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聖霊降臨後第19主日(10月16日)「気を落とさず絶えず祈る」

「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」       創世記32:27-29

御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。                  2テモテ4:2

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。                         ルカによる福音書18:1

【説教要旨】「気を落とさず絶えず祈る」

「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」とありますように祈ることを弟子たちに教えたのです。

「気を落とさずに」という言葉があります。人生はいつもスムーズにいくものではないことをみなさんはよく経験されていると思います。しばしば、気を落とすことがあります。イエスさまは、ただ、祈れとは言いません。「気を落とす」ということが私たちにあるということをイエスさまはご存じなのです。だから、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と言われるのです。私たちは祈ってどうなるというわけではないという問い、疑問の壁に追い詰められることがしばしばあります。

祈りをこのように言っておられる人がいます。「祈りの本質は、神に対するわたしたちの願いがききいれられるかどうかということよりも、わたしたちに対する神の思いの実現を願い、それに信頼することにある。」私たちの祈りに力があるのでなく、神に力がある。この神への信頼が神への切実な願いとなり、祈りになるといわれるのです。

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ここの譬の結びにある-「人の子がくるとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか。」―「信仰」と言う言葉に注目しましょう。「信仰」という言葉は「信頼」とも言えます。

絶えず祈ることは、神への信仰、つまり信頼へ私たちをいざなってくれるからです。

祈ってどうなるというわけではないと問い、疑問の壁に追い詰められることが、譬えに出てくるこの未亡人は、しばしばあったのではないでしょうか。だから力ある裁判官に叫んだのです。「イエスは彼女の叫びの中に、神に向かって叫ぶすべての人間の姿をみるように促しているのです。まさに、神こそ、私たち人間にとってももっとも力あるかた、もっとも頼りになるかただということを教えられておられます。」と森一弘司祭は語ります。イエス・キリストへの信仰、信頼こそ祈りの本質であるとうことです。

「祈ったってなんになる」という言葉には、イエスさまが結んだように「人の子がくるとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか。」ということが根底にある。私たちの祈りに力があるからではない、神に、キリストに力がある、そしてこのキリストが、神が私たちの中になにかを起こしてくれるということへの信仰、信頼です。

ここでやもめがしきりに願うことに注目するが、これを聞き受け止めてくれた裁判官の心が動かないなら何も起こらないのと同じように神の働きなくして祈りはなりたたないのです。神が働かれる、ここに祈りがあるのです。「神は速やかに裁かれる」とあるように神が働いてくださる、ここに祈りの基本があるのです。この譬話から聞き取ることが出来ます。

奥村神父が「真の祈りとは、神がかりでもなければ、ご利益信心でもない。・・・それは、全人的な神への信頼に生きる人間の赤貧の魂に流れる神の命の脈動なのである。」と言われることにほかならないと思います。

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神への信頼にある祈りには、いつも一つの言葉がついてくる。「絶えず」ということである。「イエスは気を落とさずに絶えず祈らなければならない」とあるように。奥村神父は、「祈りは、雑草のように何度踏みつけられても頭をもたげる不死身の願いが神に向けられる、貧しい人間の嘆きであり、訴えである。どろに根をおろして花を咲かす蓮のように、キリストの祈りは、貧しいもの、小さなもの、しいたげられたものの苦しみのなかに、その根をおろしている」と言われます。神への信頼、信仰に立って生きる私たちは、私たちの願うことが、たとえば病気で死にそうな子供をもった親がいる。誰もが癒されることを願う。しかし、現実は癒されるどころか死を与えられる。この深い絶望の中にあって、祈りは、雑草のように何度踏みつけられても頭をもたげる不死身の願いが神に向けられる、貧しい人間の嘆きであり、訴えとなって出てくるように私たちは立てられていくのです。「絶えず」ここには神への信仰、信頼なくしては起こらないのである。

癌で死ぬことが分かっている鈴木正久牧師が「主の祈り」という本の前書きに次のように記しています。

「今年88歳の母は、私を信仰に導き伝道者となることを励まし、主日礼拝や聖書研究会にいつも最前列にいて、私の話を聞き、筆記し、その写しを知人に送ったりしていました。わたしが健康で働いていること、そのために母は常に祈り、またそのことが母の喜びであり、生きるはげましであることは明らかでした。この年老いた母を残して、こう思うとき、わたしは涙がとどめることができません。

今こそわたしは、主とそのみ国の恵みが、教会の上にもちろん、母の上に、そして本当になつかしいすべての人々の上に、いっさいにまさって力強く君臨しておられることを信じます。」いっさいにまさって力強く君臨しておられる主への信仰こそ祈りの根源です。主を信じ、信頼し、絶えず祈りましょう。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

ロシア大統領が、クリミア半島の橋爆破の報復にウクライナを無差別ミサイル攻撃をしたり、次はガス管破損にこれは米国、ウクライナのテロと言い出した。素人でも予測できるような行動、言動を彼が取り出したということは、ちょっとした弾みで第三次世界大戦、地球の滅亡になりかねない終末観が漂ってきた。大変に心配になってきているのではないだろうか。

