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聖霊降臨後第18主日(10月1日)「フミリタスー無」

2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。        フィリピ信徒への手紙2:6-7

21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。      マタイによる福音書21:23

【説教要旨】「フミリタスー無」

今月は宗教改革記念の月です。そのために行事が組まれています。時代の変革期が宗教改革でした。そういう変革の時に今日も変わらなければいけません。

同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。2:2とパウロは、フィリピの信徒へ手紙を書きます。地区のぞれの教会は、それぞれの歴史をもって、それぞれの歩みをしてきました。しかし、相手を認めつつも今は同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つということが必要です。まずは相手を知るということで合同の礼拝、学び、22日は牧師の礼拝担当の交換日を設けました。

宗教改革記念日には神学校から先生を迎え人間至上主義になり、それぞれ人間が自由に生きている時代に「本当に自由になる」とは何であるかを聞きます。午後から、地域の方々へ教会を開き、リードオルガンのコンサートをします。

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私たちが何かことを行うとき、私たちが大切なことはどういうことかということです。

2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさいということです。「利己心と虚栄心とは、共に、他人に対して自の優越を主張する生き方である。・・・・利己心とは、神が何か事に際して、相手の側にではなく、自分の側につくことを欲する姿勢を指し、虚栄心とは、自分が神と人に特別に認められることを願い求める生き方を言う。そこには神の助けを真底から必要としない、自分に絶望していないわたしがある」のです。

1521年、ルターは、「マグニフィカ―ト(マリア讃歌)」を書いています。そこで、マリアの謙遜(フィミリタス)について今までの解釈を大きく変えました。フィミリタス、「へりくだって」と言う言葉です。フミリタスの動詞で、フミリタスとは謙虚と訳されます。しかし、ルターは、フミリタスを無と表現し、今まで、フミリタスを謙遜、謙虚と受け止め、これを徳目としていました。しかし、ルターは謙遜、謙虚である行為よりも、フミリタスを無と受けとめ、自分がへりくだる者となるということは、自分は無であり、無価値なるものであるというのです。そのことをイエスさまは私たちに示してくださいました。2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

しかし、この無であり、無価値なものを神が顧みて、神が働き、憐れんでくださるということがフミリタスの本質であるとルターも、そして、パウロも受け止めるのです。

2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

フミリタスであるといことよりも、このため、神はキリストを高く上げるということに重点をおいています。

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徳目的な自分が謙遜し、謙虚な者となるという私の行為に重点をおくのでなく「まことのフミリタスは自分自身を振り返ったり、自分自身を自覚しえない」とルターは言います。私が消えて、ここには、私たちを顧みてくださる神の働き、憐れみしかないのです。無価値な私を顧みて、憐れんでくださる神なのです。イエスさまはご自身が十字架で、キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられましたと示してくださいました。「イエスは言われた。『はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。』」というみ言葉そのことを示しているのです。罪に絶望していた徴税人や娼婦たちに比べあなたたち、祭司長や民の長老たちは、自分らが神に近く、救いから最も近い者と疑わず、徴税人や娼婦を見下していました。「神の国」は神が働き、支配される恵みから最も遠いのです。

パウロは新しい生き方を求めます。「『謙遜』『相手を自分よりすぐれたものとする』生き方を求める。相手を自分よりすぐれたものとすること、単にあの点この点に関してだけ相手の長所を認めるというものでなしに、相手を全体として自分よりもすぐれたものとすることは、罪深い自分に絶望するものにのみ可能な生き方である。それは恵みの支配に徹底的に服従する生き方である。そして、この生き方のみが、恵みの支配下に始めて成立するはずの信徒の共同体の生活を実現にもたらすのである。ここでいう謙遜、それゆえ、決して単なる美徳ではない。ましてや処世訓の方便や、共同体を滑らかにする技術ととらえられてはいけない」

人間の力のみというエゴイズムの現代社会にあって、私たちは敢えて、人間の力に生きるのでなく神の恵みの支配に徹底的にいきるのです。「恵みのみ」という生き方です。ここにこそ、新しい生き方が生まれます。エゴイズムの世界にあって、相手をリスペクト、顧みて、尊敬する共同体でありたいのです。

引用、参考:「ピリピ人への手紙」 佐竹明 新教出版

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牧師室の小窓からのぞいてみると

新聞、ラジオ、テレビ、ネットから色々な情報がを得られるが、情報を整理し、何が正しいものかを自分なりに判断しないと、情報量に振り回され、自分を見失っていく時代だとますますそう思えるようになっている。では、どうすれば良いのかとなる。

私は、自分の価値観をもって、何度も見直す、聞き直すことだと思う。現代社会は、真の自分を持つという事が大切な時代だと思っている。イエスを十字架につけたピラトは、イエスに「真理とは何か」と聞いた。ピラトは真理を問いながら人を恐れてイエス、真理を十字架にかけて殺した。自分がなかった。

