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待降節第2主日(12月4日)「キリストに向かう」

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根から若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。        イザヤ書11:2―3

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてくださるように。            ローマの信徒への手紙15:13

 3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。                            マタイによる福音書3:11

【説教要旨】キリストに向かう

クリスマスは、イエス・キリストの誕生を待つ期間であるということです。来るイエス・キリストに向かうということです。キリストの誕生は、同時に聖霊によって、私たちが導かれていくということです。

クリスマスを迎えるこのときに今日の聖書日課は、「主の霊がとどまる。」「聖霊の力によって」「聖霊と火で」とあります。クリスマスの出来事も聖霊によって、行われたということです。聖霊とは、それは神の力です。神の力が働いたということです。クリスマスは神の力が働いたという出来事です。では、神の力とはどういうことなのでしょうか。「神は愛」ということであり、神の愛の力です。神の愛の力が示されたのがクリスマスなのです。

教皇フランシスコは、「キリスト者の祈り」で、「立派な友でなくても、聞き分けのよい子でなくても、忠実な伴侶でなくても、神は愛し続けてくださいます」と。「神は愛し続けてくださいます」と繰り返し、次のように結びます。「神は憎しみを知りません。ご自分が憎まれることがあっても、憎むことを知りません。愛だけをご存じです。」といわれてます。

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福音記者ヨハネは、クリスマス、み子の誕生をこう記しています。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。  神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。ヨハネによる福音書3:16-17

『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』という言葉はイザヤ書40章3節の「 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」の引用です。

このみ言葉は、国は滅ぼされ、王も指導者も殺され、神殿も破壊され、バビロンに多くの人は、奴隷として未開拓の地に強制的に連れていかれ、苦役と苦悩の中に日々を暮らします。この苦悩の地にいる民にイザヤは、救いが近いことを予言します。

教皇フランシスコは、「信仰とは、訳の分からない辛い状況への抗議です」といます。神に選ばれた信仰者、ユダの民はこの苦悩に満ちた日々にあって、抗議するのです。十字架上にお架かりなった主・イエスが、「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」マタイ27:46というように。しかし、イエスさまがこの苦悩の中で、神に向かったように、私たちも苦悩の中で神へ、そしてクリスマスの出来事を通して、神は「救い主イエス・キリスト」に向かうことを示されるのです。向かう先で見ることは、バビロンからユダヤに帰っていくのは絶望的な越えられない広大な砂漠、荒野がある。絶望の壁がある。しかし、その壁は破られ、主の道が整えられ、道筋がはっきりと見られると言われるのです。絶望的な壁は神によって壊され、道が開かれるのです。教皇フランシスコが言われるように神は愛し続けてくださるという事実を見るのです。神はおいでになる。立派な友でなくても、聞き分けのよい子でなくても、忠実な伴侶でなくても、神は愛し続けてくださいます。私たち信仰者はこの事実に、キリストに、神に向かいたいのです。

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私たちが現在置かれている状況は、新型コロナウィルス感染、大国ロシアのウクライナ侵略、新自由経済のもとでの経済格差、環境の崩壊と自然環境の危機、そして先の見えない苦しみの中で、小さな、私が何も出来ない無力さと絶望のどん底にいるかもしれません。苦悩とどん底の中で、悔い改めるのです。キリストに、神に向かうのです。立派な友でなくても、聞き分けのよい子でなくても、忠実な伴侶でなくても、神は愛し続けてくださいます。聖霊と火で洗礼を授けられた信仰者は、神の愛を見えぬ聖霊の力によって与えられています。教皇フランシスコが、「信仰とは、救われる希望です」と言われるように、たとえそうでないという苦しみに満ちた現実があっても、主の道は備えられ、広い道は通され、道筋はまっすぐなものとして私たちの現実の今日という中に貫かれています。

昔、ブラジルで老いた牧師から聞いた話を思い出します。開拓期の厳しい日々の中で、乳飲み子がいた奥さんが死に、生活に、精神的余裕もなかった開拓民の夫が、乳がなく死んだ子を抱いて絶望から幾日も幾日も歩いていた。罪と絶望の深さが開拓初期にあったのを目のあたりにしながら、「神は愛なりということが見いだされない・・・・・・・ある日のことであった。ふらふらする自分を、夜中、倒した大木の上に座らせ、夜空を仰いでいた。星の輝く、無限の空を見、イエスが生れたベツレヘムの空もこれに続いているはずである。イエスは、天の栄光をかなぐりすてて、俺のような人間のために世にきたのだ。・・・・こうして、次々へと、思いをめぐらしている中・・・・・・・・・・そうだ、神は理屈なしに、天の栄光を捨てて、地上に来て、我々の中に訪れ給うた。ここに愛がある。天の栄光を捨てて、人間のいやしい様になって、我々を救おうとした姿、すごい。・・・・・神はすごい、人を愛して、理屈抜きで、その栄光を捨てた。そこに愛がある。この神こそ、俺の神である。少年繁にとって、これは、大発見であった。ここから少年の人生に、大変化が始まったのである」。後に献身し、移民初期の数少ない牧師となり、キリストに向かい、人々に愛である神を伝え、寄り添っていきました。神は愛です。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

サッカーでスペインに勝ち、予選リーグを一位で通過したことは嬉しい限りであるが、カタールに負けたときはすごい批判があり、今回の勝利は讃美と世論は手のひら返しである。世論とはそんなものであると思っているが、どうも腑に落ちないのが私のいつもの気持ちである。

