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四旬節第6主日 3月24日 「主の名によって」

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。       フィリピ書2:6-11

 

【説教要旨】

「孝一」という名は親孝行をする人となって欲しいという願いをもってつけられました。名というのは、その人、そのものを表します。病弱な私がここまで来て、父も母も葬式が出来たという事は、まあ名の実態を表しましたと神に感謝しています。

今日の使徒書の日課は、初代教会が礼拝で使っていた信仰の告白の歌で、キリスト讃歌と言われていています。それは、「あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」というように救い主・イエス・キリストはどのようなお方であるかということです。二部からなっています。6節から8節はイエス・キリストが徹底的に人となられたということです。9節から11節は神がイエス・キリストを高くあげたということです。

前半はイエス・キリストが主語であり、後半は神が主語であります。

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神と等しい救い主・イエス・キリストが、神と等しい身分を捨てて人となったというのです。それも犯罪人として十字架に架かり処刑され生涯を終えたというのです。それは、「自分を無にして」、「へりくだって、」ということにほかならないというのです。パウロはこのキリストの生き方こそ、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにすることであり、何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払い、何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えるキリスト者の生き方であるというのです。

私たち最高の科学技術を手に入れました。「我々は不死と幸福、神聖を目指し、ホウモ・デス(神の人)へと自らをアップグレードする。」(「ホモ・デウス」ユヴァル・ノア・ハラリ著 河出書房新社)そんな時代が現代です。私たちは、自由という強い思いとまた大きな技術を手に入れて、より大きくより強くあろうとします。そのとき格差は想像を絶します。だから、エゴということが露わになる時代の潮流となって、自分を無にし、自分がへりくだった生き方をするということは、私たちの受け入れがたい生き方です。たとえば、国家となるとさらにエゴがむき出しになります。それがウクライナであり、ガザの戦争であり、世界中でエゴがむき出しになり、人間が人間を高度な技術をもって殺しています。こういうことに対して、キリストの生き方、自分を無にすること、へりくだった生き方こそ、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つになり、何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払い、何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えるという世界が生み出されるというのです。

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この生き方は救い主・イエス・キリストが処刑されたように愚かしい行為であり、危険な迷惑な行為であるのだと思います。しかし、救い主・イエス・キリストの生き方こそが、力と力がぶつかり、人間の高慢が人を踏みにじることに現代世界にあって、打ち破っていくことであると信じるのが私たちです。

確かに神と等しい者が、これを捨て、十字架に架かるというのは愚かしいことです。しかし、この愚かしさにこそ、慈しみや憐れみの心、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに世界が与えられるのです。パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。・・・・・・・・わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」と他の手紙に書いています。神の子が十字架までに徹底的にへりくだったという行為は愚かでしょう。しかし、私たちはここに人生の真の祝福と喜びがあることを信じます。今日から救い主・イエス・キリストの十字架を思う聖週間に入ります。十字架の死に至るまでへりくだってくださった救い主・イエス・キリストの愛に私たちの思いをむけていく一週間としていきましょう。慈しみや憐れみの心、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに世界がキリスト・イエスにあって、実現することを信じて、私たちは何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払い、何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考える謙遜な心をもって証を打ち立てていくことこそが、あらゆる名にまさる名です。

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日毎の糧

聖書:31:15 私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。                 詩篇31:15(新改訳)

 

ルターの言葉から   

私たちは、この世の生において、特に平穏な生活の中ではそのようにしないので、神は、死やその他あらゆる種類の試練を私たちの上に置かれ、それによって私たちの気持ちを動かそうとされる。そこで神の慈しみや命を求めるのである。    『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』湯川郁子訳 徳善義和監修  教文館

御手のとき

「私の時は、御手の中にあります。」新改訳、「我が時は汝のみ手にあり」、文語。

「時」はここだけに出てくる。そこで浅野順一先生は、「この詩人に強く感得せしめたものは思うにである。従って時がこの詩人において非常に重要な意義をもっていると思われる。」①と言い、最も決定的な時は神に出会う時である。「この詩人は如上の意味において時を正しく理解し、それがすべての神の手にあることを体験的に感得し、それによって彼は暗黒の室から光明の部屋に移されることが出来た。それ故、詩人にとって時は運命とか宿命とか言うべきものでは摂理である。それは『破れた器』のごとき絶望の状態に陥る時にも、なお光を全く失わず、希望の回復を忍耐して待ち、やがて、勝利の確信にまで導かれていくものであることをこの詩は強く教えている」②

