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聖霊降臨後第11主日(8月13日)「平和をあきらめず」

すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。     マタイ14:28

【説教要旨】   平和をあきらめず

夏になると水泳教室があるのですが、病気をしたため泳ぎを習えませんでした。だから泳ぎは、へたで、むしろ、泳げないといってもよいのかもしれない。どうしても自分の体を水に任せられないので、足が届くところでは泳げるのですが、もうとどかないと感じると泳げなくなります。

児童養護施設の牧師をしていたとき、毎年夏のキャンプがあり、大分で有名な竜門の滝というところでキャンプをしました。滝つぼの足の届く浅瀬で泳いでいたのですが、職員が「牧師先生、そこは深いで」と言われたとたんに溺れだした記憶があります。

人は自分の足で立てるときはどうでもできるが、しかし、いつも自分の足で立てるとは限らない。自分の足で立てないような困難さに出会うことがあります。しかし、私たちはこのような困難さの中にあっても実は神の慈しみのうちに繋がれています。神の慈しみに繋がれている私たちがいるのです。神の慈しみは神からやってくる。

舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。

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「助けはいずかたより 来るたるか」(詩篇121:1、讃美歌333)と問うた信仰者がいます。そして、こう答えます。「天地のみ神より 助けぞわれに来る」。

この物語は、このことを伝えています。

イエスさまからやってこられるのです。解決できるような力は私たちのところにはない。イエス・キリストの中にあり、イエスが近づいてくるのです。そして、イエスと繋がるのです。

だからペテロは。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と願い主のもとに行こうとするのです。そして主イエスご自身も「来なさい」と答えてくださいます。

試練のうちに、困難のうちにある私たちはいつもイエス・キリストに繋がっています。繋がっている私は、イエスへと向かうのです。イエスさまはさらに「来なさい」と私たちを招いてくださいます。

イエス・キリストにつながれている、神の慈しみに繋がれている私たちは大胆な行動にでることができます。

ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。

なぜならイエスのもとこそすべての基があることをペテロは知ったのです。水の上を歩くなど考えられない大胆な行動にでたのです。

「イエスの方へ進んだ。」とあるように私たちが進むべきところはイエスのもとです。

しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだとあるようにペテロは自分自身がイエスの、神の慈しみに繋がっているということを信頼しきれなかったのです。強い風、それにともなう波の大きさ、彼は自分の目の前にある自分を脅かしそうな力の前で負けそうになるのです。

「主よ、助けてください」と叫んだペテロにイエスさまに叫んだのです。自分を支えるイエスの力、神の力に信頼出来ないことが起きる。しかし、ここにイエスさまはいてくださり、「主よ、」と私たちをイエスの方に、神の方に向かわしてくださる神の慈しみが厳然とあるのです。人がどうこうではないのです。

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イエスはすぐに手を伸ばして捕またとあります。なんという慈しみでしょうか。過ちを犯しても、犯しても、どうしようもない自分であっても、イエスさまはその繋がれた手をはなさない、いやつながれた手をこちらか離そうとするとすぐに手を伸ばして捕まえてくださるのです。

この憐れみに満ちたもうお方が共に私たちといてくださる。

インマヌエル、神がともにいてくださるのである。私たちはこのことを見逃さないようにしたいものです。

強い風で、怖くなり、沈みかけ、私たちの存在を脅かす不安な世界が、今、現実にあります。

ロシアのウクライナ侵攻はまったく世界を変えて私たちは不安の中に陥っています。地球温暖化、新型コロナ感染は、世界を震撼させ、不安のどん底に追いやりました。その間、人間の存在すら脅かしているインターネット技術の発達、人工知能AIの発達があります。強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫ぶペテロが見た世界が私たちにあります。しかし、私たちはこの現実の中で、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」ということが常に私たちの人生にうちにおきるのです。

信仰者のいきつくところは、自分の存在が脅かされそうになっても、たとえそうであっても「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」という方に自分を委ねていくことではないだろうか。

安心-平和をあきらめず、「主よ、助けてください」とイエスの方へ進んだ者とされるように、今の風が強く、私たちを怖がらせ不安に陥らせようとする世界だからここに立ち帰っていきましょう。

イエスの方へ進んだとあるように自分の歩みがいつもイエスに向かって歩みだすものでありたいと思います。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

先週は、8月6日の広島原爆投下記念日、9日の長崎原爆投下記念日の平和式典が行われた。もう78年という月日は、原爆がどんなに悲惨なものであったかという

事が薄らいでいると思う。同郷の小説家の平野啓一郎氏が、「戦争への想像力 瘦せ細った」と題で「いま、戦争のイメージから悲惨さが抜け落ちているように感じます。僕が子どもの時、映画『ビルマの竪琴』がヒットしました。ジャングルに若い者が放り出され、飢えや病でたくさん亡くなっていく。 そういう旧陸軍の悲惨な状況を描くことがなくなって、兵士たちを悲劇的、英雄的に描く作品が増えています。戦争に対する想像力はかなり痩せ細ったと思います」と言っています。

