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復活日(4月9日)「永遠の命」

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天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」                                                                                                                 マタイによる福音書28:5―6

【説教要旨】 「永遠の命」

今日は,お二人のお子さんが洗礼を受けます。それぞれが4代目のクリスチャンです。お二人の前の世代、私たちは鉄腕アトムの世界を見て、漫画だけの世界だと思っていましたが、今、現実の世界になるなんて、誰が想像出来たでしょうか。

お二人が成長し、世界に責任をもっていく時代は、私たちが想像出来ないようなまったく違う世界があるでしょう。生物工学、情報工学などのテクノロジーはさらに発達し、人工頭脳が人間を凌駕する時代を生きるかもしれません。そのとき、何のために自分は生きれば良いのかを今以上に問われていくでしょう。

「ホモ・デウス」の著者が、次のように言っています。「私たちは21世紀にはこれまでのどんな時代にもみられなかったほど強力な虚構と全体主義な宗教を生み出すだろう。そうした宗教はバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズム(手順、計算方法)の助けを借り、私たちの生活を絶え間なく支配するだけでなく、私たちの体や脳や心を形作ったり、天国も地獄も備わったバーチャル世界をそっくり想像したりすることができるようになるだろう。したがって、虚構と現実、宗教と科学を区別することが難しくなるが、その能力はかつてないほど重要になる。」

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「虚構と現実、宗教と科学を区別することが難しくなるが、その能力はかつてないほど重要になる。」とは、今日のみ言葉の天使が婦人らに告げた「ここにはおられない。」という言葉が教えてくれています。

「ここ」とは、バイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズム(手順、計算方法)の助けを借り、私たちの生活を絶え間なく支配し、人間が人間を自分の思うように創り、神のような力を持つところです。それは、現実であっても虚構です。なぜならここにはおられないのです。誰がおられないのか。この方がおられないところには命はありません。私たちを生かす命はここにないのです。パウロは「地上のものに心を引かれないようにしなさい。」と言います。

では、私たちが心を引くものは?

恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。

私たちが心を引くものは復活された十字架につけられたイエスさまです。愛するイエスさまが十字架にかかり意気消沈し、絶望のどん底にいる婦人たちに、イエスさまは天使を遣わし、婦人たちに目を止めるのです。「天使は婦人たちに言った。」と。経験もしたことのない出来事、「復活なさった」という出来事を起こされるのです。

28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。

28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

自分の行く手にイエスさまが立ってくださる。そして、ごく普通のなにもなかったように「おはよう」と声をかけてくださる。ごく普通の日常、そしてこれから行く手は困難がともなうだろう。事実、教会は多くの迫害を受けることになった。しかし、イエスさまは「恐れることはない。」と慈愛に満ち、勇気を、救いを与えて下さる。絶望にある、イエスさまを失った者に復活された新しい命にある方が、近づき挨拶をかけてくださる。「おはよう」と。誰が見ても絶望と命の終わりしかないとき、神と私が断絶しているとき、ここから新しいことが起きる。必ず私たちに呼びかけてくださる。人生そのものを決して失うことはありません。私たちは終わりという人生―命を生きつつも、終わりでない古き人を超える新しい命が近づき、私たちの人生―命にさらに勇気を与えてくださるこれが復活であり、生命です。

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私たちが作った墓にいないのです。私たちもここにいないのです。「急いで墓を立ち去」るのです。たとえ人間の命さえ左右できるテクノロジーを手に入れても、墓であり、ここには私も、イエス・キリストもいないのです。ここには救いの喜びがないのです。喜びはここを去ることです。婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、と。

人は、イエス・キリストの復活を虚構と言うでしょう。しかし、イエス・キリストの復活こそ現実です。私たちは復活の命を生きるゆえに時代がどうであれ、時代に飲み込まれそうになっても、時代ということが求めるところに翻弄されることなく復活の命に生かされていくのです。さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。(コロサイ3:1-4)

虚構と現実、宗教と科学の区別がはっきりと見えます。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

統一原理、エホバの証人の問題からキリスト教への風当たりは厳しいものがある。そんな中で最相葉月さんがキリスト者135人から信仰とは何かと言うことを聞き取った「証し 日本のキリスト者 なぜ、神を信じるのか 角川書店」を出版した。キリスト書店でなく、角川と言う一般出版社からの出版は、信仰ということを聞きたい人が多くいるということではないだろうか。真正面からなぜ神を信じるのかという事を証しすることが教会に求められている責任は重い。

 

      園長・瞑想?迷走記

「新入園・進級おめでとうございます!」

キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。              エフェソ信徒への手紙2:17

