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新年礼拝(2023年1月)「人の計画を超えるもの」

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。     コヘレト3:11

わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。ヨハネ黙示録21:3-5

そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』            マタイによる福音書25:40

【説教要旨】「人の計画を超えるもの」

明けましておめでとうございます。2023年があけました。しかし、昨日の時間の続きに過ぎず、なぜこの日だけをおめでとうございますというのでしょうか。時間はクロノスとカイロスと表現します。クロノスは私たちがいう何時何分という時間です。過去、今、未来と連続していく時間です。カイロスは、決定的時、特別な時を意味します。1月1日は、特別な時、カイロスなのです。12月31日の次の1月1日というクロノスの時間であると同時に2022年から2023年へという変わる決定的な、特別な時、それが1月1日、元旦です。

この決定的な時に未来を決めていく時ですが、2023年も混迷な時、先が見えない決定的時に始まるいう時、カイロスを迎えました。私たちに与えられたみ言葉はコヘレト(伝道の書)、「すべてに時がある」という皆さんがご存じのみ言葉です。ここで言われている時はカイロス、決定的な時です。2生まれる時、死ぬ時と。人間誰もが決めることの出来ない決定的時、カイロスです。そう考えるとクロノスを生きつつ、私たちは決定的時、カイロスを生きているということです。私たちの始めも終わりも私たちがどうしようも出来ない力によって生きているということです。コヘレトは、「神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」と私たちに告げます。私たちが知恵を尽くそうが、力を尽くそうが知ることも変えることも出来ない時を生きるのです。だから、この不思議を、コヘレトは神のなさる業というのです。そして、「永遠を思う心を人に与えられるとは、神のなさる業を思うことです。なぜ、混迷した、先が見えない時を私たちは生きなければならないかと問うでしょう。しかし、この時も神のなさる業が動いているのです。ヨハネは次のように私たちに言います。

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わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。

神は私たちのクロノスという時の間に共にいてくだる、神が人と共に住みたものです。これが神の真実です。神が共にいてくださり、私たちに新しい出来事を必ず創造されるカイロスという時、万物を新しくする時を与えて下さいます。これも、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」のです。

私たちが歩みだそうとする元旦の日、神のなさる業が動いています。コヘレトの成立した時代は、戦いが絶えない、不安定で先が見通せない、多くの苦しみ、涙がありました。しかし、コヘレトは、この時も人が見極めることの出来ない神の業が働いていると私たちにも告げてくるのです。だから、ヨハネが伝える、見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったという神のなさる業を見たのです。

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12わたしは知った人間にとって最も幸福なのは喜び楽しんで一生を送ることだ、と13人だれもが飲み食いしその労苦によって満足するのは神の賜物だ、と。

飲み食いという日常茶飯事、この小さな出来事も神に与えられたことを感じ、喜び楽しめるのです。今日を生かされている喜びの表現です。今日を神に生かされている、ここに私たちは自由がある。

キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも服さない。(キリスト者の自由) 混迷し、先が見えない多くの苦しみ、涙がある。へこたれる。しかし、ここに神がいてくださり、へこたれたこの時、クロノスをカイロスとしてくださる神のなさる業がある。だから私たちは、それでもともかく、歩き出す自由があります。同時に、キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する。(キリスト者の自由)

「自分だけ 生きるのでなく みな共に 手をたずさえて」という生き方、『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』という存在の自由な人となるのです。

2023年が決定的な神の時、カイロス、意味ある時とされています。もう一度、立ち上がりつつ、歩き出すように神が共にいて、私たちには見極めることの出来ない時、「見よ、わたしは万物を新しくする」時、カイロスを日々生かされつつ自分だけ生きるのでなく、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのであるという恵みをいただいていきましょう。

参考本:「すべてに時がある」 若松英輔、小友聡 NHK出版、「それでも生きる」小友聡 NHK出版

「もう一度歩き出すために」伊集院静 講談社 『ルター著作集第1集 2『キリスト者の自由』』 徳善義和訳 聖文舎

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牧師室の小窓からのぞいてみると

2023年はどんな日々になるかと聞かれれば、2022年と同様に激変し、混迷した日々が続くでしょうと言うでしょう。牧師室の窓からのぞいてみても明るい景色は見えてこない。

外を見れば見るほど老いた私は今の価値観とは相容れなくなって来ているのに気づく。ここにいてはいけないのではないだろうかという気持ちに襲われている。

しかし、もう一つの窓をのぞいてみると変わらない景色が見えてくる。神は私を、私たちを愛してくださっているという景色である。この二つの景色は同時に起きているということを忘れずに2023年を牧師室の窓からのぞいてみたいと思っている。

