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聖霊降臨後第14主日礼拝(9月3日)「平和に暮らしなさい」

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23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」         マタイ16:23

【説教要旨】平和に暮らしなさい

現代世界が時々刻々と状況が全く変わってしまったことへの無理解、それが私たち大半の現実であります。だから、私たちは、日々、今が壊れていく平和を失っていくのではなかという不安と困惑、行き辛さを感じています。

ペテロという人物は皆さんもよく知っておられます。先々週は、「信仰の薄い者よ」と叱られていますし、本日の聖書の物語では、「イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』」と言われています。イエスの敵であり、イエスの業を邪魔する者であるとペテロは言われるほど今、置かれている状況を理解してない者であるということです。

しかし、この物語の前には次のような出来事がありました。16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。

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あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

この二つの聖書の個所の違いの鍵の言葉は、今日の個所は「人間のことを思っている。」、上記の個所は「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」

「イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』」

ペテロが自分のメシア像で、メシアが十字架にかかるはずがないと自分で強く判断した。それは、突き詰めていくなら神のことを思わず、人間のことを思っているときです。「あなたはメシア、生ける神の子です」とイエスに告白する。イエスこそが救い主であると現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだというときです。信仰とは人間の働きでなく、神が働いているということです。

これから起こる状況は、16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されるという受け入れ難い、また理解不可能な現実、ペテロにとって苦難の時がやってくる。しかし、「あなたはメシア、生ける神の子です」と現した人間ではなく、天の父がいてくださいます。不安と困惑、行き辛さを感じて困難な出来事があっても、天の父が、働いてくださっていて平和に暮らすことが出来るとイエスは示されるのです。激しく日々、時々刻々と理解しがたく変化していく時代にあって、嵐で漕ぎあぐねている私たちがいます。またこのためにどんなに誠実に思い、行動しても、神のことを思わないで、人のことを思う自分がいるということも決して忘れてはいけません。

しかし、それ以上に私たちの苦しみの中に神の働きがあるということを決して忘れてはいけません。それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさいと語りかけてくださるのです。

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時々刻々、激変する世界は大きな課題をもっています。環境の問題、貧富の差の問題、平和の問題と。どれひとつとっても私たちがどうにか出来るようなものではありません。しかし、ペテロの上に立てられた教会は、ここに集う私たちは非力です。自分が生きるだけで精一杯です。苦悩しています。しかし、キリスト者詩人、八木重吉の詩が聞こえてきます。

むつかしい路もありましょう。

しかしここに確かな私に出来る路がある 

救ってくださると信じ、わたしをなげだします。

あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだというイエスさまの言葉を信じることこそ、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 16:27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのであるという者にされています。

困難さのなかで、パウロの勧めを聞きましょう。

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

家内と一緒に伊万里、有田の窯を訪ねた。窯を開き、技術を高めたのは、朝鮮出兵の時に、秀吉に連れて来られた陶工たちであった。いわゆる現代史的には強制連行である。李参平は白磁を作り、伊万里、有田の陶祖として祭られていた。しかし、無名の朝鮮人の陶工の墓が、佐賀の地域にある。

今の伊万里焼、有田焼があるのはこのような歴史があったことを気づかされた旅であった。それが、今は批判されながらも今回のロシアによるウクライナ侵略戦争でも、ロシアが子どもたちを強制連行しているニュースを聞きながら、これを止めるのは政治力ではなく人間の心の問題であると思う。白磁の器を見ながら連行されてきた朝鮮の陶工に手を合わせた。

関東大震災から100年になります。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」、「朝鮮人が暴動を起こす」という流言、デマがひろがり日本人が自衛団を作って朝鮮人を虐殺したという出来事が起った。今、フェースブックで多くの流言が出て、どんなに人間の醜さを表し、悲劇を生み出すことも忘れてはいけない。

二つの出来事を通して、私たちが歴史を正しく理解していくことが私たちを人間たらしめ、人間の心を持つことだと強く感じている。

 園長・瞑想?迷走記              

夏恒例の園長先生の遊具のペンキ塗りが、この暑さで延期されていましたが、神さまの贈り物で31日の園長の誕生日に風もあり、やっと遊具のペンキ塗りを2日かけて出来ました。これが引退する園長の最後の夏の仕事です。

