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聖霊降臨後第17主日礼拝(9月24日)「キリスト・イエスに結ばれて」 

それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。          マタイによる福音書20:15 

【説教要旨】「キリスト・イエスに結ばれて」

パウロは、課題の多いフィリピの教会に「あなたがた一同と共にいることになるでしょう。」と語りかけます。決して、切り捨てるのではないのです。事を推進していくには、課題のあるものを切り捨てる方が、上手くいきます。

しかし、パウロは相手を尊敬し、共に生きるというのです。23この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。24だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要ですというのです。神と共にいる天に帰ることよりも、課題の多いフィリピの人のために生きる方がもっと必要ですと言い切るのです。

今日の福音書の日課は、朝早くから雇われた者にも、一時間前に雇われた最後の者にも、等しくぶどう園の主人は一デナリオン払ったというのです。

一デナリオンというのは、4人の家族が充分に一日の生活をしていくのに足りるお金だそうです。つまり「日毎の糧を与えたまえ」という主の祈りの成就です。

しかし、私たちはどうも合点がいかない。五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』というのが私たちの気持ちではないでしょうか。

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しかし、神さまの気持ちはどうであるかということです。私たち信仰者は、まずは何よりも神さまの気持ちを、意志を探らなければなりません。

半世紀前には賃金も払えずに労働争議さえ起き、日本中が、かつて、雇用の不安に苛まれた時代を生きたのです。一日の糧をえることなく、午後の五時まで雇われずに不安と絶望の中に置かれた時代があったのです。今日は、違う形で正規雇用が減り、また、いつ雇用が切られかもしれない不定期雇用が増え、生活が脅かされている時代でもあります。

そういう私たちにイエスさまは今日の譬で、神の気持ちを示される。誰もが等しく一日の糧を与えられ、不安と絶望の中に生きることを望まれていないということである。日本国憲法 25条に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という有名な条文があります。それは神さまの気持ちだと思います。

人間的合理的がますます求められる世界が私たちの今、生きている世界です。五時まで雇われなかった人は、運がなかったのかも知れないし、何か課題があったのかもしれません。そういう人を一日の糧を得るなど言語道断と蹴飛ばそうとして良いのだと思っているので、今日の福音書の日課にどこか合点がいかないのではないだろうか。しかし、それは、人の心であっても、神のみ心ではない。

主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。』

神のみ心は一人一人がもつ日毎の糧を得るために苦しみ、悲しむ者に等しく一デナリオンという日毎の糧を与えたのです。『わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。』、「共に」私たちが得ている日毎の糧を分かちあうという強い神の意志があるのです。

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神のみ心は、等しく共に生きること、具体的には共に日毎の糧を得ることであるということです。

パウロは、信仰的の合理的な判断をするなら、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましいと言い切りますが、だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要ですと共に生きることこそ、フィリピの人が必要としていることであり、それが神の御心であると不合理な選択をします。あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつも あなたがた一同と共にいることになるでしょう。

私たちが生きるのは、合理的な生き方をすると同時に不合理生き方をするということです。ここに私たちの苦しみ、悩みはあるのです。つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのですと。キリストのために苦しむとは、一人一人がもつ日毎の糧を得るために苦しみ、悲しむ者に等しく一デナリオンという日毎の糧を与え生活を保障することをみ心と受けとめ、わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだという神の気持ちを私の気持ち、意志としていくとき、世の合理性、私の心にある合理性と衝突し、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりませんとまで追い込まれていくことです。二つの幼稚園を経営していて、いつもここで悩みます。運営していくには合理的に考えていかなければならない、しかし、神のみ心はすべてが生かされているのだという人間的にみれば不合理な生き方です。ここで、苦しみつつ、決断するのは、みながキリスト・イエスに結ばれているのであるという尊敬する目です。あなたがた一同と共にいるということです。相手を尊敬し、寄り添う者とされるように祈る。その時、合理的ない生き方と同時に不合理な生き方が出来てきたと思っています。みなそれぞれ能力は違う、しかし、同時にキリスト・イエスに結ばれているという信仰の目、心がひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送るということだと信じます。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

現代社会は、日本だけで通じる価値観では、世界に対して通用しないグローバルな価値観で動いている。

一方、大国は、自国の価値観をグローバルなものにしようと力でねじ込んでくる。そのせめぎ合いは他人事でなく私たちの生活にまで影響を与えていることに気づくことである。

私たちが使う日常の規格が代わり、すべての生活品だけでなく価値観まで世界規格と言われてここにあてはめられていく。その世界規格とは確立してなく予想できない日々を生きています。だから練達は忍耐を、忍耐は希望を失わないというみ言葉を心にもっていきたいと思っています。

