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待降節第1主日 12月3日礼拝  「気を付けて」

13:31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。・・・・・・・・・・・・13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。          マルコによる福音書13:31~38

 

【説教要旨】「気をつけて」

今までの教会の聖書日課では、聖霊降臨後最終主日に読まれるものですが、なぜ、待降節の始めにこの聖書の個所が選ばれたのでしょうか。

聖書日課、いわゆるペリコーペを決めた委員会は「主題 :主の日の到来」としているように、詩篇交読においても、「目覚めて御力を振るい/わたしたちを救うために来てください。」と唱えている。この私たちの祈りが聞かれるということがクリスマス、救い主がお生まれになってここに来られたということでしょう。

「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、  星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。マルコ13: 24 ~25

3・11の大地震から始まり、コロナウィルス感染パンデミックとなり、その間、科学技術は大きく発展し、私たちの生活を劇的に変化させ、ロシアのウクライナ侵攻によって、世界は不安定な時代に入っており、私たちを不安に陥らせ、苦難の中で悪戦苦闘しています。時代は今までの価値観ではどうしようもないということを教えてくれています。世の中もまた不安と苦難の中にいます。こういう時代を私たちは生きています。

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イエスさまから始まり、弟子たちが生きた時代もイスラエル の国は、不安と苦しみの中を生きていました。そういう時代にあって、自分たちを救ってくれるメシア、「人の子」待望が強くありました。詩編の詩人は祈ります。「わたしたちを救うために来てください。」と。

それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。

雨宮慧司祭は「揺り動かす」という言葉について次のように「この語は『揺り動かす・ぐらつかせる』を意味します。文字どおりに使われれば、葦が風に『そよぐ』とか、隙間をなくして満たすためにはかりを『揺する』とか、洪水が家を『揺り動かす』とか、地震が牢の土台を『揺り動かす』ことを表します。

この最後の用例は暗示しているように、地が揺すられるのは神が介入したことのしるしです。信者たちが祈っていると、その場が『揺れ動き』ましたが、これは祈りが聞き届けられ、聖霊がくだったことのしるしです。

造られたものでしかない天と地が『揺り動かされる』のは、それが取り除かれ、代わって神の国、つまり「揺り動かされないもの」が存続するためです。」

揺り動かされる激動の時代にあって、「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」というみ言葉が聞こえて来る。

時代がどうであれ、イエスさまが、私たちの戸口に立っておられるのです。いつも私たちとともにおられるということです。戸口に立っておられるとあるように主イエスさまがお入りになるとすべてが明らかにされるというのです。造られたものでしかない天と地が「揺り動かされる」のは、それが取り除かれ、代わって神の国、つまり「揺り動かされないもの」が現れてくるのです。

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今は何も分からない、何も見えない闇夜のような世界であるかもしれないが、イエスさまは私たちのところに来られる。

「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。」といわれます。「この時代」、それはまた今の時代でもあるのです。どんなに辛い、闇の時代であっても、イエスさまが来られるまで決して滅びないといわれます。

闇の中でお生まれなった救い主、イエス・キリストは、わたしたちを救うために来てくださいという私たちの祈りに答えてくださいました。

イエスさまは私たちを今日も側にいて励ましていてくださいます。

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」とあります。朽ちないみ言葉によって生きる。聖書の語る神の言葉によって生きるということです。それは滅びていく世のもろもろの見える力、権力、地位、知識・・・は滅びる。しかし、神の言葉は決して滅びないのです。

教会はローマという大きな権力に翻弄されていきます。しかし、「天地は滅びる」とあるようにあの大ローマ帝国も今はないのです。

最後まで残るのは神の言葉です。私たちの側までいつもきてくださり私たちに生きる道を主は「み言葉」によって示していてくださっています。

「時代は大きく変わっている」、「激動の時代だ」というこの言葉を何度、今年は使ったでしょうか。揺り動かされる時代を生きつつ、地が揺すられるのは神が介入したことのしるしであり、造られたものでしかない天と地が揺り動かされるのは、それが取り除かれ、代わって神の国、つまり揺り動かされないものが存続するためです。わたしたちを救うために来てくださり、揺り動かされない神の国を支配されるイエスさまが来られた。これがクリスマスのメッセージです。

私たちは揺り動かされています。激しく。しかし、主なるイエスさまが「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と私たちに語りかけてくださるみ言葉に気をつけましょう。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

ガザ地区での人質交換によって休戦が成立した。そして30日で切れるイスラエルとハマスの休戦が延長された。出来ればベトナム戦争のようにクリスマス休戦などに発展して欲しいと願い、祈っている。

こんな悲劇は他人事のように渋谷のスクランブル交差点では多くの若者がはしゃいで行き交う。平和は良い。しかし、私たちにもいつガザのような悲劇が起こるかもしれない。北朝鮮からミサイルは政治家の暴走でいつ飛んでくるかもしれない。そういう風に揺れ動かされている。こういう時だからインマヌエル、神が共にいてくださるということを忘れずに平和を祈っていくことを諦めないようにしよう。

