四旬節第6主日(4月2日)「試練へ」
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
マタイによる福音書21:1-3
【説教要旨】 「試練へ」
主の十字架を偲ぶ聖週間に入ります。その主日に読まれるのがイエスさまのエルサレム入場、聖書の物語です。
同じ人、出来事に出会っても、それぞれが生きている場所(生活の座)が違うと受け留め方が違ってきます。福音書は、マルコを土台にしてマタイ、ルカの独特な物語を加えて、それぞれの福音書が出来ています。受難の記事にも、やはりそれぞれの生活座があり、視座が違ってきます。
11:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。11:3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 マルコによる福音書11:1―3
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マルコ福音書とマタイ福音書は、ほとんど変わりませんが、マルコは「『すぐここにお返しになります』と言いなさい。」という言葉ですが、マタイは「すぐ渡してくれる。」という主、イエスさまの言葉に対して、人を越える出来事が、すぐに起きるということに言っています。み言葉の力を示しています。
しかし、私たちが生きていくとき、この物語のようにすんなりとは起きません。しかし、マタイは「『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」と言うのです。実際、イエスさまのエルサレム入場は、整えられていくのです。
イエスさまの入場後です。イエスさまは子ロバ同様に、「『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」とあるように神はイエスさまを必要とされ、すぐに十字架に渡されたのです。
私たちの苦しみを、私たち一人が、苦しみを背負っているのでなく、いや背負うことが出来ないことを神は知っておられ、私たちが救われるために、神が必要とされる方、イエスさまをすぐに私たちに渡して十字架におかけになったのです。子ロバが従順であったように、
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。イザヤ53:4-5
「彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」、私の痛みを負ってくださるイエスは、私たちが苦しみを一人、背負ってはいないと私も共に負ってくださることを十字架で示してくださいました。私たちに、いや一身に背負ってくださっているのはイエスさまであるということを私たちに向けるのです。私たちは苦しみを一人で背負ってはいけない、
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「『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」という神は同時に腸痛むほどの悲しみを持ちます。我が愛するみ子を死に至るまで、それも十字架の死に至るまですぐに十字架に渡したのです。神は痛みと悲しみをもたれたのです。若松英輔氏が、「苦しみの受容者」という一文に、「苦しみや悲しみは、誰かがそれを受け止めてくれるとき、異なる何かに変容する」と言われています。神が、キリストが十字架で苦しみと悲しみを真正面から受け止めてくださいました。私たちには私たちの苦しみを悲しみを受け止めてくださるイエス・キリスト、苦しみの受容者がいます。
若松氏は「苦しみにあるとき、人はしばしば生きる意味を見失いがちです。しかし、神がその苦しみを共に背負ってくれると感じられるとき、私たちはそれまでは異なる生のありようを見出すのではないでしょうか、共苦の神は、同伴者である神にほかなりません。」と言われます。苦しみ、悲しみの試練へと主が十字架にすぐに向かわれたのは共苦し、私たちを異なる生のありようを見つけ出すためでした。
主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。
イザヤ書50:4
悲しみ、苦しみの試練への入場は、異なる生への一歩です。
参考:「人間にとってキリスト教とは何か」 若松英輔 NHK出版新書
受難週に入ります。月曜日から金曜日にかけて礼拝が行われます。ぜひ出席ください。
主のみ苦しみを覚えて、共苦してくださる主に触れて、私たちの今までと違う生を歩むように強く共に祈っていきましょう。 |
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牧師室の小窓からのぞいてみると
2022年度の出産率は80万人を割ったところで政府は慌てて少子化対策を打ち出したがいつものことと私は冷めている。みなバラバラになってしまって、エゴイズムで動いている世界で、国家が産めといっても今の生活を個人が改めるはずがない。政治というよりも個々人がどう自分の生活を立てるかを自覚するかであり、互いが語り合えて国家の姿を作ることが急務だと思う。
政治だけでなくすべての分野で少子化ということが問題で、問われていると思う。
園長・瞑想?迷走記
幼稚園の経営と言うことを組織にいる以上考えてきた。
それが教育・保育を底支えし豊かにしてくことだと思っている。
