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招き 5月1日礼拝

9:3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。 9:5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 9:6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」                                              使徒言行録9:3~6

5:13 また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊とに、/賛美、誉れ、栄光、そして権力が、/世々限りなくありますように。」 5:14 四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。                           ヨハネ黙示録5:13-14

21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。 21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。             ヨハネによる福音書21:18―19

【説教要旨】   ペテロ、パウロの召命

聖書日課は、ペテロとパウロの召命の聖書記事です。ペテロについては正確に言えば、新たな宣教への召命記事です。ペテロの一回目の宣教への召命は、イエスさまが宣教を開始始めた直後に、ペテロを召命します。「1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。1:17 イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。 1:18 二人はすぐに網を捨てて従った」 そして、今日は復活直後の召命記事です。

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21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。 21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

では、「行きたくないところへ連れて行かれる。」とは、具体的にどういうことなのでしょうか。 ヤッフォでの異邦人伝道への召命です。

「10:28 彼らに言った。『あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。 10:29 それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。』使徒言行録」

「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。」

ユダヤ人にとって律法を破る行為です。ペテロにとって、越えられないものです。それは私たちが想像する以上の困難をともなう行為です。また、自分自身もユダヤ人という殻を破って変化しなければならないのです。社会からの圧力、自分そのものを変えていく恐れは、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれることです。

「『わたしはあなたのためには、いのちを捨てます』、その時のペテロの言葉は、どんなに善意にみち、真剣なものであったか・・・・。しかし、ペテロはイエスを置いて逃げてしまったのです。ペテロの中に生きている人間としての弱さ、卑怯さを、ペテロ自身どうすることも出来なかったのです。イエスを裏切ったという事実を否定することも告白することもできません。」①しかし、人が行きたくないところの大切な神の使命の場所にこんな弱い人間を神は召命するのです。しかし、弱いペテロを招くのです。 「ペテロは使徒として立つ前に、やはりこの裏切ったという事実を真正面からみつめなければならないのです。人間は弱く、醜いものです。あやまちや罪を避けられる人間は一人もいないはずです。人間のすばらしさは、あやまちや罪を直視して、ゆるしを願い、そこから立ち上がることにあります。あやまちを直視することです。イエスは、ペテロの三度の裏切り行為に、真っ向から向かっていきます。

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『わたしを愛するか』と三度たずねます。『あなたがすべてご存じです』 三度目の問いに、ペテロはすべてをイエスにゆだねます。ペテロの弱さも善意もご存じであるイエスさまの愛と憐みの上にペテロは再生します。」。イエスさまの愛と憐みの上に再生されたペテロゆえにイエスさまにとって大切な宣教、世界宣教、行きたくないところへ連れて行かれるのです。パウロも世界宣教を担い、キリスト教を確立した自分物です。彼はキリストを迫害した罪人です。「 12:9 すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」。弱さをよく知っていた人です。「こうしてペテロの新たな宣教の道が始まります。教会の活動は、弱い人間の真ん中に立って、その弱さを担い、ゆるし、支える復活されたイエスの愛と力強さの体験から始まっていたのです」②

私たちは今、行きたくないところへ連れて行かれていて、弱い存在です。弱いゆえに主は、ここに私たちを召命し、時代の弱さを担い、自分を変革することを求められています。このわたしたちをすべてをご存じである主の愛と憐みに生き、「私があなた方を愛したように隣り人を愛する」者、教会として新たな宣教の道が始まっています。

引用:①2(「神のやさしの中で」森一弘補佐司教、女子パウロ会)

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牧師室の小窓からのぞいてみると

「一方的にその言動から『与太郎はばかだ』と断じるのはつまりファシズムだ。言葉の世界で生きてゆこうとするのが落語ならば、そその与太郎なりのロジック分析してみろ。俺は小さな子供と接する時です、言葉を通じて向こうの価値観に触れようとしているんだぞと、・・・・」

(人生を味合う  古典落語の名文句  立川談慶 PHP文庫)、今の世界の最も欠けていることを言っている。「言葉を通じて向こうの価値観に触れようとしている」ということである。だから、一方的に断じ、力で抑えようとする。ファシズムとの戦いが現代かもしれない。

      園長・瞑想?迷走記

10:14 それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。10:15 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。10:16 そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。                                マルコによる福音書10:14-15

