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聖霊降臨後第14主日(9月11日)「見失われた者の回復」

主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。出エジプト32:14

わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。 1テモテ1:12~14

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。                                ルカによる福音書15:4~6

【説教要旨】「見失われた者の回復」

引退が実感できるところまで来て、正直、これからのことを考えると不安です。急に体調も悪くなり、先週は病院での検査の日々でした。また、体調不安の中で、もしかしたらということで、無理をして、大阪の長男に会いに行きました。幸い今んところ検査結果は、異常なしです。しかし、一向に体調は改善しません。自分を含めこの状態を誰も理解が出来ません。そういうときこそ、私たちはどこに立つかと言うことを問われます。

ルカによる福音書が伝えるイエスさまのメッセージは、「悔い改める」ということです。「悔い改める一人の罪人」というのが私たちです。

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罪(ハッタース)は、誤る-例えば矢が的を射そこなう場合に用いられている動詞からきています。誤った方向に向かっているのが私たちです。群れから離れた一匹の羊です。しかし、的を射そこなった罪人である私たちを見失った一匹を見つけ出すまで捜し回ってやまないということです。パウロは、「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。」というのです。私たちは、こういう存在であるという事です。罪と対応するのが「憐れみを受けました。」というパウロの言葉、「憐れみ」です。私たちが立つべきところです。ルターは次のように私たちに「憐れみ」について語ってくれています。

「主キリストが、失われた羊を自分の肩にのせ、群れのところに帰って来る羊飼いにご自分のたとえられたことほど、全福音書を通じても気高いたとえはほかに見いだせないでしょう。そして主は今日に至るまで背負い続けてくださっています。

それゆえ、福音の要点は次のとおりです。キリストの国は恵みとあわれみの国であって、キリストが私たちを担ってくださること以外の何ものでもありません。キリストは私たちの悲しみと弱さを背負われます。ご自分の上に私たちの罪を負い、私たちが倒れても忍耐のうちに待っていてくださいます。私たちはいつも主の肩の上に憩い、主も決して私たちを背負うことに疲れません。これは、私たちが罪の誘惑を受けている時の最大の慰めです。」

罪-的をはずれた生き方をし、イエスさまから離れた私たちを見失った一匹を見つけ出すまで捜し回ってやまないお方、イエス・キリストがおられるということに気づくことが「悔い改める」ということです。「福音の要点は次のとおりです。キリストの国は恵みとあわれみの国であって、キリストが私たちを担ってくださること以外の何ものでもありません。」というキリストの国を私たちが神によっていかされているということです。

パウロが、「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。」と語る時、私たちが強くなるのではなく、「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエス」によって強くれる、強くされている私がいるということです。

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イエスさまの第一声のお言葉です。

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。マルコによる福音書1:14~15

キリストの国は恵みとあわれみの国であって、キリストが私たちを担ってくださること以外の何ものでもありませんという日々を生かされているということです。

以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者であってイエスさまから離れ、冒涜、迫害、暴力をふるっていたパウロがいた。イエスさまを信じることが出来ないパウロがいた。パウロほどでなくても人生の途上にあって、起きる出来事の中でいつも私たちは神を、イエスさまを信じることが出来ないようなことが起きる。死をも覚悟しなければいけない大病であったり、人生における大きな躓きであったりします。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。パウロで起きた出来事は、私たちのところでも起きています。憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられて生かされています。

正直、体は辛いのですが、悔い改めて、私たちはいつも主の肩の上に憩い、主も決して私たちを背負うことに疲れませんということを主は感じさせてくださり、神の慈しみと溢れるばかりの信仰と愛によって、わたしを強くしてくださり、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝する者とされています。たとえそうであっても、疲れた重い一歩が踏み出せなくなるときも、一歩を踏み出すことが出来る希望にあって、強くされていきます。強くされる私を神は、イエスさまは、喜んでくださり、私たちは感謝を歩めます。

見失った一匹を見つけ出すまで捜し回ってやまなく、そして、見つけだし、喜んでその羊を担ぎつづけてくださるのが、神であり、イエスさまです。共に感謝の日々を歩めますように。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

 

エリザベス女王の国葬、なるほどうなずけるが、16億6千万円の経費が見込まれる安部元首相の国葬にはうなずけない。こんなお金を使って国葬する必要があるのかというのが正直な気持ちである。

「さまざまな分野で歴史に残る業績を残したこと」を政府は国葬の論拠に挙げているが、これについてそう印象にない。

「アベノミクス」の経済政策は、貧富の格差の拡大を生み出した。また、加計問題、モリカケ問題、桜を見る会、そして統一原理との関係などダークな部分の方が印象に残る。政治家の言うことすることは信用できないという寂しい心が深まった。

安倍元首相の時代は、さまざまのことで、「良心」ということを考えさせられた。そして、今も、私たちが問われているのは「良心」ということではないかということを再確認している。