 

園長・瞑想?迷走記

2022年の最後の子どもたちへの礼拝での話は、三人の博士であった。

騒いでいる子どもたち、「ねえ、ねえ。預かりのカンガルー組さんだけに良いお話をするよ。お耳を向けてくれるかな。さて、三人の博士はイエスさまのところにやってきたのは何月何日?」。子どもたちは元気に思い思いの日にちをいってくれる。

「じゃあ、教えるよ。いいかな。一月、六日だよ。」、「もう一つのクリスマスというんだ。」、「クリスマスが二回ある。嬉しいね」

子どもへ話しながらいるこの一瞬は牧師・園長の楽しいひと時、宝物だ。この一年も三人の博士が神さまに導かれたように、みんなも導かれた感謝の気持ちでいっぱいであった。

子どもたち全員が帰っていった午後6時30分、無事に終わったと安堵の気持で、幸せを感じる一瞬でもあった。一年を感謝。

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日毎の糧

聖書:主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう。          詩編27:1

ルターの言葉から

 詩編は、苦しみの中にあるキリスト者に力を与えます。悩みのときに慰めを与えて、背骨がおれないようにし、引き続いて希望と忍耐のうちに歩むことができるようにしてくれます。 このようにして、主はすべてのキリスト者を導かれます。これが主の道です。               (聖ペテロと聖パウロ記念日の説教)                   『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

 

おののくことがあろうか

 混迷し大変化していく社会が引き続きあるとおもわれる中で、2023年も決して私たちの日々が平凡のうちにあるとは誰もがいえません。しかし、こういうことは歴史を振り返ってみるとあったのです。今だけがこうではないことを私たちは覚えたいのです。 コヘレトは「今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。3:15」と言います。

コヘレトは「わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。3:14」とも言います。神がなさる事は永遠に変ることがないとはどういうことでしょうか。ルターは、「詩編は、苦しみの中にあるキリスト者に力を与えます。悩みのときに慰めを与えて、背骨がおれないようにし、引き続いて希望と忍耐のうちに歩むことができるようにしてくれます。 このようにして、主はすべてのキリスト者を導かれます。これが主の道です。 」というのです。背骨がおれないようにし、引き続いて希望と忍耐のうちに歩むという言葉はいいですね。慰められます。2023年も、どんなことが起きようともう一度、歩み出すように神は私たちの背骨を支えてくださっています。

祈り:新しい年もおののきつつも一歩を歩みだす日々でありますように。

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大森通信

「引退の準備」

伝道44年  正月

 元旦は、私にとって特別な感じがする。 神学生の時、牧師になれないと思い、神学校を辞めようと思ったことがある。

家庭教師をしていた子どもたちを連れて、除夜の鐘の音を聞き、明治神宮へ行く、そのときたまたま持っていた本が親鸞の「歎異抄」であった。たとえ法然上人に騙されて念仏して地獄に落ちても後悔しない。自分は地獄にしか住まいのない人間。「信じるほかに、別の子細きなり」と言い切った親鸞の言葉に目が覚めた。何を思い悩むか、所詮、救いの外にしかないお前だろう。「私、(キリスト)を信じて、生きなさい」というキリストの声を聞いた。決して、一筋に信じ切って、ここまで来たわけではないが、自分では背負いきれないものがあり、悩みつつも、地獄を一定するしかない罪人である私は「信じるほかに、別の子細きなり」というところに呼び戻されてここまで生きてきた。思い悩むこともずっと続いているが、「信じるほかに、別の子細きなり」である。

重圧に倒れそうになったら、讃美歌の一節を口ずさむ。「 唯(ただ)信ぜよ 唯(ただ)信ぜよ」と自分に言い聞かせる。

それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」      ヨハネによる福音書20:27-29

(大森日記))クリスマスイブ礼拝、60名ばかりの地域、幼稚園関係、教会の方と守る。コロナ以前と比べれば少ない人数だが、ちょうど良い人数だった。時が過ぎれば遠い物語となる。)クリスマス礼拝、約50名の出席者。幼稚園の先生もお子さんを連れて出席。家族的になった。神学生は故郷へ、ご苦労様でした。礼拝式文、週報原稿を作る。何事も早めに。)事務締めにH幼稚園に行く。)幼稚園、学期最後の日、無事に終了。緊張がほどける。感謝。)いつもと変わらないが、年の瀬。)y兄のお子さんの幼児祝福式。元気に育ってくださいと祈る。