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聖霊降臨後第16主日(9月17日)「相手の立場はいろいろ」

信仰の弱い人を受け入れなさい。   ローマ14:1

【説教要旨】「相手の立場はいろいろ」

聖テレジアの次のような言葉があります。「イエスを愛し、その愛のいけにえとなるには、すべてを焼き尽くして変容させることの愛の働きを受けるには弱ければ弱いほど、そして、なんの望みも徳もなければないほどよいのです。・・・これは難しい点なのです。」

パウロは「信仰の弱い人を受け入れなさい」と言っています。信仰的に強いパウロから言われと、この言葉を受け取り、感じる者にとって、なんだか、上から見下されているように感じてしまいます。しかし、信仰の強い者が弱い者を受け入れると言う図式の動きなのでしょうか。「召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。」とあります。「立たせる方」は主であるように、信仰の弱い人を受け入れるということは、弱い人を受け入れておられる方、主を見るということに他ならないのです。

しかし、そうは言っても何の苦もなく、他者の弱さを受け入れることができるでしょうか。これは難しい。

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信仰の弱い人を受け入れなさい」というとき、これは明らかに他者の弱さを受け入れなさいということですが、同時に自分の弱さを受け入れるということではないでしょうか。私たちは生きるに対して強くあろうとする。強くなければ生きることができないという幻想にとらわれています。しかし、パウロ同様私たちは「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」というような者なのです。この信仰的に弱い、惨めさを認めることから私たちの一歩が刻まれていくのです。

自分の弱さに触れたとき、そのもろさのもっと深いところに、「宿られて」いる方、イエス・キリストを発見するでしょう。地上における私たちの弱さ、もろさの中に、実はイエス・キリストの救いが隠されていることをしるのです。

それはこうも言えるでしょう。自分の力に頼って、自分を守っている強さでなく、今日の詩篇交読、主は憐れみ深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい。・・・・・・・・・天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きいというイエス・キリスト中心の生き方へと転換していくとき、初めて自分と他者の弱さを受け入れるようになるのです。

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テレジアは、「イエスを愛し、その愛のいけにえとなるには、すべてを焼き尽くして変容させることの愛の働きを受けるには弱ければ弱いほどよいのです。」と言うのです。

ここに実に不思議なことですが、人は神と共におり、神ご自身に触れ、なによりも神から自分が触れられていることに気づくのです

もう自分のために生きるのでなく、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」とあるように主のために生きる、すなわち他者の愛のために愛の業に励むことのできる存在と変えられていくのです。

私たちは、自分自身の弱さを味わい、同時に他者の弱さを受け入れて、自分がキリストに触れられていることを、受け入れられていることを味わうことができます。ここに私たちは隣人へ大きな奇跡を起しうる者になります。

だから、パウロは「弱さを誇ろう」と言われます。何事も強さを求められる世界が私たちの喉元を越えて襲ってきます。私たちは、素直に率直に自分の弱さを受け入れ、相手の立場はいろいろあるという他者の弱さを受け入れ、愛の業をたゆまず続け、証ししていきましょう。

自分自身の弱さを、相手の立場はいろいろあるという他者の弱さを認め合い、キリストに触れられ愛に満ちあふれる多様な人が集まる教会が築かれていきます。

イエスを愛し、その愛のいけにえとなるには、すべてを焼き尽くして変容させることの愛の働きを受けるには弱ければ弱いほどよいのです。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

先日、信徒さんが、「中国が台湾侵攻し、これを阻止するなら、国連決議、中国の台湾主権を認めたアルバニア決議に違反すると中国が国連で訴え、国連が中国中心とアメリカ中心と分裂し、中国が国連を乗っ取るのではないか」という夢をみたというのである。アルバニア決議によると侵略でなく、国土回復の侵攻という論は成り立つ。しかし、歴史は論で動かないこと、いたずらに論で押す時、大義はあっても得るものはない。数千年の歴史書、聖書は、「すべてに時あり」ということを為政者は心にしてほしい。終末は近いのかもしれない。イエスが終わりの時、「人に惑わされないように気をつけなさい。マタイ24:4」と言われたように、ここは「み国が来ますように」と祈って、忍耐し、すべてが神によって明らかにされるときを待つときが来ているのかもしれない。

 園長・瞑想?迷走記                                     

新型コロナ禍で、人の集まりを出来るだけ抑えていた。教会学校の出席も同様で、積極的に出席を呼び掛けていなかった。新型コロナも5類になり、出席を呼びかけるがなかなか出席者が増えず、コロナ禍でも出席していた小学生が主流である。

