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四旬節第5主日3月17日「一粒の麦」

12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

ヨハネによる福音書12:23-26

【説教要旨】

牧師を46年務め引退します。長いようで短い日々でした。今回、今までの経験が役にたたないという劇的に世の中が変化している中で、九州にお手伝いに行きますが、どれほどお手伝いができるのか不安です。

日本の福音ルーテル教会を支えた宣教師の中で、ウィンテル牧師とスタイワルト牧師という優れた牧師がいます。お二人は、引退後、新しい出発をされています。

ルーテル教会60周年で、「1950年(昭和25年)3月17日、再び懐かしの日本に9年ぶりで来朝し、全く個人の資格で自由に伝道し余生を愛する日本のために献げて活動しておられる。現在は・・・・・神戸のルーテル聖書学校教授として若い伝道者の養成に働かれている。日本福音ルーテル教会60年の生ける歴史を物語る老宣教師の健在は、わがルーテル教会の誇りであり、後輩者等の崇敬の的となっている。」とウィンテル牧師について記し、「定年と共に帰米の予定であったが、神戸のノルウェイ・ルーテル教会が経営する聖書学院から、学院教授として招聘をうけたために、帰米を断念して、・・・余生をさらに育英事業にささげられることとなった。博士のこの光栄はルーテル教会60年の歴史を飾るにふさわしく、・・・・・今またスタイワルト博士のこの光栄をおもうて、われわれは一層ルーテル教会の光栄を深く感じるのである」とスタイワルト牧師について記しています。スタイワルト牧師は熊本の自宅に神学校を設立、関東大震災にあっては本田伝喜牧師と共に被災された方の救援施設、東京老人ホーム、ベタニアホーム設立に尽力された。

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お二人は、日本の地でその生涯を終えます。ウィンテル牧師は神戸で眠り、スタイワルト牧師は東京で眠っています。

また、私たち、大森教会、甲府教会を開いたエルソン牧師も30歳という若さで天に帰られ、横浜の外人墓地で眠っています。

多くの宣教師が命をささげてくださり、多くの実を結んでいきました。彼らが立派であったからでしょうか。そうではありません。彼らも日々、悔い改めなければならない罪人でした。この罪人を救われたのがイエス・キリストです。救われた人がウィンテル牧師であり、スタイワルト牧師、エルソン牧師です。自分が救われたという恵みを生きた方々です。

「人の子が栄光を受ける時が来た。12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」、人の子が栄光を受ける時、それは一粒の麦が地に落ちて朽ちていく時、死です。人の子、イエス・キリストです。イエス・キリストの栄光とは死です。十字架の死です。栄光などみじんも感じられない十字架の死、ご自分の死によって、多くの実を結ぶ、多くの人を救うという出来事がおこるのです。キリストの十字架の死によって、実を結んだのがウィンテル牧師であり、スタイワルト牧師、エルソン牧師です。

2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われた

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のは恵みによるのです――2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。

憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださるという神の愛が現れるのがイエス・キリストの十字架です。この世に命を越えて2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活する永遠の命を得、永遠の命、神の愛のうちにキリスト共に生かされる存在とされるのです。「自分の命を憎む」とは、十字架にかかられたキリストの命とともに死に、死ぬものとされ、キリストは、十字架の死にあって、神は沈黙しつつも働かれておられた、三日目に復活され命が現れたこの命、永遠の命を愛することです。

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる

「父はその人を大切にしてくださる」と、「大切」、かつて「神の愛」を最初の宣教師らは、「神のご大切」と訳したと言われています。「父はその人を大切()にしてくださる」ということです。神に愛され、導かれているという恵みの信仰が、救い主・イエス・キリストに仕え、従うものとされ、この世の命をささげ、一粒の麦となって日本の地で日本人の隣人となって、地に落ちて死なれたのです。死ぬことが出来た。それゆえ、多くの実を結んでいるのです。 エルソン牧師と働いたルンド牧師は、「教会の歴史の間にはたくさんの転換期や下り坂があり、その歴史からだけでもいつも種が育ち、実をならせるとはいえないのです。しかしその生き方が変えられた人々の生き様を見るときにその種のすばらしさを知るのです。」と言っています。大森教会は、一粒の麦とされたエルソン牧師の一粒の命によって、私たち一人一人は、育った命なのです。踏まれても大きく成長する麦。私たちは厳しい劇的時代に踏まれています。しかし、神に愛され、神に仕える限り、大丈夫、自分だけでなく隣人も愛することの出来るすばらしい一粒の麦とされています。

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日毎の糧

聖書: わたしはあなたの掟を楽しみとし、決してみ言葉を忘れません。       詩篇119:16

 