詩篇46編は、「歴史世界の動乱と恐怖の根はここでは戦争と兵器として把えられる。それに対して神の現臨は兵器の破壊と全世界的(「地の果てまで」)平和の樹立に示される。」と示す。そして、終末は神いますということであり、歴史的現実の世界の混乱の最終統治者として神は共にいてくださいます。神への信頼を自分の現実として受け止めて歴史の今、起きていることを捉えていきたいものである。

「平和の内にでていきなさい」という主のみ言葉は今こそ強く語られています。

園長・瞑想?迷走記

今週、「発達障害サポート入門」という本を読んでいたら、南多摩駅前のマンションで、児童発達支援などの放課後のデイサービス施設が目に留まった。大変だろうと思っていた。翌日、幼稚園のお茶の席で、先生方に本とこの施設の紹介をしたところ、先生のお父さんが小学校の先生を退職されて、同じような仕事をされていることを聞く。60歳で定年を迎えて始めたことになる。臨床心理士の免許、保育士の免許を取ったという。«凄い»の一言に尽きる。

本の作者は、タイトルに「幼児から社会人まで」と副題をつけ、おびに「『切れ目ない支援』を目指して」と加えていた。

教会立の幼稚園、保育園なら、「『切れ目ない支援』を目指して」行動を起せるのではないかと思っている。人材、場所を使って今でしょと動き出したい。勉強、勉強。

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日毎の糧

聖書: 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。                  詩編46:12

ルターの言葉から

それゆえ、ここでは最もかたく信じる人が、最も強く守られます。  『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』 湯川郁子訳  徳善義和監修 教文館

 

信頼

私たちルーテル教会にとって馴染み深い詩編で、ルターのコラール「神はわがやぐら(教団讃美歌267)」として、有名である。宗教改革の歌として宗教改革記念日、その他の記念日でルーテル教会では歌われます。曲はメンデルスゾーンの「交響曲第5番・宗教改革」に使われています。ルターのコラールが示すように神への信頼の詩編です。

ルターは、匿われ、守られていたワルトブルク城を去って、命の危険さえあるウィッテンベルクに戻るとき、匿ってくださった選帝侯フリードリッヒ公に宛てた手紙で、「この手紙を選帝侯殿下に差し上げるのは、私が、選帝侯よりはるかに高い庇護のもとにウィッテンベルクに向かって来たということを殿下に知っていただきたいと思うからです。」というのです。ルターは選帝侯の権力と武力で自分は守られてウィッテンベルクに帰ってきたのではないというのです。「剣は何の忠告も助力も出来ず、またすべきでなく、神のみがあらゆる人の思い煩いと関与を超えて働かれるにちがいありません。」という神の働きのみにおいて、自分のいまがあるというのです。そして、続けて、「それゆえ、ここでは最もかたく信じる人が、最も強く守られます。」とルターはいうのです。

神への絶対信頼です。宗教改革とは、この世の力に頼るのでなく神への絶対信頼、神への信仰こそが、すべてを超えていくということです。「信仰のみ」ということです。

祈り:神への絶対信頼にたって、歩みを一歩踏みだしていけますように。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」32

カトリック大森教会100年

 10日の祝日に大森カトリック教会、宣教100年の礼拝に招待されて出席をいたしました。

ここで感動し、私の心を揺すぶったのは、東京大司教の主教の言葉でもなく、教会の初期の活動を担った宣教修道会の管長の言葉でなく、教会の代表役員、私たちの教会でいえば、代議員の言葉でした。

大森カトリック教会は、小教区、いわるゆる私たちの教会ということですが、教会献堂が先であったのではなく、司祭が作った女子修道会が、幼稚園、病院を創立するところから始まったと聞きました。そして、今、百年、新自由主義の経済の中に貧富の差に苦しんでる方々の方に、フードパントリーという形で、弱者に寄り添う、いや共に生きるという宣教で、現実が見えてきて、その壁とぶつかりつつも、教会が自己保存的に生きようとする昨今、苦しみ、悩みつつ共に生きようとする姿を久しぶりに聞き、清々しい信仰の表明でした。それが創立の精神を受け継ぐことであり、教皇フランシスコとの願いと受け止めていた強い信仰の表明でもありました。

この信仰の表明は、私たちルーテル教会が教会を守るために自己保存的に陥いるのではなく、初期に返り、教会が守り続けている幼稚園活動などを通して時代に応えていくものとなるようにという思いをいただきました。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさいとい恵みをいただいた大森カトリック教会の100年の礼拝でした。

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(大森日記))幼稚園の運動会。天候に恵まれ、無事に終了。)久しぶりに山王講座、夕礼拝も久しぶりに5名を越す。静かな時に感謝。)快晴の中、大森カトリック100年の宣教記念礼拝に出席。勇気をいただく。)代休だが、掃除をして預かりの子を迎える。礼拝。昼から休みを取る。)片道1時間半の道中に人身事故二件で85分電車は立ち往生。)読み易く、手に取り易くするために教会の本棚の整備。巻き爪の医療処置。)一人一人を祈り、一筆の言葉を加え、手紙を出す。今週も主に守られた。主日の準備完了。