たとえ苦しい苦難の時であっても、この時も神の御手にあります。先週、32名の子どもたちが園を巣だっていきました。これから進む彼らの時は平坦ではないかもしれないが、すべての時が神の御手にあることを信じ、送り出すことができました。さあ、神の御手にある時をイエスさまと歩んでいきましょう。

祈り)御手のうちに時が繋がり、強く、雄々しく歩めますように。

①②「詩篇」                 浅野順一  岩波新書

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牧師室の小窓からのぞいてみると

日本銀行は、およそ17年ぶりの利上げとなるマイナス金利政策の解除など大規模な金融緩和策の転換を決めました。これが吉とでるか凶とでるか経済アナリストによって違います。共通すること大転換であるということです。

世界は全ての分野で、スピーディーに大きく変化していくのです。こういう大変化が日常となっている中で、私たちの生活はどうなるのか先が見えない所で不安を覚えます。ある意味で

私たちは不安な世界を生き続けなくてはいけません。それは、人は常に変化していくことで生きてきたという宿命かもしれません。人をお創りになった神は、この宿命を共に担ってくださいます。ここに神はいます。

「ここも神のみ国なれば」(教団讃美歌90)という讃美歌にあるように、ここも神のみ国です。

直接、生活に影響を与えるマイナス金利政策の解除が物価を引き揚げないことを祈りつつ。

 園長・瞑想?迷走記   

卒園後の「謝恩会」である。教職員にお世話になった感謝の保護者の心からの思いは理解できるが、子どもの傍にいて、育んでいったのは保護者であり、また教職員である。互いに感謝することはあっても保護者の一方から感謝する「謝恩会」はどうかと思う。企画は互いにしていくことであり、「謝恩会」でなく、「感謝会」とした方が自然のように思うがどうなのか。

今年も「謝恩会」が開かれた。コロナ禍以降、簡素化された「謝恩会」となって良かった。たぶん、時代と共に「謝恩会」も変わっていくだろう。3年、2年、1年間と幼稚園にいた日々を思い出し、思い出を共有していく恵みの時となるような感謝会が開かれる時がくることを待ち望んでいる。

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大森通信

21.日々  

最後の教区総会へ出席した。

『「教職(牧師)の働き方」に関する協議メモ』ということが協議された。「育児・介護休業規定」、「雇用保険の・労働保険への加入」、「就業規則の整備と雇用契約」ということが説明された。私は幼稚園経営を任されて、職員が働き易く、子どもに寄添えるために労働条件を整えるために心血をそそぎ、取り組んできた。労働時間を守ること、育児・介護休業を取るようにどの他の幼稚園よりも早く取り組み、実行して来た。保育内容の見直し、働き方を職員と検討した。これに職員が応えてくれた。

一方、自分自身は、まったく逆の生活を送って来た。それは、牧師は労働者という思いは、これっぽちも持ったことはないからだ。時代は違ってきていることをつくづく感じた。

「牧師の働きは、教職者自身の召命と献身にもとづいて、宣教のために教会が託した働きであり、その宣教に従事する者の生活を保障するという教会の理解を変更するものではない。教職の働く環境を守り、教会を適切に運営してゆくために、この世の制度が定める休業の在り方など必要な規定を整える機会としたい。」とメモは結んでいる。

私が歩んで来た道とは違うが、そんな時に引退。新しい牧師像を求めての一歩がこういうことで始まったことはグッドタイミングではないだろうか。制度だけを整えるのでなく自分たちの新しい牧師像を描く船出と受け留めて欲しい。良き船出の一歩ではないだろうか。

大森日記)主日の準備し、H幼稚園の理事会、評議員会に出席。)教会学校は同窓会と合わせてする。コロナ禍以降の多くの出席者で、ご近所にご迷惑をかけて。)卒園式の準備。)卒園式。集う子どもたちの為に丁寧に掃除する。32名みんな立派でした。先生方に感謝。)休日、教区総会。無事に閉会礼拝の担当を終える。ある方に説教に涙がでそうになりましたと一言をいただく。)職員の自己評価委員会、自分をよく見て、次への教育と保育と向かう先生という宝を無事についでいけました。週報発送。)小学校の卒業式に出席。地区園長会。