 園長・瞑想?迷走記

「みをつくし料理帖 残月」(高田郁 角川春樹事務所)という小説の中に出てくる言葉が心にとまった。

「子の幸せと親自身の幸せを混同しないことです。いっぱしに成長したなら、子には自分で幸せってのは、銭のあるなし、身分のあるなしは関係ないのです。生きていて良かった、自分で思えることが、何より大事なんですよ」。これを幼稚園と言う場でいうなら、「子の幸せと保育者の幸せを混同しないことです。いっぱしに成長している、子には自分で幸せってのは、能力があるなしは関係ないのです。この幼稚園で過ごして良かった、自分で思えることが、何より大事なんです」ということでしょうか。「この幼稚園で過ごして良かった、自分で思えることが、何より大事なんです」という気持ちを子どもたちに寄添う保育者が届けることが出来ればと思う。

では、園長は。やはり保育者一人一人が、「この幼稚園で過ごして良かった、自分で思えることが、何より大事なんです」ということをいつも考え、具体的にすることである。そして何よりも保育者人一人をリスペクト、尊敬することだと思う。

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日毎の糧

聖書:主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み  わたしの神よ、あなたに依り頼みます。詩編25:1~2

ルターの言葉から

   キリストはすべての人が、どのような状況にあろうとも、救われることをお望みになった。それゆえキリストは「すべての者」に訪れることを知りなさい。                    『卓上語録』M.ルター著、植田兼義訳、教文館

キリストはすべての者に訪れる。

 そろそろ自分の葬儀の準備をしなくてはいけません。葬儀での愛唱歌です。好きな讃美歌に聖歌498番がありますが、どうしてもこれを愛唱歌とするには受け入れがたい歌詞があり躊躇していました。

「主にすがる我に悩みはなし」と言う言葉です。そんなに単純な事ではあるまい、信仰の人生を振り返れば悩みばかりだったと。しかし、この頃、自分の信仰の人生を単純化して眺めるとき、主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み  わたしの神よ、あなたに依り頼みますという祈りであったと心から受け入れることが出来るようになっている自分がいます。主により頼むしかなかった人生だったと思う。

そして、落ち着いて、もう一度、聖歌の歌詞を見直すと、「主にすがる我に悩みはなし」という次に「十字架のみもとに荷をおろせれば」と続く。「十字架のみもとに荷をおろせれば、主にすがる我に悩みはなし」ということである。

「十字架のみもとに荷をおろせれば」とは、主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望みということである。悩み多き人生(みち)にあって、いつも私たちが思いを向けるのは、十字架のみもとに荷をおろす魂こそ、主にすがる我に悩みはなしと感謝となっていくのではないかと思う。

キリストはすべての人が、どのような状況にあろうとも、救われる ことをお望みになった。それゆえキリストは「すべての者」に訪れる ことを知りなさいというルターの言葉こそが、わたしの神よ、あなたに依り頼みますと言い切る私がいます。

祈り:神を仰ぎ望み、神に依り頼んでいくようにしてください。

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大森通信

「引退の準備」 7.整理  

 70歳は、人生の引退の準備でもある。人生100年というが私には今のところ実感がない。高校生時代、病院と学校を行き来した病弱の私が今、ここにいるのは不思議である。引退が近づきつつ一緒にこれからも一緒にいたいと思っていたⅮ牧師は、元気だった先生が引退を数か月前にして天に帰られた事を思い出す。だから、荷を整理しながら、人生の引退の準備をしている。真剣に葬儀の準備をしている。葬儀司式、説教は自分の属した牧師に委ねればよい。最終的には長男の教会に属するだろうからここは準備をする必要はない。愛唱聖句はあっても、やはり、司式、説教者の牧師が愛唱聖句に捕らわれず説教されるはず・・。愛唱聖句は「主はわが牧者なり」である。

次に愛唱讃美歌を探している。そうすると教団の讃美歌、讃美歌21,聖歌の讃美歌は次々と出てくるが、ルター派の讃美歌教会讃美歌は、467番しか頭にすぐ浮かばない。苦笑いをしている。

そうしていると「霊性というのは、単に心の問題だけでなく、人の世界観、宇宙観にもかかわることであり・・・・・しかも人間の生と死が全うされるのは、霊性がなければ十分でない」(老いること 死ぬこと いのちのことば社)の鍋谷牧師の言葉を思い出した。霊性作業か?

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大森日記)お世話になったK学園学園長の召天記念会で名古屋に。一時代を生きた人である。)教会学校、通常礼拝、夕礼拝の出席がなかなか戻らない。タイ出張の帰国の朝に礼拝に出席くださる。幼稚園運営委員会と。)園庭を整え、朝礼、事務作業し、H幼稚園の理事会の準備で出かける。神学書と小説をもって。うたた寝の方が多かったか。)「聖書の学び」の準備。次の主日に交読する詩篇である。これも礼拝の準備である。10月分の礼拝式文作成。)午後からH幼稚園の理事会。最後の定例理事会まで2回。今までの課題は一応終わる。赤字脱却、借入金返済、労務管理。助けられた。木)牧師会、園長会への交通、宿泊準備。「聖書のまなび」と祈り。)早朝から掃除などをした後で気分が最悪になる。脱水症か。今週も多くの人に支えられる。感謝。