ルターの言葉から   

 みことばのあるところに、そこに天国とすべてがある。(創世記講義) 『卓上語録』M.ルター著、植田兼義訳、教文館

天とすべてがここにある

 「単に『信仰をもつ』と言うよりも『信仰を生きる』と言うべきです。生きている私たちが、生ける神と生き生きとした関係を持つと言うよりも神により、すでに私たちはその生きた関係にいれられ・・」(LAOS講座 3号)という神との関係によって、私たちが入れられたという神の御業、恵みによって、『信仰を生きる』ことが出来るのです。神と私の関係を明らかにしてくれるのが聖書のみ言葉です。

私たちが生きる土台はみ言葉です。み言葉が全てです。宗教改革三原則の「聖書のみ」、「信仰のみ」、「恵みのみ」ということに繋がっていくのです。

「決してみ言葉を忘れません。」というみ言葉は決意であり、祈りです。み言葉になしに私たちは生きていけないのです。だからルターは、「みことばのあるところに、そこに天国とすべてがある。」というのです。

また、次のようにも言います。「すべての行為の前に神のみ言葉を思い浮かべることは何と大切なことであろう。そのような人はどんなに試みられても心配はない」、つまり、信仰をよく生きるものとされるということです。今の時代の世が信仰を無価値とするとき、世のもろもろを無価値にして、「聖書(み言葉)のみ」と生きることがもっとも恵みである、これを忘れるなと神は声をかけていてくださっています。

祈り)「み言葉のみ」に、天とすべてがあることを思い起こさせてください。

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牧師室の小窓からのぞいてみると

3・11東日本大震災は、13年を迎えた。今年は能登半島大震災があり、震災による人々の苦しみが続いている。

地震大国、日本が避けられない自然の営みである。一人の生活の営みの破壊、そして死は、多くの人の悲しみがある。この苦しみを運命としていくにはあまりにも重すぎる。

津波で漁師をしていた家族を失った方が、その意志を継いで漁師になった。「海が難くてしかたなかった。しかし、今は海に感謝出来るようになった」と言われていた。憎しみから感謝。時は人の心を癒し、人を前へと向けてくれる。13年の時、さらにこれらの時が癒しの時となって欲しいと心から願っている。

今年も東日本大震災を覚えて、礼拝、チャリティーコンサートを開催出来たことを、「3・11」という時を忘れない。

 園長・瞑想?迷走記

小学校、中学校、高校、大学入試の発表の時期となった。卒園していく子ども、卒園した子どもはどうであったか気になる。

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。マタイ4:1」

「幼稚園の価値も何人が有名校に入学したではなく、人それ自身が神にとって貴いものである」と言いながらつい有名校に合格した子どもたちに心が向く、園長には誘惑の時。悪魔の誘惑の時である。イエスさまは悪魔から誘惑を受けるために出かけたが、私は悪魔から誘惑を受ける。これがこの時の正直なところです。「試みに合わせず、悪より救い出したまえ」というと「主の祈り」を強く、何度も祈る時です。

園長への誘惑をイエスさまも受けて下さり、私を霊に導き、有名校入学どうこうでなく、子どもたち一人ひとりが大切だという我により戻してくれる時である。「悔い改めよ」である。

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大森通信

20.日々  

ブラジルから帰国し、最初の就任地、刈谷教会、途中で兼任した元町教会を訪ね、当時の信徒さんに引退報告とこれまでの祈り、支えを感謝に出かけました。この時代、障がいをもっている信徒さんのお子さんめぐちゃんとお友だちをどうにかしたいということから「スモールワン」という障がい児施設を作る夢を持ち、実現に向かいました。そのめぐちゃんは37歳になっていました。めぐちゃんがお母さんと会いに来てくれました。昔と同じように「握手」と平和の挨拶をくれました。

教会に荷を負った方が来ていたそうです。めぐちゃんはいつものように「握手」と隔てなく言ってその方に声をかけたそうです。その方は、「あんただけだ。握手といって自分に声をかけてくれたのは」と言って、めぐちゃんの手を取って泣かれたということです。それを見て、お母さんはすごく反省させられたというのです。自分が壁を作っていたのではないか、声掛けをしなかったのではないかと。

昔と変わらず めぐちゃんは人と隔てをつくらず、人の心を今も動かしている。「君は愛されるために生まれた」という讃美歌が設立の時に歌われた讃美歌である。私は思います。めぐちゃんは、「君は愛するために生まれた」と。めぐちゃんを通して「君は愛されるために生まれた」という恵みをいただいた方は大勢いるのではないだろうか。刈谷、元町の信徒との出会いは「君は愛されるために生まれた」という恵みの出会いだった。

大森日記)今週は遅い主日の準備。)東日本大震災を覚えてチャリティーコンサート。これからも忘れずにやっていこう。)3・11、夜、東日本大震災を覚え、追悼礼拝を守る。忘れてはいけないこと。)引退の感謝の挨拶に愛知県三河にある刈谷、元町、挙母教会に出かける。感謝。)体調すぐれず委員会にzoomで出席。時代は変化。)牧師会、変わりゆく時代にどう宣教していくか。)2024年度幼稚園の教育・保育方針を決めていく。何よりもイエスを見ながら。