平和を作り出す人は幸いである。神の子と呼ばれるだろう。マタイ福音書5:9

 園長・瞑想?迷走記                                     

全国の幼稚園、保育園の園長さんが4年ぶりに集まり広島で、「平和」というテーマで研修会、総会を開きました。

被爆された塩冶節子さんの被爆証言を聞き、「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」という原爆死没者慰霊碑に刻まれた言葉をおもいだしました。「肝苦(ちむぐ)りさ」、相手のことを思うなら、その痛みを我がこととして背負えということを再確認し、心に刻みつつ、それをどう子どもたちに伝えていくのかということを考えました。広島教会のるうてる保育所の礼拝にでたとき、礼拝の最後に「平和の祈り」をいのりました。広島らしい広島だからという自然の祈りでした。こういう形で平和を伝えていくことが出来るのではないかと思っています。

被爆バイオリンの演奏を聞き、広島教会の活動、「こども食堂」の話、見学ができました。

やっと外へ出かけ、色々と学ばべた時間となりました。台風が近づき冷や冷やでしたが。

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日毎の糧

聖書: わたしはまた王たちの前であなたの証しを語って恥じることはありません。     詩編119:46

 

  この詩編の言葉は、ルーテル教会の信仰告白となっています   『アウグスブルク信仰告白』の扉に印刷されている詩編の言葉です。

1530年の6月25日、当時のドイツ帝国の、総員400名ほどの議会、いまよりもっと実力がものをいう時代の議会で、400人中たった16人の代表が、あの信仰告白書を提出したのです。「真実をわたしの口から奪わないでください」という今日の詩篇の中にもありますが、この言葉も彼らの思いの中にあったことでしょう。この真実を私たちは捨てることができない。たとえ皇帝をはじめとする圧倒的な諸侯たちの武力によって私たちの領土が失われようとしても-私たちの命をかけても、真実を奪わないでくださいというのが、この時の十数人の諸侯の都市代表の気持ちだったと思います。「私たちは王たちの前であなたの定めあるいは、あなたの証しを告げて決して恥とすることはない」というのです。                                            『マカリオス-至福』徳善義和 聖文舎

主に従う

 私たちが主に従うことは、私たちにとって幸いだと思います。幸いの中で主に従うという課題が与えられているのだと思います。その主に従う幸いな課題を、私たちは主のお言葉の中からきょうも聞き続けていきたいと思います。日々新しく聞き続けていきたいと思います。新しく聞くことのチャンスを与えられることは、主の大きなお導きだ、お恵みだ、とそのように思います。そして主に従う、自分を捨てて主に従う、自分で自分に「おまえさんは知らない」と言い切るほどに、主に従って生きる生き方に一歩一歩、歩み出していきたいと思います。日々の歩みの始まりはきょうです。そのことを思いたいのです。「神のキリストです」というあの信仰告白に、私たちも声を合わせたい、アーメンと言いたい、そう思います。                                      『マカリオス-至福』徳善義和 聖文舎

祈り:朝今の時代だから主に従うと告白できるものとなりますように。

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大森通信

「引退の準備」   伝道45年

4.共働牧会・・・9.「共に」   

共働牧会で、もう一つの共に働くことが出来るのは、教会がもっている諸施設とであると思う。

先日、ルーテル幼稚園・保育園連合会の総会、研修会に出席をしたとき、気づかされたのは、幼稚園等を宣教の場と考えるのでなく、共に働く場と考えるという事である。

「こども食堂」の紹介とその体験をした。講師の立野牧師は、「子ども食堂」は貧困対策でなく、地域のコミュニティーの回復の場であると言われているのが心に残った。

広島の谷の百合幼稚園では、月一回、「こども食堂」を開いている。壊れかかったコミュニティーを回復するのは地域にある幼稚園の役割だとつくづく思った。教会、幼稚園が協力、共に汗をかいていくらでも、地域への協働牧会が出来るのではないかと思った。

地域に開かれた教会、施設と言うとき、地域に教会、施設が仕えていくことだと思う。「こども食堂」は一つのヒントだと思う。

49園中、26園の幼稚園、保育園の責任者が集い、キリスト教教育・保育を考え、社会にあってどう私たちは責任をとっていくのかということを共に語りあえた時だった。8月後半、宗教法人、社会福祉法人、学校法人、幼稚園・保育園の4法人が集まり、研修会を開く。この時も協働にあって、社会に応える法人の連帯となりたいと思っている。

大森日記)主日の準備終了。)教会学校の礼拝。夏季聖書学校でK牧師が説教、講師をしてくださり感謝である。みなさんの協力をいただき無事に出来た。夕礼拝。)幼稚園の仕事も終えて、ルーテル幼稚園・保育園連合会研修の準備のために台風に備えて先に広島入り。)総会、研修会。「平和」について考える良き時となる。各地域、各園と親しく交わりをする。安心して会長を次へ。)通常の仕事。天候が変化していく。)暑い。今日までが預かり保育。緊張。)今日から預かり保育が盆休み。台風が近づいているのが気になる礼拝となりそうだ。