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待降節第1主日(11月27日)「いつも目を覚まし、祈る」

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。                                           エレミヤ書2:4,5

今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。                                                      ローマの信徒への手紙13:11-12

だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。   マタイによる福音書24:42

【説教要旨】いつも目を覚まし、祈る

  今日から待降節に入ります。文字通り、イエス・キリストの誕生を待つ期間であるということです。来るイエス・キリストに向かうということです。暗い夜にイエスは生まれたのです。しかし、イエスさまは闇に光る存在です。

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。とイエスさまが来られたときの光の世界を預言します。必ずこの世界はやってくるのです。しかし、私たちは、これとまったく逆の世界を2022年は、見ています。強国が自分の歴史観、価値観を小国に押し付け、武力をもって領土を略奪、そこにいる人を殺害しています。光の世界でなく闇の世界を生きています。私たちは絶望をしています。

また新自由主義が台頭し、個人の自由があまりにも強調され、エゴイズムが支配するようになり、自分さえ良ければよいという不平等が世界中にまん延しています。富める者、貧しき者の格差はますます拡大しています。国家もまたしかりです。「人間の中にひそみ、人間の深いところで強く動かしているエゴイズムが、いつふきだしてくるかわかりません。その時は強者が勝利をかちえ、弱者の悲しみで地の上がおおわれます。」(「神のやさしの中で」森一弘 女子パウロ会)私たちはここで喘いています。

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最初の聖書日課として、イザヤ書が読まれました。国が大国アッシリアとエジプトの侵略を受ける危機の中にあった時代にイザヤが生き、神さまの言葉を語り、人々が神に帰ることを求められました。「この国は銀と金とに満たされ/財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ/戦車には限りがない。2:7」。2章は、軍備、経済力に頼る人間の傲慢さを指摘しています。現代社会においてもこのような世界があります。それに対しては、「軍備拡張競争は貴重な資源の無駄遣いです」と教皇は指摘しています。軍備拡張と経済力は決して人間を平和に導きません。「人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。2:22」とイザヤは預言します。

私たちの生活の危機です。信仰の危機です。私たちの日々が苦しみと不安のやみに覆われてしまっていることをイエスさまはご存じです。どこに神がおられるのでしょうかという苦しみの闇の中にあっても、 イエスさまは言われます。「目を覚ましていなさい。」と。救いようもないこの世にあって、絶望して目を閉じ、心を閉じるのでなく、目を覚ましていなさいと私たちに語りかけてくださっているイエスさまがきてくださったのがクリスマスの出来事です。私たちが目を覚ましてみるのは、飼い葉におられる救い主・イエス・キリストです。闇のうちでもがいています。しかし、ここに神は、救い主・イエス・キリストがおられます。

はっきりと主・イエス・キリストを私たちは見ることが出来ません。今こそ、主・イエス・キリストが救いの御手を伸べて下さる再臨を待望します。イエスさまは「いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」と言われます。しかし、ここでは待降節が示す、イエスさまが降りて来られることを待つ心を強くしなさいということではないでしょうか。待つ心こそが、光の中を歩むことであり、光の武具を身に着けることです。

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私たちの教会から一人の姉が天に帰られました。彼女が残した愛唱聖句は、「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに 耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。   第一コリントの信徒への手紙10:13」でした。

確かに試練はどんな時代にも、どんな人生でもあります。しかし、ここに貫かれていることは神の真実です。神の真実とは、神の確かさ、神の愛です。神の愛の確かさゆえに耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに 耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのです。神の愛に目を覚ましていることこそ、「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。」と受け留められるのです。だから、私たちの心は恐れ、苦しみ、不安に被われ、希望のない暗闇に合っても、私たちはひるまない待つ者とされます。

救い主・イエス・キリストにクリスマスを待ったヨセフ、マリヤ、羊飼い、三人の博士が、目を覚まして、救い主・イエス・キリストに光に導かれ目を覚ましたように、私たちは待つのです。これが、救いが近づいていることを聞き、夜は更け、朝が近づいて見る、光の武具を身に着け、光の中を歩み、彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない世界が近づいていることを信じていくものであります。主を迎えることを待つことそ平和があり、喜びがあることを確かにし、たとえそうではないという現実が今あっても教皇が呼びかけた「どうかあなたが来て、破壊があふれた場所に、今とは違う歴史を描き実現する希望があふれますように。」と祈りを合わせられます。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

 中国にウクライナは空母を売り、空母・遼寧が出来て、中国の海洋進出を支え、台湾、南西諸島の緊張を高め、日本も護衛艦の「いずも」と「かが」の2隻を事実上の空母に改修する計画を進めている。武器輸出はこういう事態を起こす。今、強大なロシアが武器をもって、ウクライナを侵略し、ウクライナに西側から多くの武器支援がされている。人はなぜ武器が愚かであるかを身に染みこませないのだろうか。

彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。イザヤ2:4

園長・瞑想?迷走記(「12月園だより」)

