教や礼典」である礼拝は閉じられ、「兄弟相互の会話や慰め」の教会での交わりが無くなっていきました。しかし、私たちがつながりを切られ、孤独と向かい合う日々で、詩編の詠う「主によって」生きる私と言う存在が、人と人とのつながりでなく、人と神とのつながりを深めていったのではないでしょうか。

「主によって」とは、私は孤独ではないということにほかならないのです。私が神を忘れても、神は私を忘れないということではないでしょうか。今日はつらいけど明日は生きていこうと思えるのです。

祈り:主を避けどころとして、主によって生かされ生きますように。

(参考:「危機の神学」  若松英輔、山本芳久 文春新書)

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」23

礼拝、讃美歌の改定

ルーテル教会の礼拝に使われる式文、教会讃美歌は、カトリック教会では、祈祷書、典礼聖歌という。聖公会では、祈祷書、古今聖歌という。呼び方が違うが、時代と共に大きく改定されていった。

1963年(昭和38年)にルーテル諸派が合同するために急遽、式文改定が行われ、1964年2月に初版が出る。そこからは通称茶式文が使用される。

讃美歌は、日本基督教団の讃美歌が使われ、後にルーテル教会の讃美歌を作る作業が行われ1974年(昭和49年)に教会讃美歌が誕生する。普及まで時間を要した。

カトリック教会は1962年(昭和37年)から第2回バチカン公会議が開かれ、典礼(礼拝)の改革が行われ、ラテン語で行われていたミサを自国語にし、讃美歌も同様になった。急遽、日本語の祈祷書、讃美歌が使われていった。

ルーテル教会諸派の合同、カトリック教会の改革によって、式文(祈祷書)、讃美歌は劇的な改定がなされていった。これは、単に偶然に起きたことでなく、第2次大戦後の世界の変化の中で変化していく社会に教会がどう応えていくかということの取り組みの結果が、新しい式文(祈祷書)、讃美歌を生み出していった。実に時代に応える宣教の業であったのである。

(大森日記))教会学校、通常礼拝、祈りの会、幼稚園運営に関する臨時総会、神学生との勉強、夕礼拝と時が過ぎていった。)夏日、訪問、花の支払いと午前中は終わる。)昼から幼稚園を休み、お世話になった先生夫妻と昼食。この交わりを大切にしたい。聖書の学びの準備をして、Zoom招待を発信。)羽村幼稚園での朝礼に出席するために東京発6:12発に乗る。子どもの礼拝とみ言葉を聞き、伝えることは楽しい。)週報他を発送、近所は届ける。一言の手紙を書きながら祈っていく。夜は、聖書に学ぶ会。Zoomも出来、拡がりある学びとなる。技術革新は思いもよらない世界をひろげた。)礼拝、子どもたちにみ言葉が拡がっている。幼稚園のリンゴ狩りの準備の職員会議。コロナ対策をしての新しい展開となりそうである。土)蒸す、いやな日だがこれも大切。