復活第4主日 4月30日 人はみな草のごとく
あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。 Ⅰペテロ2:25 わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 ヨハネによる福音書10:10
【説教要旨】 「人はみな草のごとく」
それぞれが聖書を読み、心に残り、口ずさむ聖句がありませんか。今日の日課で言えば、使徒言行録では、「さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』」、ペテロへの手紙では「こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。」、ヨハネ福音書は、「永遠の命を得」という言葉です。讃美頌の詩篇23編は諳んじているのではないでしょうか。
み言葉が、それぞれが生きていくという中で私たちを導き、支えています。私たちの人生に初めがあれば終わりがあります。最初の葬式は大きなお屋敷を構え、金持ちのお宅の信徒さんでした。この方の葬儀後すぐに生活保護を受けていた方の就学前のお子さんの葬儀でした。飾る花もなく、教会の庭に咲いていたマーガレットの花をすべて刈り取って飾りました。いまでもあの時のマーガレットの庭を再現したいと思います。金持ちであれ、貧しい人であれ死は確実にやってきます。そして、その死は、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」ということであり、それぞれの限られた人生を振り返って見れば、「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。」ということです。
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しかし、私たちの人生は、振り返ってみると決して一人ではないということです。
あしあと(Footprints) 原作者 マーガレット・F・パワーズある夜、彼は夢を見た。それは主イエスとともに海岸を歩いている夢だった。空に彼の人生が次々と映し出された。彼は、人生のどの場面にも、二人分の足跡が残っていることに気づいた。ひとつは自分のもの、そしてもうひとつは主イエスのものであった。
そして人生最後の光景が映された時、彼は砂浜の足跡を見た。そこには一人の足跡しかなかった。それは、彼の人生で最もつらく悲しみに打ちひしがれていた時も同じであった。彼はそのことでひどく悩み、主イエスに尋ねた。
「主よ、かつて私があなたに従うと決心した時、あなたはどんな時も私とともに歩んでくださると約束されたではありませんか。けれども私の人生で最も苦しかった時には、一人の足跡しかありません。私が最もあなたを必要としていた時、どうしてあなたは私を置き去りにされたのですか?私にはわかりません。」
主イエスは答えられた。
「私の大切な子よ、私はあなたを愛している。決して見捨てたりはしない。あなたが試練や苦しみの只中にいた時、ただ一人の足跡しかない時には、私があなたを背負って歩いていたのだ。」
今日の讃美頌、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。」ということであり、「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」ということであり、私たちのその人生は、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」ということです。私たちの人生、命には主が来られ、私たちとあしあとを作られて、しかも豊かに受けさえていただくのです。
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確かに私たちの人生が、「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。」ということであっても、次のようにペテロは続けます。「・・・花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」と。福音として告げ知らされた言葉を聞いた私たちは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来た人と人生、命があるのです。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」ということです。
死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
若い時の私にとって薄幸にしか思えなかった幼き方の葬儀にも、「私の大切な子よ、私はあなたを愛している。決して見捨てたりはしない。あなたが試練や苦しみの只中にいた時、ただ一人の足跡しかない時には、私があなたを背負って歩いていたのだ。」と思います。庭のマーガレットの花を全て摘んだあの葬儀は私の中にいまでも慰めに満ち充実感があります。いつもあのような葬儀でありたいと。ここに「わたしが来た」、イエスさまが来たのです。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」、これが私たちの人生、命です。
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牧師室の小窓からのぞいてみると
2070年には少子化の影響を受けて出生数は年45万人なり、総人口の1割が外国人になるというう厚生労働省の研究機関が公表した。これは確実に国力が落ちるかもしれない反面、もう一つの側面は外国人をどう受け入れていくかによって、国力は落ちることなく維持できるかもしれないということも考えられる。
