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聖霊降臨後第13主日(9月4日)「神に聞くこと」

あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。                               申命記30:20

兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。                       フィレモン7

自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。         ルカによる福音書14:27

 

【説教要旨】「神に聞くこと」

厳しく受け入れがたいイエスさまの言葉と出会います。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。14:26」。ここでいう「弟子」は、いわゆる12弟子であるということで、弟子とは、イエスさまに着いていく人です。「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。14:25」とあるように。それは、キリストを信じるキリスト者、私たちです。ここで、字義通り習おうとするなら誰一人、無理であり、弟子、キリスト者たり得ないのではないでしょうか。

森一弘補佐司教は、次のように言われます。

「イエスの弟子となること。キリスト者になるということ。それは、価値の序列に目覚めることから始まります。仕事、家庭、自分、キリスト、神とならべてみると、これらはみな、わたしたち人間にとってたいせつなものばかりです。みな価値をもっています。しかしみな同じ価値とはいえません」(「神のやさしさの中で」 女子パウロ会)。

私たちにとって、価値のないものはありません。父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹にしても、ましてや命は大切な価値あるものです。しかし、キリスト者になるということは、そこに、キリスト、神が加わってきます。キリスト者になるとは、このとき、価値の序列に目覚めることが始まります。私たちが大切にし、価値あると思っているものと、キリスト、神は同じ価値あるものではないということが、キリストを、神を信じるということから始まります。

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「イエスは、最高の価値を天のおん父におきます。」と森司祭が言われるように、イエスさまは厳しい言葉をもって、キリスト者とは、どこに自分の生き方を決める価値を置くかを迫り、同時にここにこそ神の救いといつくしみがはっきりとあなたの血、肉となると私たちを招いておられるのです。

「イエスは、最高の価値を天のおん父におきます。そして、天のおん父の目で人間を見、社会を見ます。人間も家庭も、神に向かってこそ、はじめて真の価値をもつことができます。しかし、現実のわたしたちは人間的な愛情にひきづられ、神への方向を見失ったり、奪われたりしています。自分の一時的な目先の幸福や利益に目がくらみ、大きな価値を見失ってしまう時があります。

イエスのあとにしたがう信仰と愛の歩みには、しっかりと神を見つめるひとみが必要です。そして、遠くに輝く絶対的な価値から目をそらさず、自分をとりこにし、しばしば現実から抜け出るための激しい戦いに毎日毎日挑戦していくのです」、まさにこのような生き方をしたのは、ルターではないでしょうか。

宗教改革の讃美歌450に「わがいのちも わが妻子も 取らば取りね」とルターは詩っています。それは、わが命も、わが妻子という大切な、実際、ルターは、「わたしは妻ケーテを愛しており、彼女が私を愛するよりも彼女を愛していることを知っている。」、「子どもたちと遊んでいる時、ルターは『ああ、これは何という神の祝福だろう・・・』といった。」とあるように妻も子も大切な価値あるものと生涯をかけて愛を注ぎ込みました。しかし、「これらはみな、わたしたち人間にとってたいせつなものばかりです。みな価値をもっています。しかしみな同じ価値とはいえません」ということを良くわきまえた人です。

しかし、彼は、「神の恵みのみ」と言い切るとき妻や子たちからやってくる恵みと同列に置かないのです。神の恵み、慈しみに最高の価値をおくのです。

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「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」とイエスさまがおっしゃるとき、 自分の十字架を背負っている自分が、自分の十字架が、イエス・キリストの十字架によって背負われているということ、イエス・キリストの十字架によって、救われたと信じるものでなくては、神の慈しみの内を生きていることを信じる者が弟子であるということです。神の救いといつくしみをもって、わたしがあるということが弟子なのです。

ルターは生涯をイエス・キリストの十字架の神の救いといつくしみを深く掘り、「恵みのみ」という絶対的な価値から目をそらすことなく、自分を誘惑する日々の現実的なことと激しく戦い、挑戦していくのです。神の恵み、慈しみの確かさに支えられてキリスト者、ルターは誕生し、いきていったのです。

神のみことばは かたく世に立ちて         み霊とたまものは わがうちに溢る

というところに私の目を置き、神の救いといつくしみの目で人間を見、社会を見、人間も家庭も見てこそ、はじめて真の価値をもつことができます。ルターが妻、子をどんなことよりも大切にし、真の価値を見いだしたように。

教皇フランシスコが「いつくしみの聖年2016年」を実行したときの講話があります。(「いつくしみ 教皇講話集 ペトロ文庫」

「ゆるしの秘跡は、十字架から流れ出て、イエスがわたしをあがなっていつくしみの恵みを生活の中で新たにするゆるしの力を、一人ひとりにとって現実のものとしてくれます。自分の弱さを心配してはなりません。だれでもが弱さを抱えています。十字架にかけられたかたの愛の力を阻むものはなく、それを決して尽きることがありません。しかもこのいつくしみが、わたしたちの弱さを消し去るのです。

友であるみなさん。・・・・・・・・・いつくしみの福音は、わたしたちを作り変え、神のみ心に加えて・・・・・・私の全生涯は、すべてを新たにしてくださるキリストの愛によってかたちづけられるでしょう。」

変化厳しい社会で、私たちの価値観が問われています。それはキリスト者となるということが問われています。「いつくし」を生きる。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

