待降節第4主日(12月18日)「恐れを受け入れる」
1:1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。 ローマの信徒への手紙1:1-4
1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。 マタイによる福音書1:18―25
【説教要旨】恐れを受け入れる
イエスさまの生涯を表したマタイは、「神は私たちと共におられる」と信仰をもって私たちに語っています。
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イエス・キリストの誕生の次第という初めは、「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は『神は我々と共におられる』という意味である。」と始まり、福音書の最後は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と結びます。
先日、不登校の子どもたちの療育施設だった「旧こどもの家」の再利用のために出かけました。施設の中に立って、こどもの教育施設の北海道家庭学校の校長、谷昌恒の講演がこの地であり、ここで励まされ、デンマーク福祉会の福祉事業に関わってきたことを思い出しました。北海道家庭学校創立者・留岡幸助は、校訓を「一路白頭ニ到ル」としました。若くして自分では背負いきれない重荷をもって、挫折して来た子どもたちにひとすじの道を、白髪頭になるまで貫き通すということを共に学ぶ施設としました。デンマーク福祉会の老人ホーム、子どもの諸施設、病院、牧場をみながら、ひとすじの道を、ここまで貫き通し、白髪頭になるまで貫き通すことだと感じました。
一年を終わろうとするとき、私たちは一つの道を貫き通して生きるのに難しい時代をよくここまで生きてきたと思います。では、私たちが一つの道を貫き通してきたものは何なのでしょうか。私たちが貫くものは、ひとすじの道、信仰に生きるということです。現実は信仰に生きるということは大変に難しい状況にあります。
クリスマスはマリアに目をやりがちですが、マタイはヨセフに目を向けます。ヨセフは、想像も出来ない処女降誕という出来事が起きたマリヤを嫁に迎えることに躊躇し断念しようとしました。誰しもヨセフの立場に自分が置かれたとき誰が処女降誕など信じることができますか。ヨセフを非難できるはずがありません。彼はここで悩み戦った。結果を聖書は次のように記しています。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使がめいじられたとおり、妻を迎え入れ」とあります。その後のヨセフの記事はマリアと幼子イエスさまを守るためにエジプト逃避で、福音の記事から姿を消していきます。夢からさめて彼はひとすじの道を生きました。マリアと幼子を守るというひとすじの道を生きた。「一路白頭ニ到ル」であったと思います。
かくもこのような重い課題を担いつつ、「眠りから覚めると、主の天使がめいじられたとおり、妻を迎え入れた」のです。
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「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」、「神が共にいます」とヨセフは信じたからです。ヨセフの「一路白頭ニ到ル」という一路。それは、信仰の道を生きることを天使によって与えらたものです。
ヨセフは人生の節々で「恐れるな」と神が共に生きて下さるというみ言葉を聞きつつ、主に従う一筋の道を生きたのです。ヨセフは、自分のいっさいの基準を捨てて、いや自分の心を断念して、ひたすらイエスにのみ頼み、心はイエスに支えられていったのです。それゆえ彼は自分を縛っていた世のもろもろから解き放たれ、「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使がめいじられたとおり、妻を迎え入た」のです。
私たちの生きている時代が大きく変化してこの時代は、反キリストの中にあります。何が正義なのかまったく分からなくなっています。何が真実なのか分からなくなっています。こういう世界に私たちは生きています。ここで、一路―信仰をもって生き貫くことはまことに難しいものです。私たちには深い恐れがあり、私たちを苦しめています。いいのです。苦しみ、恐れても。しかし、神は、ヨセフに顕われたように私たちの内に顕われて下さいます。インマヌエルー神は我々と共におられます。
いや、苦難と闇が深い所こそ、インマヌエル、恐れずすべての運命をうけいれなさいと神は語っていてください。
ヨセフが、一路、弱いマリヤとイエスの命を守り、救い主の父となった素晴らしい役目を果たしたように、私たちもインマヌエル、神は我々とおられるという信仰において、私たちの人生も救い主の命を守るような素晴らしい人生とされるのです。
恐れを受け入れる「一路白頭ニ到ル」でありたいのです。
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牧師室の小窓からのぞいてみると
新型コロナウィルス感染が治まらずに2022年も閉じる。
今年は、多くの方と死の別れをしたが、家族葬で終わりましたと亡くなった後で知らされることが多い。 葬儀は亡くなられた方を悼むものであるが、それ以上に亡くなられた方と自分の人生が輝かされた方々が癒されていくことであると思う。
亡くなられたことを知らされずに癒されることなく心に痛みをもったままで今年も閉じようとされる方は多かったのではないだろうか。