汗びっしょりの仕事にお帰りのとき、預かり保育の園児が、遊具を見て、「綺麗になった!」と労りの声をかけてくれました。気づいてくれるだけでも嬉しいものです。園児の労りの声に支えられてペンキを塗りながらよくここまできたものだと感謝しています。

新学期が始まる。あと数か月、無事に平和の内にありますように。

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日毎の糧

聖書:主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。 主よ、わたしを調べ、試み/はらわたと心を火をもって試してください。  あなたの慈しみはわたしの目の前にあり/あなたのまことに従って歩き続けています。 詩編26:1~3

 

ルターの言葉から

   この世は愛を避ける。なぜならこの愛はよき行為を神のためになし、この世は利益、名誉、報酬のためによき行為をするからである。この世は信仰が神の恵に信頼を必然的によせることを知らない。 それどころか、信仰は義を求める神の妄想にすぎないとこの世は批判するのである。

 『卓上語録』M.ルター著、植田兼義訳、教文館

その立場にたって

 この詩編は、自分が罪深く神の赦しがなければ、自分がないという赦しを乞う詩編が多い中で、自分の義さを主張し、「わたしは完全な道を歩いてきました。」と主張し、正しい神の審きを神に求めている。月本照男氏は、「両者の相違は、自らにふりかかる苦難や災厄の根源をどこにみるか・・・・・・・・・他者からのいわれなき嫌疑によって苦境に立たされたとき、それが深刻であればあるほど、人は自己の潔白を主張してやまない。」と言い、「人は自らの力では解決できない苦難に遭遇して祈りを学ぶ。あるときは自己の正しさを信じて『審き』を懇願し、あるときは己の罪の赦しを請う。」と続けます。

私たちは、私たちが置かれる立場が人とも違い、また人生の時の流れで違いもある。しかし、あなたの慈しみはわたしの目の前にあり/あなたのまことに従って歩き続けていきつつ、その時々、立場にあって、苦難に遭遇して祈りを学んでいく者ではないでしょうか。

主よ、あなたの裁きを望みますと神に向い祈りを学んでいきます。安心して行きましょう。

祈り:神に祈りを学びつつ、神の慈しみを確かめられますように。

 

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大森通信

「引退の準備」 3.整理  

引退は70歳です。よくよく心しなければならないことは、仕事を止めるということでなく、命の終わりが今今日、明日、いつ来ても可笑しくない時、人間を止める時が来ているということです。そんな思いで、命の整理にあたって、何をなすべきかということです。

家内と共に歩み、家内がくれた大きな慈悲を一つ一つ拾い、心に整理しなくてはいけないと思っています。

自分が先に逝くという前提です。まずは生活の安定を準備するということです。次に残された時間を家内に感謝して日々を暮らすことが出来るように神様の助けをいただき出来るように祈るということです。

先日、九州のお墓参りに行ったとき、時間があり、家内が福岡の能古島に行きたいと言うので墓参りを午前中から夕刻に変える。佐賀の有田、伊万里の窯に行きたいと言うのでそれを計画する。こんな小さなことです。私、子どもにくれた慈悲に応えていくこんな小さなことをしながら感謝の整理のときだと思います。

自分が家内と歩んで来た道を振り返り、自分がどんなに多くの慈悲を家内からいただき、支えられてきたという感謝の手を合わせつるときがきました。振り返ると慈悲をもらったことばかりが浮かび上がるのです。よく、ここまで来られたと、二人の関係は、死が分かつまで、人生を再び新しく歩みだす時ではないかと自然に思えるようになっています。

大森日記)地区会、地区長をやっと終わり、荷が降りた。お母さんのお腹にいるときから知っていたHちゃんの結婚式の司式を幼馴染の息子とする。時を感じる。)教会学校の礼拝、通常礼拝、夕礼拝といつものように。)本部へ負担金を納めにいく。)羽村幼稚園の運営委員会。次へのバットタッチ。)主日の準備だがはかどらない。木)掃除後、暑さもそれほどなく、風もある。誕生日プレゼントかな。遊具のペンキ塗り。事務の打ち合わせと二学期への準備をする。)引き続き遊具のペンキ塗り、外のテーブル、いすのニス塗り。引退前の最後の夏の作業。しかし、体力、気力は確実に落ちている。当たりまえかな。