時代は大きく変化し、急激に動いているということが人口動向から分かる。さて、私たちはこういうときどうあるべきか。歴史に学ぶことであり、歴史としての聖書に向かいあうことだ。
園長・瞑想?迷走記
主(神)よ、お話してください。僕は聞きます。 サムエル記上3:9
2024年3月のイースターをもって、引退します。仕事の引退と共に子育ても引退だと思っています。
振り返ると子育てには、悔いることばかりです。子どものためと、思いつつも、「こういう子どもになって欲しい」ということは、子どもが望んだのでなく、ましてや、神が望んだことでもなく、私のエゴに過ぎなかったということへの深い悔いです。
私の思うようにいかない子育てに悩みつつ、神は、私をいつも神の方へ向かわしてくださいました。「主(神)よ、お話してください。」と神に何度、祈ったことか。いつも結論は、「僕は聞きます。」という神さまに委ねていくということでした。神は働いてくださり、子どもたちが、神の子として大きく成長させられているのを見せてくださいました。いつもこの子は、神さまの子ということを忘れないでいたからここまでどうにかきました。50%は責任を果たせたのではないかと思っています。私がどうにかしたのでなく、神がはなはだ良く成長さてくださったと神に悔いつ、感謝しています。
みなさんも子育てに悩んだときまずは神に手を合わせてみてはいかがでしょうか。神は答えてくださいます。 (「5月園だより」より)
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日毎の糧
聖書: 66:3 神に向かって歌え/「御業はいかに恐るべきものでしょう。御力は強く、敵はあなたに服します。」 詩編66:3
ルターの言葉から
それは、永遠の全能なる創造主が語られたみことばと、神の全 能です。「水は、いのちをもったはうものと、天の大空を飛ぶ鳥を多く生ぜよ。地は、生き物を種類にしたがって生ぜよ。家畜と、はうものと、地の獣とを種類にしたがって生ぜよ。」すべてを生み出すのは神の全能のみ言葉です。 1544年の説教
『マルティン・ルター日々のみことば』 鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社
神の数々の行為
神学生時代、山本七平氏、新見宏氏が日本語の監修をした聖書を歴史の資料として捉えていく 「歴史としての聖書」という映画を観た。聖書は聖典だと捉え、信仰を語るものだと思っていたうぶな神学生にとっては衝撃であった。しかし、聖書は歴史の資料であるゆえに信仰を語りえるものではないだろうかと思う。神は生身な人間が生きる歴史にいたもう。
詩篇66篇は、天地創造、出エジプト、バビロン捕囚というイスラエルの歴史を通して、さあ、見よ、神の行為の数々(66:5の月本氏訳)への讃美と感謝の詩篇である。歴史を振り返りつつ、今を生きる私たちに神のなされた行為の数々を私の歴史の中で見るとき、「歴史としての聖書」は、歴史的事実、作り上げられた歴史でなく、真実な歴史を通して、私たちが生きる時、場所に私たち信仰者に語りかけ、導いてくださいます。神に向かって歌え/「御業はいかに恐るべきものでしょう。御力は強く、敵はあなたに服します。」と讃美となるのが私たちの歴史です。讃美しつつ神により創造され、困難から出て、艱難にあっても解放される希望をもって一歩、一歩を歩んでいます。
祈り:私たちの歩みが神の数々の行為に支えられて希望へと歩みださえますように。
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大森通信
「引退の準備」 伝道45年 総会資料Ⅺ 「牧会Ⅵ」 教会成長の三原則、1.霊性 アシュラム 「アシュラム運動」は、E・スタンレー・ジョーンズ・メソジスト教会牧師が、インドのガンジーの霊性に触れ、影響を受け、イエス・キリストに徹底的に聞いていこうとする祈りの霊性運動で、日本では、榎本保郎牧師が運動を広げていった。 聖書に聞き、祈り、み言葉を共に分かち合うという霊性のひと時は、信仰の道を整えてくれる。 教会が今一度、霊性について再考するときだと思う。ルター学者、金子晴勇氏は、「こうして宗教が世俗化し、多元化した現代おいて、わたしたちは宗教経験の源泉に立ち返って宗教現象を再考しなければならない。この源泉はどこに求められるであろうか。ルターはそれを『神の前に立つ良心』における出来事として体験した。良心現象の中で神という超越的な力に直面して良心の自覚が起こる場合、それは『霊性』と同義あるといえよう。というは『霊性』は『宗教心』『信心』を意味するからである」と言っているように霊性は宗教心であり、信心である。アシュラムは徹底的に主はイエス・キリストでありと柱にする、ルター的には「神の前に立つ良心」、神の前に徹底的に生きるということであり、み言葉のみということである。信仰のみということになる。そういう意味でアシュラムは非常にルーテル教会に受け入れやすい祈りの霊性運動である。礼拝後の「祈りの会」は小さなアシュラムと私は思っている。この祈り霊性が大森教会に続く限り、教会は希望を歩める。 |
(大森日記)土)幼稚園運営委員会の準備。日)初期の教会を支えて下さったⅯ姉の転入式、感謝。幼稚園運営委員会、T姉が眠る横浜墓地での教区礼拝に行く。お祈りが出来てほっとする。月)Zoomで会議、用事の帰路足が強張り、痛む。火)整骨院へ。奥さんを亡くされて6年。よく頑張れた。水)病院へといくと座骨神経痛と言われる。医者が「僕もなりました」と言う言葉は薬より効いた。木)野菜を育てるポットの土作りをY兄がしてくださる。聖書の学び、癒される。鯉幟がはためく。