教会の庭にはチューリップ、すみれ、マーガレットの花が咲いて、私たちの心を慰め、穏やかにしています。新学期が始まり、もう一ヶ月が過ぎてしまいました。

イエスさまが子どもたちと一人一人のことをよく知られ、イエスさまの深い理解と愛のもとで子どもら一人一人がこの園で生活し、イエスさまに受け入れられ、子どもたち一人一人が心豊かにされていきます。キリストによって導かれている私たちの幼稚園は信じています。

イエスさまは子どもたちそのものをありのままに受け入れてくださいます。ですから私たちは子どもたちを型にはめる教育でなく、一人一人の個性を大切にしていく教育を基本としています。Must(であるべき)でなくbe(である)ということを大切にして、ありのままの子どもたちに寄添い、受け入れていくことこそ大変化していく21世紀初頭を生きる子どもたちが、強く、雄々しく生きられると信じています。          (5月の「園だより」)

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日毎の糧

聖書: 131:3 イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。        詩編131:3

 

ルターの言葉から

自分たちが助けてもらいたいときだけ、神に向かってその目的を言い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・物事が思い通りに運ばなければ、失望して、出来れば他に助けを求めようとします。 そういう人は神を待ち望みません。むしろ神が自分を待っていて、こちらの計画通りにすぐ助けられるようにしていなければならないと考えるからです。しかし、まことに神の恵みを待ち望む人は、神が助けてくださる手段と場所と方法を、みこころに委ねています。助けを得られないからといって、失望することはありません。しかも時や場所について指摘するということは、いっさいしません。どんなに遅れても、神にその手段、方法、時、場所をゆだねるのです。助けを指摘する人はそれが得られません。

待ち望み、神の計画とみこころと時の満ちることを信じて、耐え忍ぶことが出来ないからです。         四つの慰めに満ちた詩篇の講解

『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

母の胸にいだかれた

「131:2 わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように/母の胸にいる幼子のようにします。」 と新共同訳聖書は、意味訳して、神への信頼の姿を示しています。この詩編を表すような讃美歌として「主にある子どもはみ胸にいただかれ・・467番」があります。北欧系のデール宣教師、セタホーム宣教師は好んで歌っていました。デール宣教師は、「これは私の子守歌です」と言っていました。幼児の時に信頼し、委ねていくことの幸せを感じていたのでしょう。

信頼の幸せを受容した人は主への信頼への祈り、告白として、つい口ずさむのです。「主を待ち望め。」と。

祈り:主を信頼して、主を待つ望む幸をください。

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大森通信

「大森ルーテル教会70年史」19

北欧の讃美歌

私たちの日本福音ルーテル教会の母教会はアメリカ・ルーテル教会です。アメリカは移民社会ですから、多くの、特に初期はヨーロッパの移民から成り立っていました。ルーテル教会は、スカンジナビア、北欧の移民者によって作られてきた。

田園調布教会は、デンマーク移民のオーガスタミッション、蒲田教会は、スウェーデン移民中心の宣教団体・ルーテルアメリカ教会(LCA)、小石川教会はノルウェー移民、アメリカルーテル教会の宣教団体(ALC)で、大森教会はフィンランド移民のスオミシノッドである。ドイツ移民はミズリーシノッドでルーテル教団である。その他に北欧系移民のアメリカ同胞教会による日本ルーテル同胞教会がある。

ヨーロッパから直接は、大岡山教会のフィンランド教会の宣教団体リーフ、近畿ルーテル教会はノルウェー教会国教会、西日本ルーテル教会はノルウェー・信徒宣教団体、キリスト教同友会はデンマーク宣教団体、ドイツ奉仕女会を墓地としたフェローシップディーコン福音教団である。

現代のアメリカのルーテル教会も民族教会からアメリカ人の教会となり、1987年民族教会が合同してアメリカ福音教会(ELCA)を日本のルーテル教会も1963年諸ルーテル教会が合同し、日本に土着していった。宣教団体の色は消えているがいろいろな所で、宣教団体の文化が顔を出す時がある。

(参照:日本福音ルーテル教会百年史」、to-morrow 日本福音ルーテル東教区 )

(大森日記))イースター後の礼拝は落ち着いた中で行われる。午後から幼稚園運営委員会。)運営委員会を受けて、事務処理。)卒園児に入学、進級の葉書をやっと書きはじめる。)H幼稚園理事会準備の事務処理。資料のOA、IT化がどこでも必要。)花を植え替える。連休に入り、礼拝を一日、早く。聖書の学び。)連休後に園児が花、野菜を植えるのでその準備。また、主日の準備。同級生が九州学院院長に、一緒に苦労したS牧師が教区長に選任される。相応しい人選と納得。