1. HOME
  2. 風のように
  3. 復活後第2主日(4月16日)「平和がありますように」

復活後第2主日(4月16日)「平和がありますように」

これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。                             ヨハネによる福音書20:31

【説教要旨】 「平和がありますように」

ヨハネは、「真理」を説いた福音記者です。養老孟司氏が、真理についての体験談を「『変わらないものは、なんだ』。それが私の関心事でした。学問とはいつ、どこでも変わらないもの、それを追うものだからです。それを昔の人は真理といいました。

いつのころからか、真理という言葉は死語になりましたよね。大学に勤めている人たちは、いまでは自分は真理を追求しているなんて、いわないでしょうね。謙虚だから、そんな大げさなことはいえない。それがふつうでしょうね。

私自身も『真理を追求する』なんていったこともないし、思ったこともない。でもこうして人生を振り返って、自分が『変わらないこと』を追求してきたんだと思ったときに『そうだよな』と自分で納得しました。それなら、昔風にいうなら、『真理を追求』してきたんです。自分でもビックリですよ。まさかと思うけど。」①と書いています。養老さんに限らず、人は結局、最後まで、「変わらないものは、なんだ」という真理を追究していくものだと思います。ヨハネはまさに真理を追究したものです。ヨハネは「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』14・6」というイエスさまの言葉を聞きます。結論からいえば、私たちの人生というものは、イエスさまそのものであり、『変わらないものは、なんだ』と言われると、イエス・キリストだということです。

-1-

「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じる」という「イエスは神の子メシアである」ということが変わらないものでありメシアとは救い主ということであり、私たちの存在は、いま、ここを生きるのは、救い主によって確かとなっていることであるということです。これを信じるということが私たちです。

「信じてイエスの名により命を受ける」とは、「イエスの名により」とは、イエスという方によりということであり、イエスという生きた方により私たちは命を受けるのです。

私たちはイエスの命に触れて生きるということです。養老さんが「人生を振り返って、自分が『変わらないこと』を追求してきたんだと思ったときに『そうだよな』」という『そうだよな』とは、キリスト教的にいえば、イエスの命を生きている自分に自分で納得することです。イエスの命に触れ、イエスの命の中を生きていなければ、聖書の言葉、物語は、過去の格言であり、過去の素晴らしい物語にすぎなくなります。

しかし、「信じてイエスの名により命を受ける」者にとって、イエスは今、ここにおられる生ける者になります。弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。弟子の中に来られここにおられ生ける者と立っておられる。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。イエスのわき腹に指を入れなければ信じない弟子トマスの前に、やはりイエスは現れてくださる。

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

-2-

マタイ福音書が、「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。1:23」というこの世に来られ新たな神の子が命をもち、十字架に架かりこの命を失ったが三日後、復活し新たな命としてお姿を顕しました。「そして、復活をめぐる事実として、何よりも重大なのは、復活のイエスを経験した誰もが、かつて肉体をもって生きていたイエスに劣らないほど近く、確かにその存在を感じ得ていることなのです。・・・・・・先に見たように師イエスの死を契機に弟子たちは変貌します。ただ、弟子たちは自分独りで新しい道を歩いていると感じたことはなかったと思います。・・・目に見えない姿をしたイエスが、いつも寄り添っている、そう感じていたように思うのです」②

トマスはこの後、インドに渡り、インドの貧し人々に、「イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」という事実を伝え、目に見えない姿をしたイエスが、いつも寄り添ってくださることを伝え励ました。復活の命を生きるとは、主・イエス・キリストが、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていたという恐れの扉を開いて下さるのです。時代は大きく変化し、私たちの今日を、将来をどう生きれば良いかという不安がありますが、『あなたがたに平和があるように』と私たちの真ん中に立っておられる変わらない真理を共に生きていきましょう。

 ①「養老孟司の人生論  養老孟司 PHP文庫 ②「日本人にとって キリスト教とは何か」 若松英輔 NHK出版新書

-3-

牧師室の小窓からのぞいてみると

羽村へは往復3時間かかる。そのおかげで読書の時間が出来た。今週は近所の古本屋で100円で買った「悪人正機」という吉本隆明と糸井重里の本を読むことが出来た。2001年にかかれた本で、それも吉本隆明という70年代を生きた者にとって共感を覚えるが、現代はこの人、誰という100円しか値打ちのない本の著者である。可哀そうになって購入したが、決して古い本でなく、今でも共感されるのではないだろうか。「自分だけがストイックな方向に突き進んでいくぶんにはかまわないんですけど、突き詰めていけばいくほど、他人がそうじゃないことが気にくわねえってのが拡大していきましてね。そのうち、こりゃかなわねえってことになるわけですよ。・・・・熱心すぎるほど取り組んでる人たちがいますけど、そんなの冗談じゃないよって思います。何かこう、みんなが同じようにそのことに血道をあげ、一色に染まりきらないとおさまりがつかないって人たちは、根本的の人間理解から違っているんだよってことです。」。はっと思わせられる現代の状況ではないだろうか。これは「正義ってなんだ」という項で書かれた。正義を振り回す大国が今、世界を不安にさせている。