一つは、先生方の職場の改善であった。結婚、次に出産で退職というサイクルが当たり前であるという幼稚園業界にあって、重ねた教育・保育の経験を子どもたちに伝えることが大切だと思い、このサイクルを破ることで、産休・育休を推進した。しかし、男性教諭の育休は挑戦していないままで終わっている。
労働時間の厳守である。園に残って教育・保育の準備をするために遅くまで園舎に電気がついていることが常識であった。時には夕食まで作ったことがあったが、保育者の人生は保育者のものであって、幼稚園のものではない。定時にひけるなら第二の人生を過ごせる。遊ぶもよし、スキルを上げるために勉強をするもよし、それが子どもたちに良いことだという信念で働き方を変えたかった。今の労働時間の設定は教育現場には馴染まない。従来通りの教育・保育であればまわらないことは分かっている。しかし、チャレンジした。困惑したのは教諭らであったが、このチャレンジを単に労働時間を守るという事に留めるのでなく、教育・保育と向かい合って、幼児教育・保育とは何かと副園長のリードのもとで向き合い、教育を語れるまで根本的に変えてくださった。
瞑想?迷走に付き合ってくれて、新たな子どもたちためにという旅に出られたことを感謝している。すばらしい仲間に会えた。
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日毎の糧
聖書:わたしは死ぬばかりに悲しい。マタイ26:38
ルターの言葉から
だれも、ゲッセマネの園で私たちの愛する主が受けた苦しみを、 言い表すことは出来ません。神人キリストに襲い掛かった苦しみは、全人類の思いと理解をはるかに超えたものでした。
この方は、地上のだれよりも深い悩みに会っていました。地上の誰よりもきびしく死の恐怖を味わわれました。しかも、これはわたしたちのためでした。 1534年の説教
『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社
深い悩み
みなさんもそうでしょうが、生きるという事は、簡単なことではありません。そこにはいくつもの試練があり、悩むでしょう。ルターもまた私たちと同様に生きる困難さを覚えて、試練にあってきました。生きるとは何かと問いつつ、ルターは、信仰と何かということを問い続けました。
宗教改革の荒波のなかを、「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。」という試練を受けつつ、試練は、練達と歩んで、生きることを深く掘り下げていきました。
「わたしは死ぬばかりに悲しい。」という試練を私たちもするでしょう。そして、ここを一人で、生き切ることは難しいでしょう。しかし、主・イエス・キリストも「わたしは死ぬばかりに悲しい。」という試練を受けられ、私たちとともに生きて下さっています。ルターは、「この方は、地上のだれよりも深い悩みに会っていました。地上の誰よりもきびしく死の恐怖を味わわれました。しかも、これはわたしたちのためでした。」と、徹底してキリストへ、それも十字架のキリストに救いがあると信仰の確信を深く掘っていったのです。
「わたしは死ぬばかりに悲しい。」という私の生があるでしょう。しかし、ここに主・イエス・キリストがおられ、「これはわたしたちのためでした。」と私を導き勇気づけてくださいます。私たちの生の歩みは一人ではないのです。
祈り:深い悩みに共にいてくださる主へ目を向けられますように。
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大森通信
「引退の準備」 伝道45年 総会資料ⅸⅧ 「牧会Ⅳ」
牧会(隣人と共に歩みむ世話)は、同時に宣教であります。宣教とは、「教」、教えを「宣」、宣べるということです。 16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」 マルコ16:15-18 「彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」ということが、牧会(隣人と共に歩みむ世話)です。隣人の心の痛み、病気を共に悲しむということです。 「『悲』とは含みの多い言葉である。二相のこの世は悲しみに満ちる。そこを逃れることが出来ないのが命数である。だが悲しみを悲しむ心とは何なのであろうか。悲しさは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。悲しむことは温めることである。悲しみを慰めるものは悲しみの情ではなかたか。悲しみは慈しみでありまた『愛(いとお)しみ』である。悲しみを持たぬ慈愛があろうか。それ故慈悲ともいう。仰いで大悲ともいう。(『南無阿弥陀仏 付心喝』)。」(「人間にとってキリスト教とは何か」 若松英輔 NHK出版新書) 隣人の悲しみを共に悲しみ、ぬくもりとしていくことが牧会です。 |
(大森日記)日)2023年度の幼稚園運営の役員、運営委員の合同委員会。幼稚園は宣教です。月)散った桜の花はそのままにしておく。火)羽村幼稚園の理事会。中央線、青梅線の人身事故で電車が止まり大幅に会議の開始が遅れる。事故は心重い。水)夕刻より東地域幼稚園園長会。どこも幼稚園の改革の課題を受け止めている。退任される園長、設置者の感謝会。木)信徒さんと週報発送、近所を訪問、投函。金)朝、色々とイレギュラーがあり、予定が狂う。今週は予定通りいかずの日か。