12月1日、イスラエルは休戦を破ってガザを攻撃した。諦めてはいけない。平和を祈ろう。

 園長・瞑想?迷走記

「園長先生、フェンスに纏わりついている朝顔のツルを取っていいですか。」からドラマが始まった。

「良いですよ。藤のツルだけは取らないでください。何をするの?」

「リースを作るんです。」え!と心で呟く。

いつもなら巻き付いたツルを今頃、取って捨てるだけであるので、まさか朝顔のツルを使ってリースを作るなど想像が出来なかった。

日頃から園庭のいろいろな草花を使って子どもたちが何かを作って欲しいと願って園庭を整備してきた園長にとって嬉しい声であった。

その出来栄えは、私が想像するよりも素晴らしい作品が出来上がってきた。

「永遠の命を得る」と園舎の壁に刻まれている聖句のごとく、死んでいた朝顔のツルを見事、リースとして甦らせたドラマがあった。子どもたちに感謝。引退まで、園庭を整えていこう。

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日毎の糧

聖書: 万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。詩編80:20

ルターの言葉から

  あなたの王があなたのところに来て、あなたの内にみわざを始め てくださる以外に、初めはありません。あなたが主を求めるのでなく、主があなたをお求めになります。あなたが主を見出すのでなく、主があなたを見出してくださいます。あなたの信仰は主から来るのであって、あなた自身から生まれるのではありません。                               降臨節第1主日の説教

             『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

 

主が来られる

  詩篇80篇は、待降節に読まれている詩篇である。「80:3 エフライム、ベニヤミン、マナセの前に。目覚めて御力を振るい/わたしたちを救うために来てください。」という言葉、「エフライム、ベニヤミン、マナセの前に。」とは、今日的言えば、神の民の前、私たちの前にということです。「目覚めて御力を振るい」とは、神の民、私たちが目覚めるのでなく、神が目覚めるということです。救うのは、私たちではないということです。神であるということです。救いは確実にやって来た、やってくるということです。それは、クリスマスの出来事であり、終わりの再臨の時です。それが、私たちの初めであり終わりです。主が来られ、私たちのところにおられる、インマヌエル「神共におられる」ということです。

今、私たちが生きている時代は激変し、未来が見通せない不安な時代にいます。しかし、「80:15 万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。」という「目を注いで御覧」になるとは、神の救いの強い意思が示されています。私たちの生涯は、たとえ激変、揺れ動かされようと強い神の救いの意思の中で貫かれています。今だから「信仰のみ」こそ平安の道です。

祈り:神は私たちに救いの意思をもっていてくださることを感謝し、激動する時代にあっても強く、雄々しく歩めますように。主が来られる。

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大森通信

6.日々  

毎週の楽しみの一つに木曜日がある。牧師人生が終わろうとしている時に心に閉まって温めてくれる灯である。

午前中に、教会の庭を季節ごとに草花、樹木を整えていく。園児は草花、樹木を見て四季を感じ時には私たちの思いを越えて利用し、創作する。枯れた朝顔の蔓を使いリース作り、枯葉を使って小さな秋の世界を表現する貼り絵ならぬ貼り葉?

振り返ってみるとこういうことを教えてくれたのは、神学生の時から始まった。江口武憲牧師は、「昔、議長が若い牧師の教会を訪ねて、雨樋を見、詰まらせるな。庭を整えなさい」と昔話しをしてくれましいた。確かに小岩教会は、千葉街道から、教会の玄関にいたるアプローチは掃き清められており、清々しい気持ちで会堂に入った思い出があります。

日本に帰り、教区長であった戸田牧師は、よく教会を訪問し、ちょっとした会話の中で示唆をくれました。「教会をいつも綺麗に保っていること。掃除は宣教」。先生の教会もどこから見ても掃除され、お二人の共通点はいつも建物を含め修繕管理を怠らなかったということである。

木曜日の午前中、庭を整えいくとき多くの先輩の言葉を思い出しつつ、どこまで応えられたか思いを馳せている。

大森日記)急に教区より横須賀、蒲田、大森教会のグルプ内での協力要請の招集が牧師、代議員にかかる。牧師不足、牧師を置けない教会が全国的に増えてきていることが東にもやってきている。明日のクリスマスの電飾の準備をしてくださる。)礼拝後、クリスマス飾りの準備、幼稚園運営委員会とばたついた午後であった。)H幼稚園で頑張っているK兄の誕生日に訪問。)一日中、12月にむけて事務処理。)横須賀、蒲田、大森教会のグルプ内での協力の具体的案を作る。木)午前中、週報などを発送作業。夜は待降節詩篇80篇の学び。T兄も参加くださる。)12月、2023年も閉じる。幼稚園はクリスマス降誕劇の練習真っ最中。山王自治会にクリスマスの電飾が紹介されている。街に定着。