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。                ルカによる福音書2:15

 クリスマスが近づいてきました。天使が羊飼いに顕われて、イエスさまの誕生を告げた後の羊飼いの言葉です。「さあ、ベツレヘムへ行こう。」。ここにはイエスさまがおられます。永久に愛してくださるイエスさまのところに行くのです。ここからすべてが始まります。上右の絵は鉄筆で模写した元園長・福本秀盛牧師の絵です。子どもたちの教育環境を整えるために乗り越えなければならない壁がいくつもありました。無認可幼稚園から認可幼稚園へ移行のために旧館を建てました。先生はいつも希望をもって歩みました。壁があるとき、私たちは行くところがあります。そして、一歩を踏み出す勇気を与えられます。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」と喜びの中を自分の持ち場に帰ることができました。時代が劇的に変化するとき、子どもたちにはいくつもの大きな壁が行く先にあるでしょう。しかし、子どもたちは行く所を知っています。愛なるイエスさま、神さまのところに。

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日毎の糧

聖書: われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。        詩編90:12

 

ルターの言葉から

 モーセは、主なる神がわたしたちに自己の日を数えることを教えたもうように、祈っている。このことは、モーセがあたかも死ぬ日や時とかいう死期が告知されるように欲していると、理解されてはならない。そうではなく人間が真剣に自己の生について、それがいかに悲惨であり、禍に満ちたものであるか、またそれが影のように逃れゆき、怒りか恩恵に服する永遠性に向かって突き進まねばならぬかを、わたしたちが熟考するためである。彼はわたしたちが無限の歳月が自分にあると空想しないため、そのように算術する者となるように望んでいる。それは特に暴君たちがよく行うように最高の長寿を考えたり、あるいはたった一度の不運に見舞われたときに、危険がことごとくなくなるように希望しないためである。

 (『生と死の講話』マルチン・ルター 金子晴勇訳 知泉書房)

生の内に死、死の内に生

私たちはいつか死ぬことは誰でも知っている。しかし、死が突然にやってくるのでもなく、生の最後にやってくるとことと捕らえるのでなく、日々の生にあって、いつも私たちは死のうちにあることを覚えることが信仰者としての日々である。

そうではなく人間が真剣に自己の生について、それがいかに悲惨であり、禍に満ちたものであるか、またそれが影のように逃れゆき、怒りか恩恵に服する永遠性に向かって突き進まねばならぬかを、わたしたちが熟考するためであるというように。

また、死にあっても恩恵に服する永遠性に向かって突き進むものであることも忘れてはいけない。

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。           第一コリントの信徒への手紙15:55

祈り:日々を数えながら主の永遠の命を生きていることを思うように。

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大森通信

「引退の準備」

伝道44年  クリスマスの準備

 最初のクリスマスにクランツ、リースを牧師が作ると言われた。まず、リース、クランツは何かと言うところから始めた。今は、リース、クランツなど店屋に売っているが、教会でもせいぜいクリスマスツリーだった。リース、クランツなど一般的ではなかった。

今までは宣教師に育てられた引退牧師、留学した引退牧師が作っていたそうだ。それなら出来るだろうと思ったが、二人とも私が就任した年には召天されていた。また宣教師もいたので出来たのであるが、もう私の時はいなかった。

教えてくれる人もなく、本をあさってみるとリース、クランツなるものが出ていたので、真似ることにした。まずは、材料である。引退者住宅の庭にあるもみの木の枝を切ってきて、見様見真似で、枝を曲げ、針金で止めて、蝋燭を置く場所に釘をさしとしてみるが、なかなか丸くはならないが、悪戦苦闘してどうにか出来た。神学校でも、実習先でもこんなことは教えてくれなかったとぶつぶつ言っていた。翌年は土台をもみの枝で作って、その上に柊の枝を刺していった。今はどこでも材料があり、出来合いのリースもクランツも手に入る。インターネットで調べると作り方の動画もある。結婚し、家内に任せて卒業した。しかし、フラワーアレンジメントの先走りをし、これをずっと続けていたら、文化講座の講師にでもなれたかもしれない。(笑)

クリスマスが来るたびに苦しみましたという思い出ばかりである。正直、クリスマスを喜べなかった。

(大森日記))コロナ禍で2年以上来られなかったT兄と一緒に聖餐に与る。何と言う喜びか。)礼拝後、寒い中皆さんでクリスマスの準備。苦労した分、きっと良いクリスマスになるだろう。幼児祝福式。コロナ禍、出席者が少ない。)面倒くさい年末調整書類作成完了。全国牧師会役員会、ルーテル園長会。)今日訪問する予定のTF姉が5時に召天。臨終の祈り、納棺。身を切られるような悲しみ。)寒い雨の一日。)昨日とは打って変わり快晴。幼稚園が開始。)冬の前の素晴らしい晴れの日。今日から幼稚園のページェント劇練習。