1923年(大正12年)から99年目である関東大震災の日、9月1日を迎えた。それは、遠い記憶になっているが、東日本大震災(2011年)を経験した私たちからすれば、関東大震災がどんなものだったか想像が出来るのではないだろうか。そして、いつ来ても良い準備をしておかなければならない。

教会はいつも避難所になる準備に、具体的に取り組んでいかなければならない。東日本大震災後、真剣に行動を起こしてきたが、喉元過ぎれば熱さを忘れるというように準備を怠ってきているように感じる。記念日を機会にもう一度、見直しをしていきたい。

 

園長・瞑想?迷走記                  

 

そして、イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。         マルコによる福音書4:9

二 学期に入ります。多くの行事(年長さんは一泊保育の信州・清里へのりんご狩り、運動会、クリスマスの聖劇)があります。その行事ひとつひとつを、新型コロナ・ウィルス禍で行うには、大変な難しさがあります。 しかし、こういう難しい局面で、いつもどうするかを決定するとき、祈ります。

(泥んこ大会のお絵描き)祈りとは、神に聞く耳をもって、神の声を聞くのです。イエスさまは、はっきりと「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われ、私たちの進むべき道を示されると約束されています。

「どんな危機も、よい知らせを秘めています。それを聞くには、心の耳を澄まして、聴くことを知らねばなりません」とのフランシスコ教皇の言葉を思い出します。祈り、心の耳を澄まして、神の声を聴き、子どもたちの声を聴き、神に寄添われながら、二学期も子どもらに寄り添い、希望をもって、教育・保育を丁寧に行っていきます。                                 (9月の園だより)

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日毎の糧

聖書: わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。    詩編32:8

 

ルターの言葉から 

自分自身を無知の中に沈めよ。そうすれば、わたしの知識を与える。無知こそが真の知識である。自分の行くところがわからないということは、行くべき所が真に分かっていることである。わたしを知るならば、あなたは単純になる。アブラハムはそうして父祖の国を出たが、自分がどこに行くかは知らなかった。わたしの知識に自らをゆだね、自分の知識を放棄した。そして真の道を行き、正しい目標に達することができたのである。                 「7つの悔い改めの詩篇」

『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

 

行くべき道は神が教える

アブラハムは神の行けと言う言葉を聞き、住み慣れた地を行くところ知らずして旅立ったという。「アブラムは主が言われたようにいで立った創世記12:4」 私たちが計画したように行くべき道を私たちは行くのではないのが信仰者である。アブラハムを目覚めさせ、行くべき道を教え、いつも神に目を留められ、助言を与えてくださる神を信頼して歩むこと、大きな祝福を与えられた道を行くのが私たちの道である。

日本でフードバンクを最初の頃、設立したチャールズさんは神の声が聞こえたという。「『隅田川に行きなさい』という神の声が聞こえたのだという。東京の隅田川沿いには、いわゆるブルーシートのテント村がある。野宿者のために活動したいなら、そこで彼らと暮らしてみなさい、と«声»は言うのだった。まさか御冗談を。声を打ち消そうとひたすら祈った。だが、次の日も、また次の日も、同じ声が聞こえる。1996年、インドから日本に戻った。そして年が明けた97年1月、隅田川に向かったのだ」。この一歩が、日本でのフードバンクの道を開くものとなった。

祈り:神よ、私たちの行くべき道を教えてください。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」30

献身者

城南神奈川地区宣教委員会が開かれ、地区の教会のグループ分けをした。献身者が少なく、牧師が足らなり、牧師を経済的に支えられない状況で牧師招聘が難しくなっている。どう互いに協力をしていくかということである。

献身者が減るということは教会の成長が鈍り、宣教が停滞するということが容易に想像されたのは、1900年(平成2年)からで全国的に宣教方策が組まれてきた。

2000年(平成12年)になり、具体的に取り組みを始めた。そのとき、私たちの教会の徳弘浩隆牧師がプラン作成者として抜擢され離任した。2002年、「パワー・ミッション」と宣教方策が実行された。

その時代の献身者が小泉基牧師(函館教会)である。その後、「パワー・ミッション」は、活動を縮小していく。しかし、教会の今後の分析などはおおむね正しくされ、次世代の養成など、社会課題など今も、取り組んでいる。小泉牧師は教会の取り組むべき社会的課題に積極的に今も取り組まれている。

2011年に東日本大震災が起きて、社会が大きく動揺し、同時に構造が大きく変化する中で、震災、翌年に秋久潤牧師(小鹿、清水教会)が献身する。

新型コロナウィルス感染で大きく変化していく社会に宣教していくお二人が、どう取り組んでいかれるかを期待したい。小泉牧師は北海道教区長として、秋久牧師は新たな宣教方策づくりの若手の牧師として選ばれている。大森教会は、時代、時代にあって、献身者を生み出している歴史がある。

(大森日記))地区会。新たな宣教状況への対応の会。組織をどうすべきかよりもどう隣人に仕えていくかを協議したい。)病気の方もおられるが、礼拝出席がZoom出席者と同じである。)夏期長期預かり。礼拝、事務処理後。休みをとる。)週報の発送などをして終わる。)アメリカに引っ越すoちゃんの最後の幼稚園、お別れの挨拶のみに幼稚園にいる。神の慈しみを祈る。)羽村幼稚園に行き、ややこしい職員待遇改善書類を作る。保育者の幸せを願い。)幼稚園は二学期を出発した。みことば「私はα(はじめ)でありω(終わり)を説教。