安倍元首相の評価、その国葬は、後の歴史が評価するだろう。

園長・瞑想?迷走記

 

通園バスについて、名古屋時代、私の身近な園長が苦労をしていたのを思い出す。「バスさえなければ良いんですが」とよく言われていた。子どもがバスの中で置き去りにされて熱中症で亡くなったその通園バスの事故が今年も起きた。どうして、こんな事故が起きるのという事故である。だからこそ、これからも通園バスについては子供の安全が守られるように細心の注意を続けなければならない。

大森幼稚園もかつては、定員を確保するために園長が通園バスの運転していた時代もあった。現在、少子化で園の前を数台の他園の通園バスが通り、子ども確保のために努力されている。時代の変化で、また通園バスを走らせないといけない時代がきているのかもしれない。そんな時、危険も潜んでいることを肝に銘じておかなければとんでもないことが起きた後では遅い。

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日毎の糧

聖書: わたしは心を確かにします。神よ、わたしは心を確かにして/あなたに賛美の歌をうたいます。                   詩編57:8

 

 

ルターの言葉から

信仰において神に(真剣に)呼びかけ、祈る者はすべて聴き届けられ、願った時間、時期、限度、ものがおなじではないにせよ、求めたものは与えられる。それは期待したものよりもはるかによいし、誇りうるものである。・・・・・・・・神はわたしたちの祈りを確実に聞き届けて下さることをわたしたちは確信しなければならない。

『卓上語録』M.ルター著、植田兼義訳、教文館

私の心は確かです

 新共同訳の聖書と他の聖書を見比べると微妙に翻訳が違っています。57:8は多くの訳が「神よ、私の心は確かです。私の心は確かです」ですが、新共同訳は、「わたしは心を確かにします。神よ、わたしは心を確かにして」とあります。まず自分の決断があって、この決意を確かにするように、「神よ、」と呼びかけて、「わたしは心を確かにして」とします。心を確かにするのは自分だが、それだけでは、心を確かにすることはできず、「神よ、」と呼びかけることによって、神の力によって、心を確かにすることができると意味を取れるように思えます。

「心を確か」とは、信頼から生まれる心の平安を意味しています。

この詩編の表題は、命をサウロ王から狙われたダビデが逃げたときに歌われた詩編だというのです。危機にあり、心の不安があるときです。しかし、ダビデは命の危機にあっても心を確かと言うのです。その根拠は、「神よ、」と呼びかけることのできる方、神、イエス・キリストが共におられるからです。私たちもしばしば人生にあって、危機があります。しかし、私たちは危機にあっても呼びかけることの出来るお方がおられ、心を確かな平安の内に導かれます。神よと呼びかけることの恵みを感謝して、今週も「神よ、」と呼びかけましょう。

祈り:「神よ、」と常に呼びかけていくものとしてください

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」30

派遣神学生

東京・神奈川地区の教会には神学生が派遣されてきている。大森教会の一番目の派遣神学生は白石郁夫神学生であった。白石神学生は、金曜日の英語クラスの補助、教会学校の手伝いをされて、日本に不慣れな宣教師を支えておられたことをルンド宣教師は大森教会50年史に記されている。1958年(昭和33年)に按手を受け、牧師となった。白石牧師と同じ年に福本秀盛牧師も按手を受けた。また福本牧師が神学生のとき、大森教会に派遣されている。何かの縁であろう。

白石牧師は、霊性に取り組み、ドイツに霊性の学びで留学し、またフランシスコ修道会へ学んだ。その後、日雇い労働者の町大阪・西成・釜ヶ崎にある喜望の家の責任者にもなった。現在は熊本の老人ホームに入居されておられる。

白石牧師から現在の曾我神学生まで、30数名の神学生を迎えている。その中にはルーテル教会の総会議長になった者、徳善義和牧師のように世界的なルターの研究者になった者もいる。70年史の記念の議長、教区長挨拶文には、派遣神学生であった大柴譲治牧師、松岡俊一郎牧師が寄稿してくださった。

神学生たちは派遣された教会で、多くのものを感じ、多くのものを学び、多くの影響をうけて牧師になっていった。また、教会も神学生から多くの影響を受けていったことを忘れないでいたい。大山周治神学生からは現在も続く、教会の命ともいえる礼拝後の祈りの会を残していってくださった。感謝である。

 

(大森日記))役員会議事を準備する。)夏休みが終わり、すべての活動が再開した。聖餐式で出席者が増える。礼拝後、役員会。夕礼拝と時は流れていった。)夏休みを取って、新任地に就任した長男の大阪にある教会に行く。)教会の近くの聖徳太子に所縁の四天王寺を見、奈良に近いので法隆寺に行く。霊性を思う。)幼稚園の始まりで新学期の打ち合わせ。)午前中、羽村幼稚園に行き、午後大森幼稚園の打ち合わせ。夜、聖書を学ぶ会が再開。)健康診断を受けつつ、オンラインの会議、職員会議と続く。主日の準備は次の日に。