「柔和な人は幸いである」というイエスの言葉が浮かぶ。。

 

      園長・瞑想?迷走記

 

先の本の中で、「理想の上司」という項で、もし自分の思うように部下が出来ないとき、「そういう時に『じゃあ、俺がやるからいいや』ってなっちゃうんですね。怒ったりせずに、黙って自分がやればいいって発想になっちゃうんです。

これは、上司っていうか、リーダーとしては失格なんじゃないんでしょうかね」という言葉にどっきとさせられた。徐々に幼稚園の事務、教会事務は人に任せてきているが、庭の掃除、手入れだけは逆に任せられなくなった。ここはこだわりがあるからだと苦笑いしている。

-4-

日毎の糧

聖書: いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいにに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。                    詩編1:1

ルターの言葉から

 自分のいかなる義にも信頼せず、自分の清さを糞土のように思い い、したがって清さのために争ったり、自己義認したり、自分のものとして要求することはありえず、自分のあらゆる増悪と罰に値すると見なすことである。それゆえにあなたがたがこの霊の言葉を聞き、その言葉の内実を見るためには、信仰の目と耳が必要であると、私は言った。   『第2回詩篇講義 ルター著作集第2集 3 竹原創一  LITHON

もう一つの生

 「義人と邪悪な者を比較して、前者の生涯のほうが後者より幸せである、と判定したからではない。義人が水辺の樹のように繁栄し、邪悪な者たちが麦殻のように風に散らされるさまを目にしたからでもないだろう。多くの嘆きの詩編に詠われるように、目に見える現実はおそらくその逆であった。そうしたなかで、あえて、社会に横行する策略や謀議に与しない人こそ『さいわいだ』と宣言したのである。ヤハウェの『律法』を心に刻み、決然と生きる人のなかに他に比類のない幸福の姿を見たからである。それは、利害損得に基づく応報思想の綱目ではとらえられなくても、神ヤハウェの義に身をゆだねて生きることを決断した人の目にはくっきり映る、もうひとつの生の事実である。」(「詩編の思想と信仰Ⅰ」 月本照男  新教出版)と月本先生が解釈するように世界が神のようになり、私たちに見せられる世界は、私たちの信仰の世界を凌駕する。しかし、私たちの目に見える生は、神の義に委ねる信頼、信仰の生です。ここに幸せがあるのです。「いかに幸いなことか」

祈り:神の義に委ねる幸せの生を歩めますように。

-5-

大森通信

「引退の準備」

伝道45年  総会資料Ⅺ 「牧会Ⅵ」

教会成長の三原則、1.みことば-ベテル聖研 

ベテル聖研は「ベテル聖書研究は、アメリカ・ウィスコンシン州マジソン市のベテル・ルーテル教会で、H.スイガム博士によって作られた聖書教育です。旧約聖書から新約聖書まで神の救いの歴史として系統に学ぶ聖書研究で、最初に牧師が学び、その後、受講を受ける召命を受けた信徒が、旧約聖書1年、新約聖書1年を牧師から学ぶのです。聖書教育を受けた信徒によって、み言葉に教会が整えられていくのです。実は福本牧師時代にベテル聖研が行われていた。着任一年後の1970年4月5日開始し、1975年にはスイガム牧師が講師の大会に出席している。

大柴譲治牧師の父・大柴俊和牧師は、ルーテル教会の牧師を辞し、ベテル聖研の専従の牧師となり日本におけるベテル聖研をリードした。2002年の武蔵野教会「むさしの教会だより」に「何十年も前よりこのようなすぐれたテキストを作り用いられたスウィガム先生をはじめ大柴俊和先生や皆様のご奉仕に心より感謝申し上げます。テキストに出て来る絵については時にはリアルな表現のアイデアや色におそれたり、ちょっぴりなじめない所もありましたが、適切なその概念に結びつき理解するには十分なものがありました。また、ベテル聖研でのテキストに基づくふさわしい説明も大いなる学びの時でした。この受講を終えて心に残るひと言と言えば、神との関係に生きる』事でした。これしかないし、これがすべてですね。」と感想文がある。

大森日記)人の命は分からない故Y姉のお孫さんのお嫁さんの納骨式、44歳。その子どもらは卒園生。)洗礼式にM君のお母さんの友人、Nさん夫妻がお祝いにきてくださった。Nちゃんは洗礼を受けて永遠の命にいる。感謝。)始園式、これで2023年の出発の行事は一段落。)園が動き出す。)教会、幼稚園の事務処理。)久しぶりの聖書の学びの開始。楽しいひと時である。)4時半に起き、黄砂も飛んでいるので庭の水撒きし、掃除。そして黙想のとき。時は美し。