 園長・瞑想?迷走記 

保育者が叱ること、指導することに「不適切保育」と一方的に保育者が批判されネットの社会で注目されている。そこに至るまで保育の状況を語るのでなく、至ったその部分の状況だけが報道されていく。

幼稚園にかかわってきて社会は大きく変化に影響を受けていると感じている。ここを、今を生きる子ども、保護者、教育者、保育者の心を複雑化していている。園、学校からみれば、大変化していく、複雑化していく子ども、保護者に寄添いながら教育・保育をしていくか、日々、具体的に行っていくかと真摯に向かい合っている。

しかし、「不適切保育」と一刀両断に断定されるかもしれないといつも心のどこかで怯えているものがあるなら、保育者になる人も減ってきて、現に今いる教育者も保育者も心が萎えてくるのではないだろうか。事件に至るまでのこと、そして大変化している教育・保育現場の環境、厳しい労働環境など追い詰められている教育者、保育者の現状を知って欲しいう。

事件が報道される度に、自園の教育・保育の内容を確認し、よりよい教育・保育を現場はしている。

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日毎の糧

聖書: ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。                   詩編145:15

ルターの言葉から

  敬虔な信仰をもつ心は、私たちの耕作や種蒔きや、その他の 働きが、神の慈しみによって支えられなければ、むなしいことを    よく知っています。私たちは熱心に仕事をして、地に食物を求めなければなりませんが、だからといって、自分の働きに信頼を置くようなことがあってはなりません。神の祝福と、神の力ある守りとが生長に不可欠なのです。           『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

 

慈しみは永遠に 

 旧約聖書の信仰は、イスラエルの歴史から生まれた。そして、その一つの流れを私たちキリスト教は継いでいる。

出エジプトの出来事であり、バビロン捕囚の出来事である。この二つの出来事は民族の苦しみの歴史の記憶であった。それは、苦しみの歴史と共に、「主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。」という恵みと憐みを豊かに神によって与えられた歴史です。

私という人生の歴史も、苦しみがあっても、ここを貫いているのは恵みと慈しみです。ものみながあなたに目を注いで待ち望むと同時に神は私たちに目を注いで私たちが、神の恵みと慈しみに生かされていることに気づくように導いてくださいます。あなたはときに応じて食べ物をくださいますとあるように時宜に適って私たちに具体的に必要なものを与えて下さいます。このことを私の歴史の記憶しておきましょう。

神の祝福と、神の力ある守りとが生長に不可欠なのです。 

祈り:激神の恵みと慈しみを私の歴史に記憶出来ますように。

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大森通信

「引退の準備」 6.整理 

このごろ、高齢者専門の精神医・和田秀樹さんの本を読んでいる。「どんなお金持ちでも、あの世にお金をもっていくことはできません。しかし、たくさんの思い出を胸に、幸せに死んでいくことができます。《ゼロで死ね》という言葉を、どうか心にとめておいてください」(「70代から『いいこと』ばかり起きる人」)。ここで「たくさんの思い出を胸に、幸せに」という言葉が気になった。

先日、区議さんと支援者の方が写真展の招待状をわざわざ届けてくださった。支援者の方は幼稚園の卒園生だという。「2016 日本福音ルーテル大森教会 大森ルーテル幼稚園 創立六十周年記念アルバム」を見せると、「ここに、私が、妹が、母がいます」と言われ、写真をとっていかれた。後日、家族が集まり、写真で楽しく盛り上がり、母を見て、幸せになりましたと聞く。

私たちが、幼稚園の60周年記念誌、教会の70年史の記念誌を発行出来て良かったと思う瞬間です。「たくさんの思い出を胸に、幸せに」と福音を伝えている。データが単にデータでなく「たくさんの思い出を胸に、幸せに」するものであるということだと思う。この記念誌の作業は、教会の歴史の資料データを整えるきっかけを作ってくれた。

 

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大森日記)主日の準備。早朝に週報などを印刷。)連休半ば教会学校、通常礼拝の出席は少ないと予想。その通りになった。祈りの会、女性会が行われる。夕礼拝も静かに行われる。感謝。)横須賀、蒲田大森三教会の合同礼拝と式文の学びの時。正直、式文を変える必要があるのかと感じた。交流は楽しかった。)労務管理の件で面談にH幼稚園へ行く。職員の話を聞けて良かった。)午後からH幼稚園へ。前任者からお預かりし、経営の課題であったものが一通り解決へ向かう。少々、疲れるが次へとバトンタッチ。)公園での運動会練習にクレームの電話か?「こども真ん中の社会」という政府の方針だが子育てが難しい時代である。すべての世代に渡って理解していかなければ。)明日は共に歩んだ方の記念会があるので主日の準備を今日中にする。