幼稚園の職員会議で、このことを話し合うと上記の原因だけでなく、園児の家庭の大変化があるという。定員88名中半分の平均40名近い園児が預かり保育に来ていることから分かるように共働きが増えたという事である。日曜日まで教会に連れてくるのは親がしんどいのかもしれないかもしれない。その気持ちも分かるし、心がリフレッシュして欲しいと思う願いもある。

キリスト教幼稚園としては、教会学校、親子の朝の礼拝は大切な、大切な出来事である。これも共働きという世俗化の中で飲み込まれそうになっている。

ただ、毎週、毎週、出席を呼びかけるしかない。そして、内容である。祈りつつ、叡智を出し、園児を慈しむこころをこころとして、くじけず続けていくことかと思っている。次の園長までコロナ以前に回復させてくださいと祈りを続けよう。

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日毎の糧

聖書: 天(てん)が地(ち)を超(こ)えて高(たか)いように、慈(いつく)しみは主(しゅ)を畏(おそ)れる人(ひと)を超(こ)えて大(おお)きい。        詩編103:11

ルターの言葉から

   あなたはキリストをあなたから引き離したり、彼がお与えになる慰 めを逆にして、自分を恐怖や絶望に追い込むような不敬なことをしないで、全信頼をもって彼のもとに走り寄りなさい。そうすれば、あなたはすぐにまた、あの喜ばしい慰めに満ちた「恐れるな」というみことばを聞くであろう。それによって彼は、あなたや他のすべての人々の心の内にある悲しんでいる良心に向かって、すべての罪の赦しを語りかけるのである。『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館

慈しみは人を超えて大きい

 昨日までの価値観が、今日は通じないという、激変していく世界を生きている私たちにはストレスが相当かかっているように感じている。ルターも中世から近世へと、また感染症のペストが猛威を奮う時代の中を生きていた。「自分を恐怖や絶望に追い込むような不敬なことを しないで、」ということは、自分が恐怖や絶望に追い込まれていたのではないだろうか。

先日、子どもから老人までの福祉施設、病院、牧場をもっている事業体の理事会があった。変化していく世界で、老人が、子どもが、痛みを持つ方々一人一人がいかに幸せになるか弛まず苦労している報告を聞き、手を合わせた。子どもの施設で「自己加配〇名」とあった。法律を越えて職員を園の責任で、多く配置するということである。それは経営を圧迫するだろうが、何より子どもたちの幸せを祈り、寄り添っていく愛を感じた。ほとんどの職員がクリスチャンでない世界にあって、主の慈しみは人を超えてという真実を見た。また同時に「主を畏れる人」

とは、世界がどうであろうと喜ばしい慰めに満ちた「恐れるな」というみことばを聞き、恐れず、希望をもって、隣人に寄添っていく人だ。

祈り:激変する世界で神の慈しみが満ち溢れ、慈しみを隣人に伝えていく心を与えてください。

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大森通信

「引退の準備」 5.整理  

後任も決まり、次は引き継ぎの準備である。今までmori までとは違うことは、パソコン内にあるデ-タの処理と引き継ぎである。今後をどう展開できるかはデ-タの蓄積と処理と展開であると言われている。

ハラリ氏は、人間中心主義から、人間に変わって、データをあらゆる意味と権威の源泉とするデータ中心主義になるだろうと21世紀を予測している。「人間中心からデータ中心へという世界観の変化は、たんなる哲学的な革命でなはなく、実際的な革命になるだろう」と言い、3つの問いかけをしている。その中の3。「3 意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常はどうなるのか?」。

この本の11章の一項に「記録し、アップロードし、シェアしよう」とある。まさにそういう世界の一歩を踏み出している。しかし、今、私が持っているデータがどれほど今に役に立つかと言うと、単に記録しているだけで心もとないものであるかもしれないが、記録したものをまずは整理していこう。

引用:「ホモ・デウス (ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 河出書房新社)」

大森日記)午後から台風で枝、葉が散乱した庭の掃除をする。役員会議事録の印刷。)教会学校の二学期開始、通常礼拝、祈り会、訪問、夕礼拝、礼拝YouTube配信。)主日の準備。)昔なら出来ないがZoomで結ばれ、デンマーク牧場福祉会会議、その後、対面の牧師会と。地区の課題も目途をつけて後任に。)午後から羽村幼稚園へ。前任者からお預かりし、経営の課題であったものを一通り解決へ向かう。少々、疲れるが次へといける。木)羽村幼稚園の課題を、信州への園児の旅行に間に合うぎりぎりまで対応する。後発の車に乗れる。私の旅の責任はこれで最後である。疲れて眠りにつく。)信州、小諸でりんご狩り。快晴。いつもより暑い。東京は大雨で予定よりも道路が込み到着時間が遅れる。無事に帰宅。子どもたちにとって良い思い出になったに違いない。