2019年から始まった新型コロナウィルス感染が治まらず、様々な試練にあって、教育・保育の質を落とすことなくここまできました。さまざまな工夫をしながら子ども一人一人にとって、何がよりよいことか考えさせられた日々でした。試練にあっても、保護者と一緒に苦労し、ともにつむぎだしてここまできました。なによりも厳しい試練にあっても、み言葉のようにいつもキリストがおいでになり、私たちの歩みを共につむいでくださいました。私たちの教会の創立者ルターはペストの感染が拡大する街で、「しかし、キリストもまた、ここにおられるので、孤独ではありません。」と街の人々を励まし、試練にあって、街の人と共に希望をつむぎました。

希望をもって2023年の入園、進級式を迎えました。入園、進級、おめでとうございます。今年のルーテル幼稚園の主題は、「ともにつむぎだす~希望の中で~」です。

私たちは、お子さん、みなさんと新しい糸で紡ぎ、新しい歩みを新しい希望をもって、歩む1年でありたいと思っています。

神さまの恵みと祝福が皆様のうえに豊かにありますように。                                 (4月の園だより)

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日毎の糧

聖書: 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」                                            マタイによる福音書28:5―6

ルターの言葉から

  キリストはもうこの世にはおられません。ですから、キリスト者も、この世にいるべきではありません。だれもキリストを地上に縛り付けることはできず、またキリスト者を何かの規則で縛ることもできません。「ここにはおられない。」のです。主は、地上の正義、信仰深さ、知恵、律法など、この世に属するあらゆる殻を捨て去りました。完全に脱ぎ捨てられました。ですから、地上に現れるものの中に主を求めてはなりません。それらは殻にすぎず、殻は二度用いられることはないのです。パウロも「地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(コロサイ3:2)と言っています。あなたの命は隠されています。しかし、何かの箱の中にではありません。みつけられてしまうかもしれないからです。あなたの命は地上のどこにもおられない主の中に隠されているのです。                         1530年の説教 『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

永遠の命を得

 宣教師が残した旧会堂に刻まれた「永遠の命を得」というみ言葉は、「地上に現れるものの中に主を求めてはなりません。それらは殻にすぎず、殻は二度用いられることはないのです。」というルターの言葉のように、キリストを見、キリストをつかみ、キリストに向かって歩めと伝えたかったのでしょう。

復活日、もう一度、私たちは今という社会が大変化するとき、この世の殻に捕らわれるのでなく、今一度、、主・イエス・キリストに目をあげたいのです。パウロが「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。コロサイ3:1」と言われているように。

祈り:地上の大変化にあっても復活の主に目を向けられますように。

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大森通信

「引退の準備」

伝道45年  総会資料ⅸ 「牧会Ⅴ」

先日、本部に行った帰りに、三河宣教地区で、共同牧会を一緒に考え、実践した浅野牧師の牧師室を訪問した。先生も後3年で引退だと聞き、懐かしい思い出話をしで和んだ。

豊田市2教会、刈谷市、岡崎市各1教会、豊橋2教会、浜名2教会、途中で豊田2教会、刈谷市、岡崎市の4教会で西三河宣教地区を作り、共同牧会をした。牧師同士の牧師会の活発、信徒同志の交流、牧師、信徒の交流、1教会だけでは出来ない信徒教育、こどもの信仰継承、経済的助け合いなどがあった。東京では考えられないような教会間の深い交流だった。

浅野先生が担当されたのは信徒教育だった。信徒説教者の養成、信徒と牧師による共同牧会の講座だった。各教会から信徒も集まり、学び、各教会で実践した。

よく、二人でこれは良いと思うと出かけて行って教えを請うた。その中でルーテル教会で成長していた西明石教会の勝原忠明牧師を訪問した。先生の宣教学の博士論文で、「ルーテル教会は癒しの教会です。丁寧に落穂ひろいに徹する」と言われていたことを今でも大切にしている言葉である。1.みことば-ベテル聖研、2.相互牧会(隣人と共に歩み、世話)3.霊性-アシュラムということを三本柱にしておられた。浅野牧師は、翌日も先生から教えを請うた熱心さがあったが、私はすぐに帰った((笑))また、聖霊派の強い愛知県の教会が産業会館をかり開いたチョウ・ヨンギ牧師の集会に出かけた。しかし、とてもルーテル教会で受け入れられるものではないが、分かりやすいメッセージの発信は学ぶべきものがあった。よく二人で学びにいったものである。

大森日記)土)体調不良が続く。引退者の通る道か。)神学生とイグナチオ教会へ。ベトナム語の礼拝と思うが礼拝堂は一杯。母国語で聞ける礼拝は心の安定をもたらす。ブラジルでの日本語の礼拝を思い出す。)聖週間の礼拝が始まる。)聖週間礼拝、2日目。)預かり保育について、充実化をさらに図るために協議。先生が欲しい。)卒園生400名にイースターの挨拶の葉書を出し終える。みんな大きくなれ。)入園式、生憎の小雨。さあ、新たな出発だ。明日はY家の納骨式。