一方、新型コロナウィルス感染に客観的に対処出来るようになり、年末に参列者を制限しないお二人の葬儀が行われた。最後のお別れをした人達の顔は安堵に満ちたものであった。
悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 マタイによる福音書5:2
新型コロナウィルス感染の時代にあって、宗教の役割を何度も問い直された日々だった。
園長・瞑想?迷走記
長く行事の多い二学期は、クリスマス・ページェント(聖誕劇)で終わった。今年は子どもも保護者も一緒に聖劇の時間を過ごせた。やっと、ここまで漕ぎつけたという新型コロナウィルス感染禍の二学期の園長の気持ちである。
今年は、私立幼稚園連盟の不祥事、園バスの痛ましい子どもの死、最後には、保育園、認定こども園での虐待の事件であった。決して何もありませんでしたとはいえない重い一年であった。
正直、任の重さに潰されそうであった。しかし、一つ一つのことを丁寧に子どものことを中心にして、先生方、職員、運営委員、教会役員と当園ではどうすべきかを祈り、向き合った一年でもあった。いつも共にすこしでも良い園にしよと一歩を踏み出したい。
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日毎の糧
聖書: 【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。 詩編98:1
ルターの言葉から
これは、新しい国、新しい被造物、新しい人についての新しい歌です。それは律法とわざから生まれるのでなく、神と御霊から生まれるものです。神と御霊は私たちの主イエス・キリストにあって奇蹟を行われますが、神と御霊ご自身が奇蹟そのものなのです。 ここで聖霊は私たちのすべてに、歌うことを命じておられますから、私たちすべてのためになされ、また伝えられてきた奇蹟を信じるように命じておられる事実です。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(御霊は言われます)聞け、あなたのために、これはなされた。あなたが、歌い、感謝し、喜ばねばならない。これがわたしの喜び願うところである (旧約聖書のことば) 『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社
御霊と奇蹟
奇蹟は、御霊の業であり、神の業です。神は聖霊によって、マリアの処女降誕という業をなしてくださることによって、私たちの世界に奇蹟を起こして下さり、御霊をもって働いて下さる出来事を約束してくださいました。
2022年を振り返る時、新型コロナウィルス感染が治まらず、ロシアのウクライナ侵略は、人間の醜さを露わにし、そして、私たちの日常の生活を脅かせています。暗闇の世界です。しかし、クリスマスは暗闇の世界に神が奇蹟を起こしてくださった世界です。主は驚くべき御業を成し遂げられています。これに私たちは疑いと不信仰をもたないで、神の成し遂げられる奇蹟の御業に信頼してクリスマスを迎え、来る2023年も、新しい歌を主に向かって歌い日々を丁寧にご一緒に歩んでいきましょう。
祈り:新しい年へ向けて神の奇蹟に生かされていることを感謝できますように。
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大森通信
「引退の準備」 伝道44年 雪の積もるクリスマス 好きなクリスマス讃美歌に「雪は積もり 星冴え 主イエスはうまれましぬ。きたりておがめ・・」という「雪つもり」というイギリス・カロルの讃美歌第二篇127番がある。 キャロリングの途中に次第に雪が降り出しだし、イスラエルの人が雪を知っているかどうかSさんと話をしているとき、雪は知らないのではないかと私は言ったが、Sさんは高い山があるので知っているはずだという。聖書にも雪という言葉があるので知っていたはずだという。そのときイスラエルは砂漠地帯なので雪など降らないし、しらないだろうという思い込みが、間違ったことを言ったと深く反省したことを思いだす。思い込みは間違いを起こすと自戒し続けて牧会をしてきたが、決して思い込みがなくなったわけではなく、思い込みから多くの間違いをしてきたと反省をしている。 そんな話をしながら、キャロリングのあっと津々と雪は降り続いていた。イブ礼拝、キャロリングを終えた子どもたちは、恒例の教会泊、朝起きると雪が積もりに積もってみんなで「か まくらもどき」を作った。しかしすぐに解け、壊れた。 あのクリスマスの夜は、讃美歌通り、「雪は積もり 星冴え 主イエスはうまれましぬ。きたりておがめイエスを、きたりておがめイエスを venite adoremus Dominum, venite adoremus Dominum」という世界だった。 逆の世界が真夏のブラジルのクリスマスであった。 |
(大森日記)日)二学期最後の教会学校のクリスマス礼拝、祝会は今年も出来なかったが、楽しい時間を過ごす。クリスマス・イブの用意。全員にクリスマスカードを発送出来る。夜、静かに礼拝。月)w姉が訪ねてくださり、祈りをささげる。火)デンマーク牧場福祉会の理事会で静岡に。社会の変化でどう事業を展開していくか難しい舵取り。水)午前中は大森出身のu牧師の奥さんの葬儀に出て、羽村に向かいスタッフ会議、職員会議。木)幼稚園の二学期締めくくりのクリスマスページェント。無事に終わる。心でホッと。法務局、夜は今学期最後の聖書の学び。金)幼稚園の二学期終業礼拝、職員会議。教師会長の仕事で訪問。