歴史を振り返るとき、こういうことの繰り返しであることが分かる。だから、移ろいやすい世論に自分が流されないようにしなくてはいけないとつくづく思うが、世の流れに流されるのも自分でもある。だから、そうならないためにも自分をしっかりともっていないと自分を見失って消えていく。

聖書は、「主にあって堅く立ちなさい」という。「主」、神に立つことである。ルターは、宗教改革のとき、権力者に詰問された時、「我ここに立つ」と言い、ここ、神のみ言葉に立って、世の流れに流されることなく、我が道を歩めた。

今の情報社会で世の圧力が強い時だから、私がどこに立っているかという事を知っておかなければならないと思う。

 

園長・瞑想?迷走記

学期末、特に12月は大切な行事が続き、子どもたちも落ち着かない。そんなとき思いもよらないことを子どもは起こす。そのたびに私たちは、子どもが起こす出来事を通して私たちの教育・保育を考えさせられ、変えていくことを学ばされる。教育・保育はこれで良いのだというものはなく、いつも子どもの幸せを思い、自分を変えていく営みが教育・保育だと思っている。

だから、子どもに対して謙虚でなければならない。子どもが起こす一つ一つのことを謙虚に受け入れ、子どもの声に聞いていかなくてはいけない。しかし、それは自分の教育・保育を変えて、拡がっていく恵みである。困ったでなく、子どもが起こす一つ一つのことにありがとうといえるような教育・保育者になりたい。そういう思いが起こるようにするのが園長の働きだと思っている。

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日毎の糧

聖書: 【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。       詩編98:1

 

                             ルターの言葉から

 これは、新しい国、新しい被造物、新しい人についての新しい歌です。それは律法とわざから生まれるのではなく、神と御霊から生まれるものです。神と御霊は私たちの主イエス・キリストにあって奇蹟を行われますが、神と御霊ご自身が奇蹟そのものなのです。

 (『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社)

神と御霊

 クリスマスは、イエス・キリストが聖霊によってマリアが身籠ったということです。イエス・キリスト、神の救いは、聖霊によって始まったのです。

私たちの救いの初めも、終わりも聖霊の働きによって起きるのです。聖霊は、私たちのところに来て、新しい御業を起こしてくださるのです。神の救いの聖霊によって、私たちがどんな不安のときであってもなぐさめと平和が私たちの内にあるのです。

聖霊の働きは、右の御手、聖なる御腕に抱かれ、ちょうど自分のお父さんの腕に抱かれた子どものように心から委ね。平和があるのです。この主は救いの御業を果たされ神の働きは私たちに希望を抱かせるのです。

今、不安な、先の見えない世界を私たちは生きて、何の解決もなく2022年を閉じようとしているように思えますが、この2022年も聖霊なる神は働かれて、神の聖なる御腕の中に包まれていたのです。だから私たちは安心して一年を閉じましょう。失望するのでなく、希望をもって、来る2023年を新しい歌を主に向かって歌って迎えることが出来るように聖霊は働いています。

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。創世記1:1-3

祈り:聖霊の働きに支えられ今年を閉じ、新しい歌を歌えますように。

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大森通信

「引退の準備」

伝道44年  クリスマス休暇

 ブラジルのクリスマスは、夏である。所謂、クリスマス休暇に皆が入っていく。

ブラジル日系2世のO牧師が着任した一年目のクリスマスに主任牧師であった私に「クリスマス休暇願い」を出してきた。「え!」、「クリスマスだよ、たくさんのクリスマス行事があるよ。これをどうするんだね。南リオグランデの(東京から鹿児島の距離)クリスマス礼拝、教会学校もしなくてはいけないよ。」

「今まで、先生が一人してきたのですから、出来ますよね」。確かにと思った。「ブラジルでは長期休暇を取る権利があります。」、「でもクリスマスだよ。牧師が一番、働くときじゃないの」。彼は納得いかずキョトンと。 結論は、クリスマス礼拝を終えた後に長期クリスマス休暇を彼が取れるよう許可を与えた。彼はクリスマス・イブの日、実家でクリスマス・パーティーをし、旅行に出ていった。今、考えると彼の方が豊かな心を持てていたのではないだろうかと思う。まじめに、一生懸命に働いて、働くことに囚われ、義務感だけでしているよりもよっぽど神様の御心をなしていたのではないかと思う。

ブラジルにいるときも、日本に帰ってきても、長期休暇を取ることは少なかった。2018年に最後のブラジル旅行をしたのが長期休暇であった。しかし、彼には休暇は必要だが、私には休暇は病気になる。まず、礼拝を人に任せるのがストレスになる。彼が休暇を楽しんだように私は仕事が出来るという事を楽しんでいる。楽しめる仕事に就けたことは幸いだと感謝している。

(大森日記))T姉の告別式。遠い所から皆さんが参列してくださる。一緒に天国でお会いできるのが楽しみである。)礼拝後、幼稚園運営委員会。委員の方の働きに感謝。)午後、H幼稚園の園長が濃厚接触者になったので代わりに出かける。)午前中、結婚準備会。初七日のT姉ご家族のため祈る。寒い雨の一日。)羽村に行き、面接。帰宅後、事務の打ち合わせ。ご両親が青年期に過ごしたという教会を訪問しに来られた方と話す。70年史を渡すと、ここに父が、母がいると言われ懐かしがる。スマホには古い教会でご両親が結婚式を挙げられている写真があった。70年史に感謝。)幼稚園の礼拝、職員会議。