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聖霊降臨後第15主日(9月10日)「和解の道」

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。       マタイ18:20

【説教要旨】和解の道

「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」というみ言葉は、教会とは何かという事を示しています。

私の指導牧師が、「使徒パウロが、心血、注いで建て、世話をした(牧会)教会は、現在もありますか」と質問されたことを思い出します。使徒パウロが建てた教会は、今は一つもありません。しかし、確かに心血を注いだ教会を通してキリストの愛がありつづけています。教会という建物、組織はないが、時代を越えて、いつまでもキリストの愛は今も私たちのところにあります。

ルターが生きた当時の教会は、ゴッシク建築の中世の教会で、人を圧倒し、その組織は実に整えられていたカトリック教会でした。しかし、彼は何かがここにないことに気づいた。「人は好きなだけ、教会だ、教会だと威張ってもよかろう。しかし、実際には、そこに誇るべき何ものもないのである。

そして教会は「神の言葉が聞かれる所、そこに教会がある。たとえ馬小屋であっても、そこに、キリストの生まれる場所はあるのである。」と気づいた。

ロシアによるウクライナ侵略で、「なぜ、宗教、民族の違いによって戦争が起きるのか」という問いを私たちはつきつけられています。同じキリスト教同志の、そして信仰的には近い正教会同士が、相手を殺してまでも自分の宗教を主張するということは当然、キリスト教会、宗教への不信を表します。どうすれば良いのか、どう乗り越えていくかということを私たちは問われています。

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ルターの宗教改革を経て500年、諸宗教と対話をしているのがカトリック教会です。

「諸宗教に開かれた典礼(礼拝)」という文章の中で、バーケルマンス司祭は次のように言っています。

「イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言います。わたしたちは『わたしの名』をイエスの名と理解するので、この文章をキリスト信者の集まりと理解しますが、もうひとつの解釈ができます。ユダヤ人は、『二人が座って律法を学ぶとき、神の栄光が共にある』と信じています。同じように教会でもイエスの教え(神の言葉)を理解するために聖書をともに勉強するときにも、イエスはそこにおられます。つまり、もし『名』ということばを『神の言葉』『愛』『正義』『平和』『ゆるし』などということばに変えると、イエスのメッセージがもっと明白になります。私たちが信者としてイエスの名によって集まるのは、感謝のうちにイエスの教え、愛、正義、平和などを実現するためでもあります。したがって諸宗教の人々が愛、正義、平和、ゆるしのために集うときにそこにイエスがおられるのです。

彼はそこで平和のために集う平和祈祷集会を開きます。自分自身を超えて、平和のために祈ることが諸宗教は一つになるというのです。」

これは大変に示唆に富んだ現代的解釈であり、実践であります。二人、三人をただキリスト者というのでなく、イエスの名を実態あらしめるみ言葉、愛、正義、平和、ゆるしと受け取るとき、教会を超えた対話が成立していくのです。違いを超えてイエスさまがいる世界が生まれてくるのです。

「心を一つにして」という言葉があります。ギリシャ語原語はスンホネオーという言葉で、シンフォニー、交響楽という言葉です。音を響かす交響楽、シンフォニーは色々な楽器が集まり、それぞれが個性を持っています。しかし、それぞれが違う音を出しながらひとつのハーモニーとなっていく。これが「心を一つとする」ということです。そのとき、どんな願い事であれ天の父はかなえてくださると聖書は教えて下さっています。

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現代もなぜ宗教の違いによって殺しあうのかという素朴な質問、現実があります。それを越えて解決しあうのは、相手を認め互いに対話し続けること、シンフォニー(声を響き合わせていく)となっていく努力をし続けることです。違っても良い、真に平和を、正義を、愛を求めて祈るとき、必ず神のみ心が実現します。

今、城南神奈川地区で、宣教のグループ作りをしています。大森、蒲田、横須賀3教会がイエスさまを伝えるためにどのような形をとれば良いかということについて話しあっていきます。この3教会で、グループを組んで宣教していくことは総会で承認されました。それぞれの歴史があり、イエスさまを伝えていく方法の違いがあります。これからは、その違いを語り合い、対話しあいます。そしてそれぞれの思いがシンフォニーとなっていくこと、心が一つになっていく、祈りがささげられていくなかで、主はいてくださり祈りを聞かれます。自分たち自身が違いを超えてこそ、イエスの名によって集まるのは、感謝のうちにイエスの教え、愛、正義、平和などを実現することができ、「なぜ、宗教、民族の違いによって戦争が起きるのか」という問いに答えられます。これこそが、和解の道です。

「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」シンフォニーを奏でながら-心をひとつにして-教会が時代に応える新しい歩みを共に宣教し、イエス・キリストにいたもう交わりを感謝し、祈りをささげて、教会が和解の道を創っていきましょう。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

新型コロナのパンデミック以降、世界は大きな変化をしている。それは決して、明るい出来事ばかりでなく、いやむしろ私たちの心を闇に落とすような出来事の方が多く、私たちの生き辛さを強くしていると感じる。

産みの苦しみをしているが、それは当然なこととして受け止めて、眼をそらしてはいけないと思う。それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。ローマ書5:3-5のパウロの言葉を思い出す。たとえそうでなくても希望をもつことである。すべてに神の愛が現れますようにと。

 園長・瞑想?迷走記 

 「パンのむこうに」(園だより)

「人はパンだけで生きるものではない。」   ルカによる福音書4:4

年長さんのりんご狩りの旅、みんなでの運動会、芋ほり遠足、クリスマス・ペ-ジェントと行事が続き、行事を通してどんな成長を子どもたちがするのか期待の二学期が始まります。

今月の聖書の言葉は、少し、受け入れがたい言葉です。食育が整わなければ、こどもの体も心の成長もありません。どんなに栄養バランスが整った食育であっても、食の内にある心が大切だと思います。イエスさまが「パンだけ」と言う「だけ」という言葉にそのことが込められているのではないでしょうか。

家内が看護学校に通っているときに、出来るだけ家内に休んで欲しいと子どもたちと私は一日の活動で大切な朝食を作りました。早く起きて小学生の長男はロールパンを自分で焼いていました。朝食に彼のパンが出されます。それはパンだけが置かれているのでなく、母を労わる心が、子どもたちの心があったのではないでしょうか。パンの中にある愛が、家族皆を元気に生かしてくれました。これが、「人はパンだけで生きるものではない。」ということではないでしょうか。

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日毎の糧 

聖書: 御覧ください/わたしはあなたの命令を望み続けています。恵みの御業によって/命を得させてください。 詩編119:40

ルターの言葉から

   わたしたちの救いと生のすべては神の哀れみのうちに置かれ、包まれている。わたしたちが現にあり、生きているのはただ恩恵によるのである。        『卓上語録』M.ルター著、植田兼義訳、教文館

 

神の恵みのみ業によって

 今、自分の歩みを振り返ると常に神の方には向かわず罪の中にいながら、信仰を与えられ、同時に「わたしはあなたの命令を望み続けています。」というように神に向かっていたと感じています。同時性が信仰の歩みだと思う。この同時性の働きが、神の御業である。神の恵みの御業を感じ与えられるのが信仰者の歩みである。

わたしはあなたの命令を望み続けていますとは、神の律法を望むことです。月本先生は、「律法は神ヤハウェの『義』であり、『真実』であり、『慈愛』にほかならない」と119篇の解釈で説明されています。神に向かい、私がどうあるべきかという命令、律法を望み続けることは神の恵みの御業、神の慈悲を自分が与えられることです。

こうあるべきであると神が命令、律法をくださることは、義務でなく、私を生かしてくださっている神の慈悲が与えられるとき、もはやこうあるべきであるということから解放され、私は神の慈悲によって、そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。マタイ25:37-39と律法を喜んで行っていたという人に変えられているのです。

祈り:神の慈愛、恵みによって、私たちを整えてください。

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大森通信

「引退の準備」 4.整理  

70歳を迎えて、「メメントモリmementomori 汝、死すべき者であることを覚えよ」ということが実感出来るようになり、死を意識するようになった。

ある方に電話をすると、「先生、うちの○○学園長が天に帰られたのを知られて、お電話をくださったのですか。身内だけで葬儀は終わり、後日、偲ぶ会をします。」、また、「話は変わりますが、○○さんのご主人が天に帰りました。まだ葬儀に日程はきまっていません。」というような話が返ってくる。私たちの年代ではいつ起きてもよい話しである。

小田部進一氏の「ルターから今を考える」という本の中で中世のルターは、死に臨んで儀式でなく、「もはや教会的・宗教的儀礼ではなく、信仰者自身の神との祈りにおける関係性である。」、「ルターが最後に語った言葉の多く、・・・暗唱した聖書の言葉であった」と書かれている。死を前にして私たちがルターから学ぶことは私を支えていたみ言葉を心から自然に発しえることもかもしれない。「その最期は、体の痛みも死の苦しみもない、主のもとに眠りについた(ルター)安らかな死であった・・・・・プロテスタント的な『良い死』を体現した最期あった。」

聖書の言葉の整理である。自分を支えてきたみ言葉は何か、徹底的に整理し、いざというとき心の底から諳んじて語りえたいものであると思っている。さあみ言葉の整理。

大森日記)書記が整えてくださった役員会議事の用意。推敲だけですむ。)教会学校の礼拝、通常礼拝、祈り会、役員会、夕礼拝。)役員会議事録、礼拝YouTube配信が来ている。感謝。後任の方より正式に招聘応諾のきて安堵。)いつものように早朝の仕事を終わり、静岡に。引退の報告をして役員退任を申請。)羽村幼稚園の労務管理で職員に対してお願いに出かける。これも引退前の最後の仕事と。二日続けて出かけるのは少々疲れるようになった。木)台風前の片づけ、気候はやはり変化している。)台風が近づく中で幼稚園では祖父母の会、帰る時は雨も止んでいて感謝。卒園生のお母さんが来られる。高松で近くの教会で洗礼を受け、家族で教会に行っているという。種蒔きの恵み。